眼が覚めたのは事務所の仮眠用寝台の上だった。
ずきずきと頭の芯を貫くのは、何度も経験してきた典型的な二日酔いの痛み。それどころか腰や背中も痛いのは、床でしばらく寝てたのかもしれない。全身を覆う倦怠感といい、これまでの人生経験からしても酷い方から数えた方が早い状況だ。
どうせ本日も仕事の依頼は無いから構わないのだが、突発的に美人の依頼人が駆け込んでくる可能性もある以上、ここまでの深酒は止そうといつものように胸に刻む。いつも、破られてしまう誓いを。
やたらと重く感じる腕を動かして、枕元に転がっていた知覚眼鏡を装着。探知するまでもなく、感じ慣れた咒力と天井から降ってくる歌声が、奴がもう事務所に来ているのだと教える。酒の味を理解できないお子様に絡まれる前に、さっさと起き出すことにする。
言うことをきかない身体を引きずるように事務所の長椅子に座り込んでいると、やがて屋上から降りて来た男が意外そうな顔をした。この状態で朝から起きてくるとは思わなかったらしいが、俺の方でも失敬なその反応にムカつくのを忘れるくらい、意外なモノを発見していた。
いつものように曝け出されている鎖骨あたりに、赤い痕跡がついている。
これは珍しい事態だ。漁食家と名高い割に女に――他人に触られるのを嫌うギギナは、女の気配を残していても、情事の痕跡を残していたことは無かった気がする。
どこの誰だか知らないが、ギギナの喉元に噛み付くなんて根性のある女もいたもんだ。
気付かない振りをして、迂闊な姿を嘲ってやるかと考えたが、バラした方が面白いに違いない。
思わぬ不覚に――奴にとっては恐らく――狼狽えるギギナなんて滅多とない見物だ。
「ギギナ、痕がついてるぞ?」
にやりと笑って指摘すると、胸元を見下ろし微妙に表情を揺るがせる。
しかしその表情は、俺の予測とは方向性が異なっていた。
不愉快というよりは楽しげで、嬉しそうな成分すら混じってみえる複雑な色。どうやら奴は、刻まれた所有のしるしに決して怒ってはいないらしい。これはもしかすると、うっかりして消し損ねた訳ではないのだろうか。
「――そうだな、勿体無いから隠しておくか」
「へぇお前でもそんな……」
羞恥心というものがあったのかとからかいかけ、少し意味が違う気がして口ごもる。
痕を見せびらかすのでなく、痕すらも独占したいという気持ちは、恥ずかしさでなく執着心から生じた言葉に聞こえた。
お前にそんな、逞しい身体に手を伸ばして首元に吸いついても優しく笑って許す相手がいるなんて。
あまりに意外すぎて、戯言も途切れてしまう。近頃、切なく独り寝を続けてる身としては、何だかムカつく。相棒が他人をそこまで受け入れたというのは、どちらかといえば人間としての進歩だと祝ってやるべきなんだろうが。
複雑な想いが脳裏を駆け巡り、やっぱり一言だけと思って口を出た声は酷く掠れていた。
「……お前にも、隠そうと思う羞恥心があったとは驚きだな」
「貴様――本気で言っているのか?」
妙に心細げな響きに聞こえたのはかなりの失態だったが、妙に気色ばんだ男に睨まれて戸惑いを隠せない。
そこでどうして怒る理由が生じるというのか、相変わらずドラッケンは意味不明だ。
俺に揶揄されて苛立ってるのとは違う感じがするけど。
とりあえず、情事の痕跡を隠したいって気持ちは恥じらいに分類していいんじゃないか?
「本気っていうか……単なる軽口だろ」
「まさか全く覚えていないのか」
「………………なにを?」
やたら真剣にこちらを窺ってくる男の意味不明な発言に困惑する。
人より数段記憶力のいい俺が、何を忘れているというのか。
確かに昨晩の記憶はほとんど無いが、ひょっとして俺はとんでもないコトを仕出かしたんだろうか。ギギナが怒るような……って、この状況で腹を立てるコトってのは嫌な予感がする。深く突っ込むと危険な気がして、こちらを凝視し続けている男からそっと視線を逸らしたというのに。
「この痕は貴様が――……」
「わーっっそうだギギナさん、腹が減ってるだろ何か朝飯を作ってやろうか!」
いつもなら大喰らいの欠食児童が眼をぎらつかせる切り札は、何故か今日は効きが悪い。
食い気に惑わされず怒りを持続させるなんて、家具が絡む事柄以外では初めてだ。いや、遮った言葉の中味が問題だなんてことはありませんよ多分。きっと。
「誤魔化すな」
「別に何も誤魔化してなんか――」
ずいとにじり寄られて、思わず言葉が途切れる。
いや誤魔化すも何も、酒のせいで昨晩の記憶が本気でさっぱりなんですが。
しかし洒落にならない言葉の断片を幻聴と切って捨てるだけの根性もなく、いっそそうした方がいいと思いつつも、賢い脳細胞はフル回転で記憶をたどる。
すぐ傍へと近付いてきた男が、俺の襟首をつかもうと腕を伸ばす。
その白く大きな手を見つめていると、微かに何かが脳裏を過ぎった。
つい最近、この手が俺に向かって伸ばされた記憶がある。普段は刀を握る力強く逞しい腕。長い指を持つあの手が頬を包み込み、美麗としか言いようもないあの顔が俺に近付いて、俺もまた腕を伸ばして奴にすがりつき。太い血管が透ける白い首筋の急所の上に噛み付いて――………
「う、あ、あああああああああああああああ!!」
「――ガユス!?」
突如として頭を抱え込んで奇声を発した俺へと、ギギナは驚いた表情で手を伸ばしてきた。
咄嗟に俺を案じたような、見慣れた悪意は皆無の表情が、思い出してしまった『夜』と重なってますます錯乱の度合いが酷くなる。
「何でもない、何でもないからちょ、寄るなって――っっ!!」
喚き散らした俺は、ギギナが動きを鈍らせた隙を縫って、長外套だけを引っつかんで事務所を飛び出した。
勿論、その気があればギギナが俺を捕らえるのは簡単だったはずだから、見逃されたということになる。
恐らくは、耳まで真っ赤に染まっている俺を哀れんで。もしくは放置しておいた方が面白いと踏んだのかもしれない。
なにしろ街中をどれだけ彷徨おうとも、結局は俺の帰る場所はあそこしかない。戻ってギギナと向き合うのが、早いか遅くなるかというだけの違いだ。
ゆうに数時間はエリダナをうろつき歩いた後、昼前になって俺はようやく咒信機を取り出した。
珍しくもワンコールで応じた相手に一言、飯を食いたければ荷物持ちに来いと言って通話を切る。ギギナが満足する量の食材を独りで持ち運ぶのは無理だし、そもそも今日は体調がすぐれない。二日酔いは収まったが、下半身のダルさは未だ無言で事の次第を主張している。
少し待てば、愉しげに笑みを浮かべたケダモノがすっ飛んでくるはずだ。
その男が珍しくきっちりと服を着こんでいたら、露出を抑えたその格好こそが奴の俺への独占欲の表れなのだ。その秘密は、俺達以外の誰にも知られなくていい。
俺もまた、ギギナの姿に満足してこっそり笑みを噛み締めるだろう。
ギギナが俺を独占したがる想いが俺を楽しくさせる。
その心は、俺だけの秘密だ。