とてもしあわせな夢をみていた。
そこはとてもあたたかな場所で、甘い調べが流れていた。
「――ガユス」
「ん……ギギ、ナ?」
身体が軽く揺さぶられ、名前が呼ばれる。
聞き覚えがある、美しい声。こいつに呼ばれると、自分の名前すら心地よい音楽のように響く。
頭や肩に触れてくる優しい感触。額に落ちていた前髪がかきあげられ、柔らかな熱が唇に触れていく。
すぐに離れていった甘い接触が名残惜しく、必死に閉じたがる瞼をこじあける。
穏やかな眠りから目覚めて最初に視界に飛び込んで来たのは、枕にしていた肌色の物体だった。手を伸ばして撫でてみると、まさに人肌の温かさ。硬すぎるのが難点だが、高さは丁度いいくらいだ。
昨日は宿題が多かったせいで、睡眠が足りない。
給食の後に、夏の終わりの涼しい木陰でするうたた寝はとても気持ちが良かった。
「起こすなよ……せっかくいい気持ちなのに……」
「貴様がそれで良いのなら、私は構わんが」
枕を抱きかかえるようにして再びまどろみ始めたところで、ふとギギナの言葉に疑問を覚える。
俺は今、何かを忘れてはいないだろうか。
何故、ギギナは俺を起こしたんだ?
「……――しまった、授業は!?」
不意に思い出した重要事項。ここは学校。今は昼休み、のはずだ。恐らく、まだ。
飛び起きた俺は、しかしまずギギナに怒鳴りつけずにはいられなかった。
「何で膝枕なんかしてるんだよっっ!!?」
「貴様が勝手に私の膝を抱き込んだのだ」
「振りほどけ。いっそ突き飛ばしてくれ!」
お互い学校の制服に身を包んでいるから、白い半袖のシャツに紺色のタイをつけ、紺色の半ズボンをはいている。
つまり先程まで俺がぬくぬくと枕にしていたのは奴の膝――なんと素肌に頬を摺り寄せていたことになる。
「人の好意に大した言い草だな」
「そんな好意はいらん。おまえだって野郎の膝枕なんて気色悪いだろうが」
実はあたたかくて心地よかったのは秘密だ。ギギナなんかに抱え込まれる格好で安らいでたなんて、他人に知れたら何を言われるかわかったもんじゃない。
「それより……鐘はまだ鳴ってない、よな?」
「否。もうとっくに鳴り終わったが」
「……さっさと起こせよ!」
この場合の鐘とは、昼休みの終了と午後の授業の開始を知らせるものだ。
真面目な生徒と評判の俺としては、うっかり食後の一眠りが長過ぎてサボりましたなんて情けない真似は非常に不本意だ。傍若無人に人生を謳歌しているギギナは、外聞なんてどうでもいいんだろうけど。
ドラッケン族との混血だという、顔は綺麗だが性格は極悪な少年は、これまで学校に通ったことは無かったらしい。
父親の仕事の関係で一ヶ月の間だけ町の学校に入ることになったそうだが、まず社会性を身につけるとか何とかで、本来は中等部の一年になるところを小等部の最高学年に放り込まれたらしい。
年齢通りに中等部に入れなかった親は、ある意味において理性的だと思う。年長者を敬うということを知らない少年は、相手が教師だろうと気に入らなければ返事もしない。仮にも最上級生だけに小等部でギギナに突っかかる奴は少ないが、これで中等部の最下級生だったら即日病院送りになってるだろう……上級生が。
俺としては、今になって社会性を仕込むくらいなら、幼少期から躾けろと言いたい。
身長は平均よりやや小さく、細っこくてあくまで子供にしか見えない俺とひとつしか違わないのに、ギギナは既に少年期から青年期に入りつつある。伸びやかに逞しい男の身体へと成長している真っ最中で、喧嘩の腕も相当なものだ。力量を読めず突っかかった同級の馬鹿どもは、転入初日から酷い目にあわされていた。
その所為で、同級の学級委員なんてやってる俺は大迷惑だ。うっかりと奴の世話係に任命されて以来、近頃は気が休まる暇がない。
年齢ゆえというより種族特性なのだと思うが、人を人とも思わぬ性格の癖に、何故か俺のことは気に入ったらしく勝手に背後についてくるのが非常に鬱陶しい。
