籠の中のアオイトリ



 鳥を愛でる、という遊びがある。
 それが高尚な趣味なのか残酷な趣向なのかはともかく。
 ギギナはガユスを見つめながら、籠の中で飼われる鳥を思い出すことがある。


 一口に鳥を愛するといっても、その特長は種類によって異なる。
 美しい羽根の彩りを楽しむ鳥もいれば、狩りに連れていく鳥もいる。体色は地味でも鳴く声が麗しいものもある。どれが優れているという決まりはない。どんな鳥を飼うのかは、飼い主が何を愛するかによる。
 だが、気をつけねばならない。彼らは総じて、人の手が届かぬ位置まで逃げ去ることが可能な翼を持っている。中には飛べない鳥もいるが、迂闊な真似をすればせっかく手に入れた愛玩物は空へ舞い上がり、二度と戻っては来ないだろう。
 それは鳥が悪いのではない。鳥は自由に羽ばたく生き物なのだから、飛ぶのは彼らの本能なのだから。逃がさぬ為には羽根を切り、籠に入れて、自由を奪わなくてはならない。油断して束縛を怠るのは飼い主が悪い。
 翼とは飛ぶ為の器官だ。空を翔ける鳥は、いつの時代も自由の象徴である。
 たとえ鳥には鳥の苦悩があるとしても、翼を持たぬ者の眼はいつでも鳥の自由を求めてやまない。もし自分にも空翔ける翼があれば、今すぐ苦しみに溢れる『此処』から飛び去ってしまうのに、と。
 そして同時に醜く切望する。
 自由に羽ばたく翼を奪い、美しいあの鳥をいつまでも手元に留めておきたいと。


 ガユスを見ていると、籠で飼われた鳥を思い出す。
 うるさく囀る言葉は耳障りだが、鳴く声は悪くない。酷く眼を惹く色も、その姿も。
 油断して入口を開け放てば、何の未練もない様子で飛び去っていく自由な鳥。
 本当は籠の外でなど生きていけないのに、自力で餌も取れぬかよわい生き物なのに、ただ美しい空を切望する。飼い主に愛でられる為に生きているのだと、決して理解しない存在。
 けれどもし、鳥が飼い主の好みに応えなくなったら。応えられなくなったら。
 病んだ鳥は。老いたならば。羽根が抜け落ち、飛ぶことも出来ず、鳴くのを止めた鳥は。
 束縛する飼い主を嫌う鳥は、どうすべきなのだろうか。
 愛を惜しんで飼い続けるのか、役立たずは捨て去るのか。それも飼い主次第だ。
 もしもガユスが、ギギナの元から飛び去ろうとしたら。どうしたらいいのだろう?
 そう考えて、ギギナは思い直す。そんな事態を考える前提が間違っている。
 飛び去るための翼など与えない。飼い主以外の手から餌を食べさせたりはしない。哀れんで逃がすなど、柄でもない真似だ。


 自分の望むように鳴かぬ鳥なら、殺してしまえばいい。
 自身の内側から響く傲慢な声に逆らう理由が、ギギナには無い。



 歌を忘れた鳴かぬ鳥は、どうしたらいいのだろうか。
 ホトトギスなら時を待とう。
 金糸雀ならば棄ててしまおう。
 しあわせを運ぶ蒼い鳥は、逃がすくらいなら殺してしまえ。