『彼』と付き合うコツを問われて、困ったことがある。 いつでも『彼』は、にこやかな仮面をかぶっている。しかし眼差しは白々と冷たく、揺らぐことがない。微笑は虚ろに唇を彩り、その下の本心は窺い知れぬ。 最強にして最凶を謳われ、同業者にも忌み嫌われる冷徹な運び屋。黒衣の内には、死と虚無ばかりが満ちている。情を解さぬ人格破綻者。殺人快楽症の狂人。残虐さや冷酷さを怖れられる男。 彼との付き合いが深くなるにつれて、長続きのコツを聞かれる回数も増えてきた。 けれどそんな秘訣があるなら、こちらが教えて欲しいくらいだ。 |
火を運ぶ |
夜陰に紛れた運びの仕事は、無事に終わりを迎えそうだった。 運転席から見下ろす路上では、ひとりトラックを降りた赤屍が、依頼人に荷物を手渡している。 今回の客は以前にも仕事を引き受けたことがある、いわば馴染みの相手だ。特に波乱もなく――赤屍にとっては却って不満かもしれないが――品物が引き渡され、赤屍が身を翻して戻ってくる。客もまた穏やかに去って行くのを確認しながら、馬車は小さく息を吐いた。 裏稼業において受け渡しの終了は、必ずしも安全を意味しない。最たるものは依頼人の口封じだし、売名行為から復讐まで、様々な理由を持った同業者その他は、こちらの都合にお構いなく襲って来る。直前まで組んでいた相手さえ、報酬の増加を狙っているかもしれない――赤屍相手では、警戒しても無駄というものだが。 それでも、荷物の受け渡しが仕事の区切りとなるのも確かだった。 赤屍を回収すると、トラックを発車させる。ついでダッシュボードに片手を伸ばすと、置いてあった煙草を手にとった。 ライターで火を点けたところで、馬車は密かに眉を顰める。助手席に座った男が、何故だか自分の手元を凝視している。 分煙に気を遣うような仲でなし、喫煙を咎められる筋合いでもない。今更気の緩みと指摘されるとも思えぬが、どうしたというのか。 「――馬車。『それ』は、美味しいですか」 「…………あ?」 咎める意図は無いとしても、答に困る問いかけである。 これまで赤屍が喫煙する姿を見たことは無い。自分が吸うのを気にしていた様子も、また無かった。好んではいないようだが、他の諸々の雑事と同じく、どうでも良い類いに入っていたはずだ。 「美堂くんも、いつも手放せないようですね」 馬車の沈黙をどう受け取ったのか、唐突に意外な名前が飛び出す。何故彼が出てくるのかと、不審気に見やった視線を受けて、赤屍はふふっと笑った。 先日の仕事中の話なのですが、と。 馬車もまた、その仕上げに関わった件について語り始める。ミロのビーナスの美を巡る中、無粋にも同意の名の麻薬を地に満たそうと目論んだ者との遣り取り。過程として、本調子ではない奪還屋とぶつかった時の話。 「お好みの銘柄を用意したつもりだったのに、握りつぶしてしまわれましてね」 微笑する男に厚意を無駄にされたという怒りはなく、妙に楽しげですらある。 奪還屋の片割れが好む銘柄を覚えていたとは、死神にしては相当の執着と見える。気に入った相手にだけは、骨身を惜しまぬ男だ。それだけの実力者に対しては。 有象無象へは、殺した直後も欠片も感慨を抱いていないだろうに。あえていうなら、手応えが無かったと不満に思うくらいか……全く浮かばれぬ話である。恐らく死神にとっては、自分もその同類に過ぎぬのだろうが。 ただ、唐突な質問へ至った流れは了承する。大した意味も無く、煙草が目についたから問うてみただけ。深い意図は無いのだろう。 つと数本が残った箱へ手を伸ばした死神へと、止めいと制止の声をかける。おとなしく繊手は引っ込んだが、視線は何故だと無言で問いかけてくる。 当人は不本意でも、馬車は赤屍の無茶に慣れきっている。この程度で神経質になっては、死神と組んでいられない。いつもなら、放置するような行為なのに。 身体に良いものではないから、他人に勧めるべきではないと、呟く内心の声は言い訳だ。垂れ流す煙の方が毒性は高い。そもそも毒を止められずにいるのは己自身で、偉そうに他者に説教できる筋でもない。 制止した理由を己の内に探れば、微かなれど不愉快な自分を悟る。 例えば自分にしか懐かないと思っていた猫が、他人から餌をもらったと知った瞬間のような。妬いているというのもおとなげない、けれどなんだか不快な瞬間。 「本人から貰えばいいじゃろう」 運転中なのを幸い、視線はちらりとも横に流さぬままで、ぼそりと呟く。 「――本人とは?」 本気でわかっていないらしい発言に、やはりおとなげない反応……というより無意味な嫌味だったかと、溜息が洩れた。 「邪眼の男に、吸わせてくれと頼べばよかろう」 「どうしてここで、美堂くんが出てくるんですか?」 