ガユスが自分を強いと言う度に、ギギナの心はどこかざわめく。 その言葉が口にされる時、相棒が指しているのはただ腕力の差というだけではない。 系統が違う為に、目に見えて表れる腕力や体力といった前衛の咒式士に必要な能力だけならば、確かにギギナが圧勝する。ガユスごときに負けるはずはない。 だが。 彼らは、ふたりきりになってからはより一層、互いの領分を見定めて、相手を補う為に力を磨いて来た。お互いに、相手がいなくては(意識してそうしたのでなくても結果としては)不完全になるように己を形作ってきた。如何に口先で罵り合おうと、根底には信頼があった。仕事に際して相手の裏切りを疑ったことはない。 内包する咒力そのものは互角、階梯もほぼ対等な関係で、咒式士として必要となる最低限の基本分野を底上げすれば二人という単位の実力も向上。相手の領分を侵さぬからこそ、いつまでも相手を必要としている。していられる。歯車が噛みあえば、力は倍どころか掛けあわされて増大する。 そして、それでも。 ガユスはギギナを見つめて「おまえは強い」と呟く。 それが腕力を指すなら、生体咒式士なのだから当然のことと受け流せばいい。相棒がたまたま格闘において劣った己を不甲斐なく思うなら、放っておけばいい。それは領分として仕方ないことと、自身で整理をつけるべき、つけられるはずの分野だ。 だが、しかし。 彼が時にギギナの内面を指して「おまえは強い」と呟くたびに、ギギナの心は微かに揺らぐ。 ガユスに劣ると思ったことはない。情に流される、甘さを見せるガユスを情けなくも不快にも思うことがある。己が失った(捨て去った)想いを、もしくは生成したことがない感情を、後生大事に抱えようとして、抱えきれずに取りこぼし、傷ついて独り唇を噛む男を愚かしく思い、どうしていいかわからなくもなる。 ギギナの心はそんな些末事では揺らがない。 揺らぐことが、出来ない。 感情の振幅が僅かで情に流されて道を違えることなく闘争だけを至上のものとして。少なくともそう有りたいと願って、生きている。誇り高き闘争の道を、誰にも邪魔はさせない。生き方を変えたりはしない。必要ならガユスであろうと切り捨てるだろう。 ガユスはそんなギギナの心のあり方をこそ、強いと呼ぶ。そう呼んで憧れの眼差しを向けてくることがある。自分には出来ない生き方だと言って、自分が侵すべきでない領域だと言いながら、遠く離れた場所に心を置いて眺めてくる。 そして彼は変わっていく。 周囲を取り巻く人々との交わりで、痛みを覚え嘆き苦しみながら、ガユスは変わっていく。少しずつでも確かに。目に見えぬほどの変化を、それでも感じている。いつも隣にいるからわかる。そして、変わりゆく彼の横で自分は何も変わらずに、変われずに黙って立っている。立ち竦んでいる。 心が動かず揺らがず変わらないから、変われないまま、いつまでも此処にいるしかない。 ならばいつか自分こそが、彼に置いていかれるのかもしれない。 それでも――揺らがぬ心は強いのだろうか。揺らげないことは強さなのか。 彼が強いと称える度に心がざわめく。 本当に自分は強いのかと。自分の持つものが、強さであるのかと。 揺らがぬ心だけが強さではないと知っているから、いつも心はざわめいて揺れる。 そのざわめきの名前を不安といい、それは多分、ギギナが強くは無い証だ。ギギナも強くはない証だ。そして、そのざわめく心を言葉に出来ないのが、いつでもギギナとガユスが擦れ違う理由なのだろう。 いつか利害の対立によってではなく、生き方の違いによって、相手を裏切る可能性があると示唆しているのだろう。 その時にガユスを許せない、許さないと決めていることが。放してはやらぬと既に決めていることも、ギギナが決して強くない証であり。ギギナはガユスより強いから、ガユスが絶対に逃げられないのも既に決まっていることなのだ。 |