月はとても美しい。
 けれど、誰のものにもならない。

 夜更けにふと眼が覚めた。
 暮れる前から忙しかったのでカーテンが開いたままの窓から、月の光が差し込んでいる。
 すぐ横には、満足した猛獣のように寝そべる男。
 眼を閉じてはいるが、こちらが起きたのを察知したはずだ。しかし黙ったままで反応はない。
 冷たい光に照らされた男はあまりに美麗で、氷の彫像の如く思える。
 寄り添い続けても凍えるばかりの、ぬくもりを分かち合えぬ存在。
 明かりの無い部屋は寒々しく、街の喧騒もどこか遠く聞こえる。
 ひとりきりで、夜の孤独に置き去りにされた気分だった。

 カーテンへと手を伸ばしながら、夜空の月を見上げる。
 微かに煙るような青白い銀色をした月を。
 研がれた鋼のように硬質な、触れれば痛むほどの美しさを眺める。
 誰にも届かないそれを手に入れられたら、どれほど満たされるだろう。
 不意に自分の望みに気付き、愕然として動きを止める。
 『あれが欲しい。あれを自分だけのものにしたい』
 不可能だとわかっていても、想いまでは止められない。
 愚かしい夢想に、胸が痛む。

「……何をしている」

 低く響く美声が、ぼんやりと浮遊していた精神を正気に返す。
 心ここにあらざる時でさえ、その声は俺を捕らえて逃がさないらしい。
 それでも油断してはいたから、うっかり無視すべき問いに応えてしまった。

「――月が欲しいと、思ってたんだよ」

 ぽろりと零れ出てしまった言葉を、一瞬後には後悔する。
 心の底から呆れられ、嘲笑われるだろう。
 自分の愚かさには反吐が出るが、奴に不可能だと告げられると余計な苦痛を味わえてしまう。

「……莫迦なことを」

 案の定、奴は僅かに目を眇めて笑う。
 銀色の髪を月光にさらしながら。
 月のように美しい男は。
 輝ける月に祈る言葉を吐く癖に、そのすべてを欲する愚は犯さず。

「手に入らないことくらいわかってるさ……ちょっと思っただけだ」

 重ねた言葉が、言い訳にもならぬと気付いて黙り込む。
 己の愚かさ加減を、更に暴露しただけかもしれない。

 どんなに欲しいと願っても、手に入らないものがある。
 そうと知ってなお、捕まえようと足掻くほど子供じゃない。
 子供のように、純粋ではない。無邪気ではいられない。
 格好をつけて無様さを嫌い、努力する前に諦めを覚えて。
 どれほど努力しても無駄なこともあると、わかってはいるのに。


 それでも、狂おしく、ソレが欲しいと願う。


 欲しいという気持ちには、醜い執着が潜んでいる。
 あの美しさを、自分だけのモノにしたいという欲望。
 誰にも渡したくないという独占欲。 
 満たされない苦しみに侵され、いっそソレを貶めたくなる。
 けれど脆弱な俺には、それすら不可能なのだ。

 月はとても美しいが、誰のものにもなれない。
 いっそのこと、月も孤独に苦しめばいい。
 月が欲しいと泣く子供と、同じ悲しみを味わえばいいのに。

 けれど月は、己が孤独だと気が付きすらしないのだろう。
 万人を照らし美しさをふりまきながら、冷酷に無慈悲に他者を突き放す。
 誰も必要ではない、孤高の存在。
 己の孤独にすら気付かない。
 だから傷つくこともない。





はじめから諦めてしまえば楽なのに、諦めきることもできず。
彼我の遠さを確かめる勇気もなく沈黙する。