「――何故といわれてもな」 言葉を濁した馬車の姿に、赤屍は眉をひそめた。恥ずかしいほどわかりやすい思考だと思ったが、赤屍は納得できないらしい。 不穏な気配を発し始めた死神が、無言で再び手を伸ばし、今度こそ煙草を抜き取っていく。 更に藪を突付く気にはなれず、馬車は今度は黙っていた。しかしそれも気に入らなかったのか、物騒な空気は鎮まる様子もない。それに怯える段階はとっくの昔に通り越してしまっているが――気にならぬ訳でもなく。 さてどうするかと、馬車は横の気配を窺った。 ライターを持っているとは思えぬが、諦めるとも思えない。馬車だけ吸っているのは不公平だなどと、訳のわからぬ詰め寄り方は困る。 赤屍にも彼なりの規範があり、それに則って行動してはいるようだ。つまり周囲が唖然としたり真っ青になる事態も、本人には理不尽だという意識はない。だからこそ困りもので、それなりに長く付き合っている馬車でも、赤屍の思考は大抵予想を越えて迷走する。意表を突くという点でも、赤屍は業界上位に間違いない。 「――……馬車」 穏やかな死神の声が届いたのは、ちょうど赤信号に捕まって停車した時のことだった。 すわどう出るかと助手席側を見た馬車に向かって、黒衣の肢体が近寄ってくる。思わずひるんだ馬車に構いもせず、微かに鉄錆びた匂いが届く。男の顔がこの上なく間近に見えて、生暖かい吐息が押し寄せ――図らずも息を呑んだ。 「…………駄目ですね」 呟きの内に、愚図る子供のような不機嫌さを漂わせつつ、ゆっくりと闇が離れていく。 何事かと思考が停止していた馬車だったが、その唇に咥えられたものを見て、ようやく彼が火を貰おうと試みたのだと気付く。それに失敗したのだとも。 「――馬車、つかないんですけど」 「…………そりゃ、な」 火を奪い損ねた男が、不満そうに訴えてくる。なんと応じたものか困って、馬車は口ごもった。 タイミングとか、コツとか。簡単そうで単純な技ではあっても、やり方というモノがある。とりあえずは、車が停まっている時で何よりだった。死神に迫られた挙句に事故を起こしたのでは、死んでも浮かばれまい。 しばらく無表情に運転席を見つめていた死神は、ふいと視線を逸らして姿勢を戻す。その機嫌が加速度的に悪化していくのを感じて、馬車は内心で息を吐いた。 赤屍と付き合うコツとは――そんな秘訣があるとすれば、どれほど溜息を量産し、余分なストレスを積み重ねようとも諦めることだと思う。いかに馬鹿らしくても関係ないと見ぬ振りをせず、放っておけずに横を窺ってしまう面倒見の良さも、それだけの度量の広さも、長く続く要因のひとつに違いない。 背は座席に預けられ、目深にかぶった帽子で表情は隠されている。しかし口元に咥えられたままの煙草は、小さく上下に揺れて持ち主の揺れる感情を露わにしている。 「――赤屍」 仕方ないと己に言い聞かせ、少しばかりは困った知遇の拗ねたような仕草を――面と向かって言えば殺されそうだが――楽しく思って、傍らへと身を屈めた。 声をかけて気を引くと、微かに向けられた視線を捕らえる。 危険な戯れだとわかってはいたが、ゆっくり口元を近づける。 「――――しっかり息を吸い込まんとな」 これまでにない近さで眼差しを覗き込んだ中に、少しばかり驚いた色を見つけて益々愉快な気分になる。馬車が自分から近付いて来るなど全くの予想外だったのか、死神は目を見張って動きを止めていた。そんな姿を見れただけでも、柄にもない戯れを仕掛けた価値があるというものだ。 覆いかぶさるようにして、深く吐息を交わらせると、小さな熱が受け渡される。 常になく近付いた身体が離れる瞬間には、赤屍は既に常の落ち着きを取り戻していた。 己の行為の結果を横目で窺う馬車を他所に、前を向いて椅子にもたれながら煙を吐き出した死神は――わずかながら眉をひそめる。機嫌は悪化したようだが、火がつかない苛立ちとはどこか違う。ふと、嫌いな食べ物を含んだ子供ようだと思って、これまた似合わぬ考えに思わず口元が緩んだ。さすがに咳き込みはしないものの、煙が美味いものとも思わなかったらしい。 不機嫌を露わにしながら、備え付けられた灰皿に一口吸っただけの煙草を押し付ける。それからちろりと流された視線は鋭い。不味いのは馬車の所為だとでも言いたげな眼差しに、つい失笑する。もっと機嫌を悪くさせると、わかってはいるのだが。 「――馬車、青いですよ」 「お?」 ぽつりと呟かれ、はっと我に返る。 面白がっている間に、いつの間にか信号の色が変わっている。 背後からクラクションを鳴らされ、馬車は慌ててハンドルを握りなおした。 |
《終》 |
ちなみに私は煙草の煙はむちゃくちゃ苦手です……(こっそり)