彼は何かを知っている

 俺がとっくに気付いている秘密に、ギギナはずっと気付かないままだ。


 おうちに帰ったら、すぐに手洗いうがいをしましょう。
 そんな標語を実践する高位咒式士は少ない。不潔なのは論外でも、病魔への耐性は並みの人間よりずっと上なのだから。
 それなのに本日のギギナは、事務所に戻った途端に俺を押しのける勢いで水場を占拠した。念入りに顔や手を洗い、うがいを繰り返す男を見ていると苦笑が洩れる。
 奴がしつこく口をゆすぐ理由は、俺には明白だった。
 しかし当のギギナは無意識なのが非常に笑える。
「……何がおかしい」
「熱心だなあと思っただけだ」
 にこっと微笑みかけてやると、ギギナは微かに眉を顰めながら再び口をゆすぎ始める。
 そんな落ち着かぬ相棒を横目に、俺は一緒に購入して来た大量の食材を仕舞い始めた。
 ちょっとしたゲームに勝った俺が罰としてギギナに提示したのは、安売りスーパーへの買出しの手伝いだった。どんなペナルティを予想していたのか、存外に大人しく荷物持ちに従った男がいると、燃料代無しで車を出す以上の荷物を買い込めるのが助かる。それらの大半が奴の胃袋に納まるのだから当然ともいえるが。
 その帰り道にギギナに声をかけてきた、とびっきりの美女こそが奴の異常の原因だ。
 かつて糞ドラッケンと夜を過ごしたらしい彼女は、ギギナへの未練が透けてみえた。対する奴は相変わらず薄情なものだったが、いつもなら絶対に許さない行為に彼女は成功してみせた。
 別れ際、手を伸ばした美女はギギナの唇を奪っていったのだ。
 両手にこれでもかというほど大量の荷物を持った男が、ほんの僅かに意識を逸らした一瞬の出来事だった。
 女から触れられるのを嫌がる男の隙をついた、見事な手際には拍手を贈りたい。
 珍しくもしばらく凍りついたギギナの顔を見ながら、込み上げてくる笑いを堪えるのは大変だった。
 奴が我に返った時には美女の姿はなく、不機嫌が頂点に達したギギナとついに噴き出した俺だけが路上に残されていた。
 繊細とか神経質といった言葉ほど、ギギナに似合わぬ単語はない。けれどこの手の行為に関してだけは、ギギナが潔癖症なのではと疑ってしまう。
「あーんな美女からのサービスに、念入りにうがいするってのはどういう了見だよ」
「別にそれは関係ない」
 相棒の失礼を咎めると、きっぱりと力強い否定が戻る。
 多分、奴はその言葉を本気で口にしている。
 傍から見て明らかにうがいの回数が増えているのに、他人からの接触を嫌がるイキモノはあからさまな行動を当然で普通だと信じている。
「自分の嫌なものを客観視も出来ないのは弱さの証明だと思うぞ」
「だから私は、別に」
「役得だと思うけどな。まあ触られても泣き出さなかったのは褒めてやるよ」
 にやにや笑って揶揄すると、ギギナは益々不機嫌になる。
 今にもネレトーを振り上げそうな男に、俺は寛大な気分で笑顔を向けた。
「仕方ないから、俺が消毒してやろう」
 立ち上がるとギギナへゆっくり近付いていく。
 怪訝そうに俺の動向を窺うギギナは、動こうとはしない。
 これ幸いと真正面に立って背伸びをすると不審そうに見下ろしてくる。
 奴が動かないのを確かめながら、深呼吸をひとつ。


 そのまま、ちゅっと音を立てて唇をついばんでやった。


 息を飲むギギナの気配を感じながら、閉じていた瞼を開く。
 限りなく間近で見た相棒は、茫然として僅かに頬を染めていた。
「――ガ、ユス?」
「消毒って言っただろ」
 文句あるなら言ってみろと、にこやかに凄むとギギナは黙り込む。
 その顔には困惑だけが浮かび、嫌悪は微塵も存在していなかった。
 ギギナは自分が他人の熱を気持ち悪いと感じている理由を突き詰めて考えない。そして仕事中に俺を抱えて、その体温を感じることは忌避しない理由も自己分析していない。
 ギギナが隠してすらいない秘密に俺はとっくに気付いているのに、当の本人は露骨に真実をさらけだしながら素知らぬ間抜け顔をしている。
「俺に触られるのは、嫌じゃなかっただろう?」
 むっとした顔で、それでも黙り込んだ奴の態度が全てを肯定している。
 けれど彼は、どうして自分が『嫌ではない』のかわかっていないのだ。
 あまりの低脳ぶりがおかしくって仕方ない。特定の誰かになら触れられても嬉しいだなんて、わかりやす過ぎる反応じゃないか。
「……眼鏡台ごときが生意気な」
「キスを通り越して、すぐ突っ込んでるような奴に言われたくないな」
「口からも性病はうつるというのに、軟弱な貴様にしては剛毅なものだ」
「お前こそ、病気なんて関係ない生体系咒式士の癖に情けない」
「今はたまたまだ。貴様に触れられて不愉快なこともある」
「お前さ――俺に触るのが嫌なのって、どんな時かわかってるか?」
 女を抱いた直後のギギナは、俺との接触を嫌がる。
 俺が夜の痕跡を見出すのを恐れるかのように。
 そんなことある訳がないのに、ギギナに触れた俺が穢れると信じているかのように。
「貴様の軟弱菌が私にまでうつりそうな時は腹が立つ。つまり常に苛立つということだな」
「……まあ、そういうことにしといてやるよ」
 矛盾した言葉を不満げに言い募る男をいなしながら溜息を吐く。
 己の容姿にコンプレックスを持つ男は、自分がどれだけ美しいイキモノなのかを知らない。
 人の心の機微を切り捨てて、己が何を欲しているのかすら気付かない。
 俺が、何に気が付いているのかわかろうとしない。


 早くお前から手を伸ばし、俺にくちづけて愛してると吐いてしまえ。
 そうすれば楽になれるのだ。
 おまえも、そして俺も。


茶会発、普通のちゅう話、だった。なんか論点がズレた。

獣とバイオタイド