いつも通りのくだらない仕事の後。
 うっかりと浴びてしまった〈異貌のもの〉の体液を洗い流すため、俺は事務所に帰るなり、独りで浴室へと飛び込んだ。
 どろりとまとわりつく感触が非常に気持ち悪い。おまけに狭い車内にこもっていた所為で、耐え難い臭気もたっぷり味わえてしまった。俺が言うのもなんだが、よくギギナから文句が出なかったものだ。ちらちら物言いたげに視線を向けられはしたが。
 頭からシャワーを浴びて、粘つく感触が無くなったところで、ようやく人心地つく。俺ばっかり粘液にまみれて、こんな時でもあいつはキレイなのが腹の立つところだ。妙な色に染まったシャツは廃棄処分にするしかないのもムカつく。
 脱衣所に出て髪を拭いながら、引っ張り出しておいた予備のシャツに袖を通す。普段はしまいこんであるソレは、いささか埃っぽい。仕方ないながら溜息を吐いて、眼鏡を装着。風呂上りの熱気のせいでレンズが曇るが、気にせずに放置。ついで下穿きに手を伸ばそうとしたところで、俺はピキリと凍りついた。
 カゴの中に入れてあった、黒いズボンの上で、何かが動いている。
 何か――焦げ茶色をした丸っこいモノが。

 ピクピクと震えている触角。
 カサコソと足音まで聞こえる気がする。
 ああ、見覚えたくないのに一度見れば忘れられぬこの物体は。


「………………うわあああああああああああああっっ!」


 つい数秒見つめあってしまった後で、俺は力一杯絶叫しながら脱衣所を飛び出した。
 例の物体と素手で、しかも半裸で相対する気にはなれない。
 みっともない格好だとは思うが、一匹見つけりゃ三十匹は隠れていると格言のあるアレを放置して、ネズミ算てかG算で増えられたら後悔してもしきれない。一瞬たりとも見たくない相手だが、未来を考えて覚悟を決める。ここは殲滅あるのみ!
 ボタンも留めていないシャツを羽織っただけの姿で事務所に飛び込むが、当然のように客の姿は無い。こういう場合でも確認の必要がない業務状況にこの時ばかりは感謝して、買い置きがあったはずの殺虫剤を探す。
 血相を変えて室内を見回す視界の内に、何故か凍り付いているギギナが飛び込んで来るがあえて無視。Gごときに云々と言われたらブチ切れる自信があるっていうか、争ってる間に逃がしたらマズいし。
「貴様、何を…………」
「ああん?」
「何故あんな声を…………」
 お目当てが見当たらないのに苛立ち非常に投げやりに対応した俺の耳に、珍しくも呆然とした響きを宿す相棒の声が届いて、ようやくまともに視線を向ける。
 するとドラッケン族は屠竜刀を片手に何故か戦闘体勢に入りかけ――って、俺が絶叫したせいか。何というか一応心配してくれちゃったりした訳か。襲撃の可能性を否定しきれない人生送ってるしなあ、職業的に。
「あー……悪い、ギギナ。いいんだ気にするな」
 ちょっとだけ申し訳ない心境に陥り、これまた明日は嵐になりそうなほど殊勝にも、奴に詫びてみたりする。俺としても大げさだったかなあと思わないでもないのだ。言ってみればたかが昆虫、節足動物。しかもどこぞの咒式士とは違ってアレは人間を襲ってこない。向かってくることはあるけど、そこに殺意はない。
 少し冷静になったところで、そういや殺虫剤は自宅に持ち帰ったのだと思い出す。ううむ、アレを潰す感触ってのが大嫌いだったりするんだが叩くしかないか? ……ギギナに助けを求めたら怒るだろうな。いいや、軟弱者と蔑まれたって、嫌いなモノは嫌いなんだから仕方ないだろうが! さあそのネレトーを古新聞にでも持ち替えてGを狩って来い!
 と、けしかけたくなりつつ横目で奴の動静を確認すると、意外にも先程とほとんど変わらぬ姿勢で食い入るようにコチラを凝視している。何もそこまで呆けなくても。なんですか、俺が謝ったのに怖気が走るほど驚いたとか。俺も驚いたけどね。
「……なあ、ギギナ」
 珍しくも毒気の抜かれた様子のギギナに、そっと近付く。
「頼みがあるんだけど……」
「――なんだ」
 にっこりと微笑みながら『お願い』する。なるべく愛想よく。
 ギギナに笑顔を振りまくなんてゾッとする行為だが、背に腹は変えられない。せっかく立っているんだ、無神経ドラッケンを使ってやろうじゃないか。
「脱衣所にGがいるんだ。何とかしてくれないか。このままじゃ着替えに戻れないんだよ」
 少しでも愛らしく見えるように。上目遣いに切々と訴えてみる。客観的に考えると、成人男子が哀願する様子なんて気持ち悪いと思うけどな。しかも我ながら内容も情けないが、しかし。
 何故かギギナは小さく息を飲んだ。眉間に皴を寄せ、何かに耐えるように拳を握りこむ。いや、そこまで辛そうにされると困るが……実はおまえもそんなにGが嫌いなのか? 妙に親近感が沸くネタだな。ドラッケンにも人間らしい繊細さがあったなんて。
 とか思って驚いたのも束の間、唐突に伸ばされた腕に捕らえられ床へと転がされて、俺はもっと驚くことになった。
「待て待て待てっっ! なんでこうなるんだ!!?」
「黙れ。誘ってくる貴様が悪い」
「誰が誰を誘ったんだ、勝手に発情してるだけだろうが、この糞ドラッケン!!」
 逃げ出そうと必死に暴れるものの、無駄なまでの怪力を披露した男にあっさりと組み敷かれてしまう。ひょっとして辛そうだったのは単にサカってただけなのか、このケダモノめ―――っっ!
 叫ぼうとして口を開いたものの、これ幸いと唇が合わせられて舌まで潜り込んでくる。そういやコチラはあられもない格好な訳で、キレイに洗って下ごしらえした食材のようなもの。さあ召し上がれと目前に躍り出たも同然だったらしい。ああしまった、Gに惑って、より危険なGに噛まれてしまうのか。
 洒落にもならないことを思ってぐるぐると回る思考すらも、すぐに混濁させられる。
 ああ今は、殺虫剤より殺ギギナ剤が欲しいです。

《終?》


某所でのG企画参加作品。
企画参加者様はご自由にお持ち帰り下さい(笑)