まれびとのかぎ 野良猫を可哀想に思って、その場限りに餌をやるのは酷いと思う? 飼う気がないなら、通りすがりに手を出すのはかえって残酷だろうか? あなたの今日の気まぐれが無ければ、明日には飢えて死んでしまうかもしれない。 今日を生き延びれば、明日には自分で獲物を捕まえられるかもしれない。 そもそも人が勝手にあれこれ言ってるだけ。 野良猫だって、貰った餌が気に入らなければ見向きもしないのだから。 |
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「それにしたって、甘やかすにもほどがあると思うわ」 助手席に座った少女が、ふっと嘲るような吐息を洩らしたのには、返す言葉が無かった。 彼女の侮蔑(というよりは諦観か?)は、運転手ではなくここにいない男に向かっているが、突き詰めてしまえばそれは、馬車に帰って来る。見苦しい言い訳すら出て来ない状況では、黙ってやり過ごすしか、嵐から逃れる術はない。 そもそもは、仕事帰りにすっかり夜が明けてしまったのが始まりだった。 いっそどこかで朝食を一緒に採らないかという誘いは、平穏な終わりを迎えた日の恒例行事に近い。 二人の時もあり、三人の時もあり、恐らくはここに居ないもう一人と二人きりの食事もあるのだろう。正面から言うと嫌がるだろうが、少女と彼は意外と仲良しに見える。周囲はさぞ訳がわからないだろう組合せで、ファミレスに入るのもいい加減慣れた。その際に向けられる好奇心に満ちた視線にも。 しかし今日の仕事は馬車と少女の二人きりであり、当然ながら誘われたのも馬車だけだ。しかして、いつもなら快諾する男が躊躇ったのは、この場にいない三人目が原因だった。 「家で腹を空かしとる奴に、暴れられると困るしな……」 早く帰らなくては、と。 呟きが指す対象を正しく理解して、少女は深々と溜め息を吐いた。 「なんであいつが馬車さんとこにいるの?」 「昨日、いつのまにかな。もう出たかもしれんが」 「――いるような、気がするのね」 独りにされて、つまらなくて出て行ったかもしれない。 面倒臭くなって、その辺で寝転がっているかもしれない。 読めない男ではあるが、彼に関する馬車の勘は大抵外れない。それはもう、卑弥呼が感心するくらいに。 「なんなら携帯で呼び出してみる?」 そこまでする必要があるのか、卑弥呼にしても疑問だ。ここで別れてしまっても、一向に差し支えはないのだが。 一応提案した妥協案は、難しい顔で却下される。 「寝とるとこを起こすと、不機嫌になりよるしな……」 「あのね、馬車さん。あいつも仕事中はそんなことないわよ?」 「そりゃあ、仕事の時は別じゃろうが――」 そもそも仕事中に居眠りする赤屍なんて、想像もできない。 退屈そうに他に気を取られた死神を、少女が鉄拳制裁するのは幾度か目撃した。大抵は、避けられて余計に血圧を上げる羽目になるのだ。 「つまりそれって、あいつに甘えられてるのよ。わかってる?」 びしり、と指を突きつけられ、思わず横を向いて反論したくなるのをぐっと堪える。早朝とはいえ、車が動き出す時刻に、あまり脇見をするのは危険だ。 「あんまり甘やかして、つけあがられて困るのは馬車さんよ? あたしが口出す筋じゃないけど……」 「む……いや、わかっとるが……」 もごもご口の中で呟くのは、多少なりともやましいからだ。 どこがと言われると、説明しがたいが。 「だいたい勝手に出入りしてるのがおかしいのよ。合鍵を渡したの?」 「いや、いつの間にか入ってきよる」 「……あいつは、やる気がありゃ自由自在よね」 かつて己の家も襲来されたことを思い出して、それ以上の突っ込みは避ける。どうやったのか、知りたくもない。知っても仕方ない。 「困った友達がいると諦めて、鍵を渡しちゃったら?」 「……あれはトモダチなんか」 「あたしにそう聞かれたって困るけど……放っておいても入ってくるんでしょう?」 どうせ結果が同じなら。 流されるのではなく積極的に肯定した方が、それこそ精神衛生に良いのでは。 別に白黒はっきりする必要はないが、このままなし崩しにしておいていいのか。 「赤屍なら悪用はしないでしょ……勝手に侵入するのも犯罪だけど」 この場合の悪用とは、窃盗や強盗を指すのだろう。 そんな真似はしないだろうし、する気があるなら合鍵が無くても簡単だ。ここで秤にかけるべきは、無駄と承知で小言を言い続けるか、鍵の修繕費を惜しんで合鍵を渡すか――いや、出入りを自由に認めるのは、それ以上の何かを許容するという表明になる。 そこまで開き直る気になれないと、つまりはそういうことだ。 |
