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「心残り、ですか?」

 そっと告げられたことばの意外さに、百は首をかしげる。
 当時の百介の記憶にあるのは、人前で取り乱した我が身の至らなさばかりだ。
 いったい又市に何の心残りがあるというのか、彼女は涙に濡れた目で男を見つめた。

 そんな相手を見つめ返し、又市はわずかに気恥ずかしそうに答える。

「あの宿屋で、俺が生きていてよかったと泣いてくれる百介さんを前にして、俺は――又市は、あなたに触れたいと思った。俺なんかのために泣いてくれるあなたの、涙を拭ってやれたらと……思うだけで、果たせやしませんでしたが」

 そのことば尻に、自嘲が滲んだ。

 前世、又市と百介の間には渡世の違い、身分の違いが横たわっており、それが互いを隔てていた。
 彼らは本来、交わらぬはずの者同士であったのだ。
 偶然の出会いから数年続いた交流を、「今生の別れ」を告げてついち断ち切ったのは又市の方だった。
 裏の渡世で生きた彼の、それは堅気への筋の通し方だったのだと、今では百も理解している。

 「又市さん」と、百がそっと囁けば、又市は優しい顔で笑った。

「だからね、百さん。泣いていいんですよ。その心の傷には涙が癒しになるんでしょうし、俺も――ここで、あの夜の心残りをやり直します。あなたに触れて、涙も想いも受け止めたい。そうしたいんです、今度こそね」

「はい――はい」

 うなずく百の瞳から、また涙がこぼれる。
 それを拭う又市の手の温かさに、彼女はしゃくり上げて泣いた。
 手にしたハンカチが、スカートの膝に落ちる。
 そうして、「怖かった」と側の男に腕を伸ばせば、そっと頭を引き寄せられた。
 百は又市の肩に顔を埋め、あとは涙の出るに任せる。
 泣いた分だけ、胸の苦しさが軽くなっていった。