夏バテ防止には、たっぷりと食べるに限る。
火竜として生まれて千年。人族に混じる間に良いコトも悪いコトも覚えたが、最も活用しているのは調理技能だ。
放っておくと肉ばかり喰いたがるドラッケンに、栄養バランスを考えた餌を与えるのは、もはや習慣となっている。
「だからギギナ、野菜も残さず喰えって!」
「貴様は肉ばかりではないか。それもレアどころかナマの」
光熱費削減の為、事務所の冷房は止まりっぱなし。せめて精がつく物を食べなくては、竜だろうが辛い。
ただし俺の前に血も滴る肉塊が置かれているのは、寧ろ財政悪化に伴う手抜きの結果だ。ちなみに俺自身の夜陰に紛れた狩りの成果であり、事務所の貴重な収入源ともなる。
「俺は肉食動物だが、おまえは雑食だろうって、おい!」
素知らぬ顔をした人族が、緑黄野菜をささっと俺の皿に押し付けてくる。それで食餌は終わりとばかりに立ち上がる男を睨み付けると、逆にまじまじと見つめ返された。
「……何だよ」
「血も乾かぬ肉を、素手で食べるのは止せ」
「ん? どっかついてるか?」
自分を見下ろすと、腕が血で汚れていた。
行儀が悪いとは思うが、こういう食餌にナイフやフォークを使うと食べた気がしないのだ。
舌の先を使って、肘から手首にかけての赤い液体を拭う。
ちろちろと丁寧に舐めとってから視線を上げると、妙に顰め面で俺を見る眼差しにぶつかった。
「―――頬にも、飛んでいるぞ」
「……こっちか?」
示された辺りを手で拭うが、見当違いだったらしい。ギギナが手を伸ばして来たので、大人しく待ってみる。
ところが顎に手を添えられて、動きを止めた俺に与えられたのは、予想外に濡れた感触だった。
ぴちゃりと、恥ずかしい音が事務所に響く。
「ちょ、おまえっ!」
「綺麗にしてやっただけだろう。獣が何を恥らう」
「動物相手なら気にしないが、おまえは人間だろうが!」
「貴様は爬虫類なのだから、問題あるまい?」
ギギナとしては大型のトカゲを愛でたつもりでも、俺にとって意志が通じ合う人族は、恋愛対象にすらなり得る。
つまり、こんなキスに似た行為を黙ってはいられない。
「竜族を爬虫類と一緒にするな!」
「同じ変温動物だ、似たようなものだろうが」
この男は絶対、わかってやっている。
他者の羞恥心を理解している証拠に、恥じらいが欠如したドラッケンは、嫌味な笑いを隠そうともしない。
「それにしても貴様……」
ふと表情を改めたギギナが、いきなり腰へと手を回す。
とっさに身をよじったものの、逃げ損ねた挙句に背後から軽々と持ち上げられる。
「離せっっ!」
「少しは控えないと、太るぞ?」
首筋に吐息がかかり、重低音が骨まで響く。
当の本人は戦闘時に運ぶ荷物の重さを確かめているだけでも、全身が密着して互いの熱が交じり合うと、背筋がゾクゾクして逃げ出したくなってくる。
「何キロか増えたって、大して変わらないだろ!」
「元の姿に戻れば些細な違いか……」
撫で回されて、肉付きが確認される。焦って暴れてみても、人の領分を守っていてはギギナを振りほどけない。
「そんなに嫌がることはあるまい。失礼な奴め」
「暑苦しいんだよっ!」
「いつも、もっと熱烈に抱き締めてやっているだろう?」
やたら卑猥に聞こえるのは、故意なのか自意識過剰か。
目敏い男はきっと、俺が耳まで赤く染めているのに気づいている。俺の動悸の激しさを面白がっているのだ。
「かなり体温が高いぞ。夏場は熱中症に気をつけろ」
「誰のせいだと思ってやがる!」
「……誰のせいだと?」
首筋に鼻先を摺り寄せられて、ますます熱が上昇した。
本気になってギギナを引き剥がすと、間合いを取りながらじりじり後ずさる。奴に触れられた所為でのぼせました、なんて恥ずかしすぎる。
