●関ヶ原異聞 189


 刑部は存在の矛盾を防ぐ為、自身を守る意味でも、己が幸福を受け容れるわけにはいかぬのであった。

 千の謀で万の人間を動かす男が、たったひとつの友誼に気付けない。
 よく見知ったはずのこの男について、家康はこのやりとりを通じて初めて、ひととなりの不器用なことを知った。
 彼は刑部へ向かって真摯に告げる。

「病を恐れ、別離を恐れ……全てを否定したのは人間である証拠だ。笑い、憎み、怒り、震え、また笑う……。胸を張れ、お前は誰より人らしい!」

「われよ、その先を聞いてはならぬ……! 去ねや、徳川。ぬしの言い立てる絆なぞ、われの虚ろに兆すはずもない」

 満足に動かせぬ体で家康らに背を向け、刑部は自身の人らしさを頑なに認めようとはしない。
 完全な拒否を示す彼と、これ以上の対話は続けられなかった。
 相手が病身の上、けがを負っていることもある。

「……お市殿、行こう」

 そう声をかけて、明瞭な反応を示さぬ相手を、乱暴にならぬよう両腕に抱き上げる。
 そして、家康は改めて兵らの待つ戸口へ足を向けようとし、最後にもう一度、刑部へ声をかけた。

「刑部……今さら言っても詮ないことだが、お前とはもっと早くに、こういう話ができていたらよかったのかも知れないな」

 だが、今この状況に至らなければ、刑部の胸の内を覗く機会などなかったことも明らかである。
 家康が豊臣傘下であった頃、主に三成越しに接してきた難物の正体を、ようやくに見定めることができた。
 けれど刑部には、西軍の首領格のひとりとして、勝者である家康の命により処断される未来が、ごく近くに待ち受けているのである。

 勝敗は兵家の常であり、武将であれば誰しも敗死の覚悟を持っているが、それでも、家康は胸の内で何がしかの感情が動くのを止められなかった。