授業を全く聞く気がない堂々と開き直った態度に、男性教師からは何故か俺が代わって注意を受けて説教され、女性教師からは嫉妬の視線を向けられる。小学生を誘惑するなと言いたいが、何しろギギナだしな……むしろ、教師を誘惑するなと言うべきか。本人は向こうが勝手に寄ってくると言い放つが、確かにさすがにギギナから誘ってるようには見えないけど、どんだけフェロモンだしてんだか。どちらにせよ、本来は俺が怒られる筋合いじゃない。
俺が怒り狂って抗議してもギギナは何処吹く風と平然としたもので、先に教師連の方が黙り込んだ。一ヶ月の辛抱とはいえ、俺の精神は色々と限界だ。奴の極上の顔と声があるからこそ、まだ周囲にうろつかれても耐えていられるが。お陰で、面食いは改めないと酷い目にあうという悟りも開いた。
「次は音楽だっけ。よりによって教室移動じゃないか」
「……このままサボればいいだろう」
平然と授業放棄を宣言した少年を、俺はじろりと睨みつける。
ただし、全く効き目がないというのも承知していた。
僅か12歳の子供に興味津々な女教師の中でも、ピアノが得意な音楽教師はギギナに特にご執心で、授業の度に奴の独唱に併せてピアノを弾いている。
あれはさすがに職権乱用だと思うのだが……まさか。
「……まさかギギナ、音楽の授業が嫌だからわざと」
「黙って寝ろ」
「誤魔化すなよ。歌だけは取り得なんだから、聞かせてやればいいだろ……うわっ」
ぐいとタイを引っ張られて、再び奴の上に転がされる。
嫌だといってるのにまたも膝枕の体勢に戻され、溜息が洩れた。
「そんなに聞きたいなら、思う存分聞かせてやろう」
「別に、俺は――」
歌を聴きたいなんていってない。と、言い終える前にギギナが静かに歌いだす。
子守唄のような優しい調べが響き始めると、制止しかけた言葉が止まる。
この美しい歌を独占できるなら、それで。それだけで、十分に一時限サボる価値があると思う。
ギギナが誰にでも歌ってくれるほど親切じゃないと知っているから、尚更だ。
「……おやすみ、ギギナ」
呟くと、ゆっくりと眼を閉じる。
たった一ヶ月の短い間でも、この少年と出会えて良かった。
たとえ――俺のことなんかすぐに忘れられてしまうのだとしても。
俺の中には、きっと永遠に失われない記憶が残るだろう。
とてもしあわせな夢をみていた。
そこはとてもあたたかな場所で、甘い調べが流れていた。
「――ガユス」
「ん……ギギ、ナ?」
身体が軽く揺さぶられ、名前が呼ばれる。
聞き覚えがある、美しい声。奴に呼ばれると、自分の名前すら心地よい音楽のように響く。
頭や肩に触れてくるのは優しい感触。額に落ちていた前髪がかきあげられ、柔らかな感触が唇に触れていく。
すぐに離れていった甘い接触が名残惜しく、必死に閉じたがる瞼をこじあける。
穏やかなまどろみから目覚めると、ひとつ年上の男が俺の顔をじっと覗き込んでいた。
「起こすなよ……せっかくいい気持ちなのに……」
「貴様がそれで良いのなら、私は構わんが」
寝返りを打ち、再びまどろみ始めたところで、ふとギギナの言葉に疑問を覚える。
俺は今、何かを忘れてはいないだろうか。
何故、ギギナは俺を起こしたんだ?
「……――しまった、仕事は!?」
今日は珍しく仕事が入ってるのに、うっかり寝過ごした。
それもこれも、ギギナが今日は仕事だってのに昨日の夕方から俺を寝台に連れ……いやいや。それはさておき。
「ああもうぎりぎりじゃないか! さっさと用意しろよギギナ!!」
「わざわざ起こしてやったのに随分な言い草だな」
呆れた顔のギギナを見ていると、何かを忘れている気がした。
先程まで、どんな夢を見ていたのだろう。
何か、ギギナが出てきたような微かな記憶がある。そしてとてもしあわせで、やすらいだ夢だったことだけを覚えている。
「――どうした、何を呆けている。とうとう脳が劣化した余り仕事の準備も忘れ果てたか?」
「いや……」
思い出せないのだから、大して重要な内容ではないのだろう。
ただしあわせだった記憶の破片が、胸の内に残っている。
甘やかな夢の残滓は、俺を少しだけしあわせにしてくれた。
たとえ、すぐに忘れてしまうのだとしても。