だが、冷房無しのただでさえ暑い事務所では、一旦上がった体温は簡単に下がりそうになかった。
「いいだろう……変温動物らしい方法で、夏を乗り切ってやろうじゃないか」
ふっと笑みを浮かべると、奴の言い草を幸いと咒力を解放。知覚眼鏡が膨大な咒力を計測して悲鳴を上げるのも気にせず、一気に周囲を適温まで引き下げる。
有り余る咒力の無駄遣いと言うなら言え。咒弾と違ってこちらはコストゼロのクリーンなエネルギーだ。誰にも迷惑はかけていない。
「……ずるいぞ貴様。人として暑さに耐えろ」
「これは寧ろ、俺が人らしくあるために必要な行為だ」
俺の行為を理解したギギナが気色ばむが、そもそも俺は人間を装う為に恒常的に咒力を使っている。それらを全て停止すれば、まずは十トンを超える自重で事務所が崩壊する。第一、人型ではいられない。
文句があるかと開き直ると、ギギナは意外にも薄ら笑いを浮かべてみせた。
「ならばガユスよ。その身体を私に差し出せ」
「…………は?」
唐突なギギナの言葉が理解できず、動けなかったのを誰が責めるだろう。
己の容貌が異種族に対してさえ(正しくは俺に対して)効力を発揮すると承知している男が、流し目ひとつで手足の自由を絡め取る。ギギナが再び近づいてくるのを、俺は呆然と見つめるばかりだった。
「――抱かせろと言っているのだ」
更なる追撃は間違えようもない甘い意味を含んでおり、立ち尽くす俺を力強い腕が引き寄せる。
鈍い奴め、と耳元に囁かれて背筋が粟立つ。
「逃がしはしないぞ、私の竜……」
自分より大きな身体に包み込まれる感触は、俺にとって思いがけぬ心地よさだった。
ギギナの告げた言葉が、人間の習慣にどっぷり使っている俺の心に種の違いを超えて作用する。
しかし直後に、奴の意図するところに気付く。
奴がうっとり見惚れるのは、いつだって竜身に戻った俺だ。その場合に刺激されているのは、欲は欲でも戦闘欲。もしくは征服欲だとしても、想像したような欲情とは意味が違う。言葉の真意をうっかり誤解してはならない。
「……ひとを冷房器具扱いするな!」
「ひと、ではあるまい」
拘束する腕に尖った犬歯で噛み付こうとすると、察した男があっさり俺を解放する。
突っ込むとこソコなの!? という部分に反応したギギナから、冷房うんぬんの件には反論がなかった。つまり、予想通りに俺が咒力で作り出した冷気層が目的という訳だ。
欲しいのは身体だけ、ですらない利用目的に腹が立つ。
苛立つ自分の心理を分析して、仮にも長命竜たる自分が百年も生きていない存在に翻弄された事実に悔しくなる。
更に情けなくもちょっと泣けてきた俺は、ギギナを押しのけた勢いのまま、魔杖剣を引っつかんで事務所の外へと飛び出した。
冷気を事務所内に広めるくらいは大した労力でもない。普段ならぶつぶつ言いながらもサービスしてやるが、このまま奴に使われる気分にはなれない。
ばたばたと騒がしく事務所を後にする俺を、ギギナが追ってくる気配は無かった。どうせ、俺がいなくなれば冷房をつければいいと思っているのだろう。
しかし事務所から大分来たところで、奴の去就を窺っていた俺の耳に予想外の言葉が飛び込んでくる。
「……あんな顔をするなら、本当に抱かせればいいものを」
竜の聴覚は人間を遥かに凌駕する。
恐らくは聞かせるつもりのなかったギギナの呟きを耳にして、顔が燃えるような錯覚を覚える。
その言葉の意味を図れぬほどは、さすがに鈍くない。
ああしまった。聞き耳なんて立てるんじゃなかった。
思わず立ち止まったものの、俺は再び走り出す。
竜の誇りも意地も投げ捨てて、ギギナに追いつかれないように。俺よりよっぽど野生の勘に優れたドラッケンに、何かを気づかれないように。
けれど明日、どんな顔をして事務所へ行けばいいのかは、どれだけ考えても思いつきそうになかった。