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玄関に見慣れた黒い靴があるのを確かめ、馬車は溜息を吐いた。つまり、彼はまだ中に居るのだ。 煮えきらぬ話ではあるが、死神の来訪を不快とは思わない。 一応、楽しんではいるのだ。少しばかり、困ったものだとも思うけれど。 赤屍が嫌なのではなく、卑弥呼の言葉がいささか重い。自分でも、野生の獣が通い来る意味を測りかねているから。 居間のソファに腰掛けて、男はぼんやりしているようだった。馬車が帰宅したと気付いているだろうに、振り返りもしない。無言で背後から近付くと、その黒髪が濡れているのがわかる。手元には見覚えのあるタオルが転がっていた。 風呂を勝手に使われるくらいは構わない。むしろ血まみれでの来訪が多い死神には、身奇麗にする意識を持ってもらいたい。しかしタンスに仕舞ってあったはずのバスタオルが引っ張り出されているのは意外だった。 ごそごそとタンスを漁る死神の姿を想像すると、ちょっとばかり目眩がするが。 「――タオルを使ったんか」 「濡れたままで動き回るなと言っていたでしょう?」 珍しくも気を使ったといえるのだろうか。 以前、床をびちょびちょにされた馬車が、むっつりとして拭き掃除に励んだのを覚えていたらしい。奇矯な行動に耐性(というよりは、やはり諦め)のついている馬車は、特に赤屍に対して怒った覚えは無い。しかし他と色々と重なった時だった為、しばらく不機嫌だった記憶はある。 彼にも改善意欲があったのかと、誰か赤屍を知る者が聞いたらぎょっとするようなことを思う。あくまで口にはしないけれど。 「勝手知ったる他人の、か。もう客とはいわんな」 「……何が言いたいんです?」 ようやく向き直った不審そうな顔を、しみじみと見つめる。こんな妙に人間臭い顔も、とっくに見慣れてしまった。仕事中には決して見せない表情。この男も生き物なのだと――当然過ぎる納得が出来てしまう数々の仕草。 友人というには面映く、ためらわず口に出せるのは同業者の肩書きくらいで。 多分、友と呼んだくらいで切りかかられはしまいと思っているが。けれど、コレをそう呼ぶ気になれぬのは、むしろ自分の側なのかもしれない。 付き合いが長くなるほどに、関係の分類に困る男。この先どれだけ長生きしても、同種の存在とは巡りあわないだろう――むしろ会いたくない。 この手の生き物との接触は、既に手一杯だ。何事もほどほどが肝要である。 「赤屍……もし、ここの合鍵を渡したらどうする?」 「入る時に使います」 「……………………そりゃあそうじゃろうな」 当然の返事ながら、そういう答を求めていた訳ではない。 果たしてコレは天然ゆえのボケなのか、それともはぐらかされたのか。 ああこういう奴だったなあと、ちょっぴり真剣だったりした己が馬鹿みたいで、一気に脱力する。卑弥呼が呆れ顔だったのも当然だ。この男相手に深刻に考えても労力の無駄遣いというもの。 「私はどちらでも構いませんよ」 「……そりゃあ、おまえは構わんだろうがな」 別に鍵を持っていない今でも、どういう手段でか簡単に出入りしている男である。不法侵入に対する罪悪感を持っているとも思えない。合鍵の所有にある種の気安さを感じるような、可愛げのある人種でもあるまい。反対に合鍵を渡された相手だろうと、必要とあればざっくり切り裂くと信じられる。 溜息混じりに上着を脱ぎ捨て、ハンガーを求めて寝室へ向かおうとして。 「――そうではなく。私が、ここに来るのが迷惑なら、そう言って下さればいいんですよ?」 どっと疲れた身体に、活を入れる一言。 真顔に戻って赤屍を見れば、こちらも珍しく微笑を仕舞いこんでいる。 「そうすれば――」 そう言えば、どうするのかと。 あまりに当たり前のことを聞きかえそうとして、口をつぐむ。 言葉で正しくわかりあえる自信が無い相手との会話は、慎重になるべきである。何の気なしの一言が、命取りになりかねない。 馬車が迷惑だと怒れば、この獣は自分の立ち寄る先から此処を外すつもりなのだろう――ちょっと不快な思い出があったことも、やがては忘れ果てるだろう。意味の無い執着と、死神は無縁だ。 故に馬車は、この問題を論議するのを避けてしまう。決定的な何かを突きつけるのが嫌だから。 それは、つまり―― 「――そうか。そうじゃったな…………」 「なんです、馬車?」 怪訝そうな男の顔を、本日始めて真正面から見据えて、馬車は低く笑った。 何故なのか答えられなくても、答えたくなくても、結論が出ている問題もある。そんな問いを論議するほど馬鹿らしいものはない。あの少女が結論を口にせずに沈黙したのも当然だ。 「――ここに来るのは嫌ではないんじゃな?」 「…………私は、わざわざ嫌なことをする趣味はありません」 何となく微妙な沈黙の後で、赤屍はゆっくりと肯定する。 それはまるで、彼もまた明解な理由など出したくないのだと言っているようで、互いの曖昧な気持ちを放り出すことへの躊躇いも失せてくる。 しばらくは、二人で理由など忘れた振りを続けてもいいだろう。単純で簡単な結論だけわかっていれば、意味なんて後からついてくる。 答を出すのを先延ばしにしたって、誰にも迷惑はかからない。 「――こっちも、嫌なら他人を家に入れたりはせん」 自分の結論だけをぽんと投げつけると、馬車はすっきりした気分で寝室に移動する。 自分の答に赤屍がどんな反応を示すのかは、もう興味が無かった。どうせ彼も、明確な答を出せないままなのだろうから。自分のことだけわかっていれば、それでいい。ぽかんとした赤屍なんていう、希少な表情を観察するための言動ではないから、答は要らない。彼だって、自分勝手にやっているのだから。 野生の獣を飼い慣らせるとは思わない。ただ、気まぐれでも傍に近付いて来るなら、美しさに感心する。それ以上の期待は、仕舞いこんでおこう。 ――――今は、まだ。 |