かいだんのかいだん



 高い壁に挟まれた路地は、昼間でも薄暗かった。
 車が入り込めないような、細い道で構成された場所。見通しも悪く、何処から襲われるとも知れぬ緊張感が漂う。よほどにうかつな者以外、踏み入ろうとも思うまい。人影は滅多に見えないが、時折現れる姿はどれも、遠目にも真っ当と言い難い風体ばかりだ。卑弥呼と赤屍もその内の二人として、静かに道を進んで行た。
 今日の赤屍は、どこか仕事に集中していない。異常なほど気配に聡く、無駄なほど戦闘で頼りになるこの男なら、ゴキブリのごとくチンピラが湧いて出る場所で、うきうきしてそうなものなのに。敵の実力が物足りないのかもしれないが、どこか様子が変だった。
こんな調子では、何処かから狙撃されても気付かないかもしれない。赤屍の代わりが務まるとは思わないが、卑弥呼は普段以上に緊張し、周囲に注意していた。
撃たれても死にそうにもない男だが、仮にも人間の端くれに存在している以上、頭や心臓を撃たれたら死ぬだろう……多分。そうだと良いなあ――いや別に死んで欲しいワケではないが、撃たれて死なないイキモノは嫌だ。
 そう思いながら、下りの階段にさしかかる。そして赤屍を先にして細い階段を下る途中、コトは起こってしまったのだ。


 階段なのが、悪かった。
 彼がぼんやりしていたのも、一因だと思う。
 自分が周囲にばかり眼をやって、赤屍自身を見ていなかったのも悪いが、そもそも彼のコートが長すぎるのが悪い。
 階段を歩くと裾をひきずるほどの長さは、すぐに汚れて洗うのが面倒だろうに、血まみれになるのを厭わぬ彼が土ぼこりを気にするはずもない。敵と戦う時は邪魔に思えるが、まるで漆黒の翼のごとく、死神か悪魔のように翻るソレは、優雅にさえ見える。 
今更彼の黒ずくめを責めるつもりはない。黒くない赤屍なんて、彼らしくないし。この日この瞬間まで、コートの長さに文句をつけようと思ったコトも無かった。
 だが襲撃に注意しながら階段を降りていれば、足元が疎かになるのは当然だ。何か飛んでくる可能性の方が怖い。


 だから、ついうっかり。
 コートの裾を踏んづけたとしても、仕方ないではないか。


 あの『彼』が、足を取られたからといって、豪快に階段の下まで転がり落ちるとは思わなかった。
 しかもよりによって、ポリバケツや積み重なった発泡スチロールの箱が並ぶど真ん中に突っ込むなど、運が悪いとしか言いようがない――赤屍の運ではなく、自分の運が。
 倒れたバケツから散乱したモノは、紙くずから生ゴミまで様々だった。発泡スチロールの中味は、幾匹もの鮮魚だ。どうやら魚屋の裏手を襲撃してしまったらしい。メザシやイワシにまみれる男は、服が黒いために銀のウロコがよく映える。
 かなり高い位置から落下して、倒れこんだままの男を見下ろしながら、このまま逃げだしたい誘惑に駆られる。
 彼がピクリとも動かないからでは、ない。
 不慮の殺人を知る者がいないから――でもなくって。
 あの死神がこの程度で死ぬはずがない。それどころか怪我ひとつ負うはずがない。そういう点は嫌な意味で信頼してると言ってもいい。転んで死ぬ程度の男なら、あれほど多量の死を増産するなど不可能だったろう。
 それより目撃者のいない場所で、自分の方が死体になりそうで怖い。恐怖に慄き震えながらも、身構えて死神の反応を待つ。故意ではなかったのだと絶叫したいのを堪えながら。
 やがて、予想通りおもむろに身を起こした彼は、かすり傷すら負っていない様子だった。
 散乱する魚の中で立ち上がる赤屍を見て、常々黒猫を連想させる男だと思っていた卑弥呼は、魚が一杯で喜んでくれないかなあと、頭の沸いたコトを考え、激しく現実逃避に走っている己に気がつく。
 妙に真摯な、微笑の消えた表情で、死神がこちらを見上げてくるのが――――怖い。
 常日頃、赤屍の笑顔はかえってコワいと思っていたが、笑っていない赤屍が、ここまで恐ろしいとは思わなかった。
「…………卑弥呼さん」
 やたらと静かで感情の無い声に、ごくりと唾を飲み込む。
 背筋に流れる冷たい汗は、錯覚ではない。
 彼の一挙手一投足に、目が釘付けになった。
「な、何よ」
「………………」
「悪かったわ謝るから! そんなじっと見つめないでっ!」
「――いえ。ぼんやりしていた私も悪いのですが」
 はあ、と男が溜息を吐く。
 正直向かってくると思っていたが、彼がそれだけで背を向けて歩き出してくれたので、卑弥呼は心底ほっとした。
 今回ばかりは、切りかかってこられても言い訳できないと、半ば覚悟を決めたものだが。そこまで大人気ない相手ではなかったらしい。
 心持ちコソコソしながら、死神の背後に続く。当社比三倍くらい間隔が空いているのは、それだけやましい少女の気持ちを表している。悪かったとは思っているのだ、本当に。そして怖いのも事実だった。余計な突っ込みは仕事どころか命に関わる。この後は穏便に進むよう祈るしかない。
 故に彼女は、気付いてしまった真実を口にする勇気が――赤屍の帽子の上に、しっかりゴミが乗ったままだと指摘する根性が、無かった。
 どうして懲りないのか不思議な卍一族が、今日も赤屍の行く手を遮り、代わり映えのない口上を述べながらぎょっと目を見開く。彼らが絶句した理由は、視線をたどるまでもなく、痛いほどわかってしまったが。
 恐らくは八つ当たりも兼ねて、気短に絶好調に相手を刻み出した赤屍を、この日ほど止めたくなったことは無い。敵に心底申し訳ないと感じたこともまた無かった。



 この世で最後に見たモノが、死神の帽子に乗った生ゴミだなんて、絶対に浮かばれないに違いない。