彼女の合図



 リリリリリ。
 携帯が鳴っている。
 ばしゃりと赤く濡れた音、命が噴き出す気配にも負けぬ高い音。
 妙に耳につく電子音がうるさくて、着信を切る。今はそれどころではない。
 いつでもどこでも鳴りだす音は、束縛の鎖のようで耳障りだ。いつでも自分を呼び出し、支配しようとする。 
 誰からの合図か気にもとめず、求める静寂が来たる時まで、死神の振るう剣戟のみが一帯を統べる。黒衣の神の気まぐれに、敵う者など存在しない。やがて誰もいなくなった世界で、赤い水たまりをぴしゃぴしゃ跳ね上げる音だけが聞こえてくる。
 そこに、再び電子音が鳴り響いた。
「―――はい」
『どこまで行ってるの、あんたはっ!?』
 楽しみも一段落、仲間からの電話に応じた男の耳に、至極もっともな叫びが届く。
「……卑弥呼さん、耳が痛いです」
『馬鹿言ってないで、さっさと戻って来なさ〜いっ!!』
「はあ……私も、そうしたいんですが」
 ビルの狭間、追い込んだ男達を殺戮し尽くした袋小路を離れつつ、男はゆったり辺りを見回して――立ち止まった。
「ここは、どこなんでしょうか?」
『………………あたしが知るわけないでしょ〜〜っ!』



「あんたね、いい年して『迷子』だなんて恥ずかしくないの!?」
 猛スピードで走るトラックの後部コンテナで、轟然と仁王立ちになった少女は、神妙に座る男を見下ろしてお説教していた。どうせ、言っても無駄だとわかってはいるのだが。
「しかも、仕事中なのよ!!? 遊びに出て帰って来れなくなったのとは、訳が違うんだから!」
「はい。済みません」
 馬車のトラックまでなんとか戻るなり、座りなさいとぴしりと示され、死神はおとなしく正座している。赤屍がこういう時に少女に逆らうことは、あまりない。ただし、いつもと変わらぬ微笑が浮かんでいては、あまり反省したとも思えない。
「卑弥呼……時間なら、まだ何とでも……」
「馬車さんが、そうやって甘やかすのが良くないのよ!?」
 赤屍が深追いし過ぎた結果、指定された時間まで予定を大きく超えてしまっている。それでも間に合わせると言い切れるのが、ミスターノーブレーキと呼ばれる由縁ではあろうが。そもそも今回の遅れは、赤屍が飛び出したっきり戻らない――戻れなかったのが原因だ。
「大体ね、何で迷うほど遠くまで行く必要があったの。すぐに追いつけたんでしょ?」
 探すのに手間取るくらいなら、追い散らすだけでも良かった。
 赤屍が追って出た連中は数こそ多かったが、剣を振るう死神に抗しえる腕では無かったはず。だからこそ残った二人も、すぐに『経過を楽しみ終え』て、戻って来ると踏んだのに。予想を越えて現れぬ仲間に、飽きてそのまま帰宅したかと疑ったくらいだ。返り討ちを心配しない点が、信頼とも諦めともつかぬ関係を表してもいる。
「彼らが人の少ない方へと逃げていったもので。街中では人目も多いですし、お付き合いしたのですが……」
「倒してみたら、どこ通って来たのか忘れてたのね?」
「――まあ、そうですね」
 にこにこにこにこ。
 微笑みあう二人をバックミラーで確認し、馬車は無言で視線を逸らすことにした。
 年若い同業者には、もはや自分が流してしまっている死神の悪癖を――仕事上は当然なのだが――許す寛容さ(もしくは諦め)が無い。
「…………何を考えてるの!!?」
 ぎゃん、と吠えられても、赤屍は微笑んだままだった。ある意味慣れているのはお互い様だ。赤屍の暴走も、その後で卑弥呼が怒るのも。
「―――まあ、それはおいといても。携帯に連絡した時、どうして出なかったのよ?」
 大きく深呼吸して、気持ちを落ち着ける。キレてつかみかかっても、意味の無い相手というのは性質が悪い。いつかコレを本気で恐れさせたいと、切に願う。
「それは…………」
「なに、何かあったの?」
 憎たらしいほど泰然としていた死神が、まずいと言いたげに、僅かに視線を逸らす。
 うろたえるというほどで無く、確かにやましい心の為せる振る舞い。
「――――赤屍?」
「戦っている最中でうるさかったので…………切りました」
「…………そう。仕事中の、単独行動してる途中に、うるさいから、切ったのね?」
「卑弥呼さん………顔が、凄く怖いですよ?」
「誰がそうさせてるのよ〜〜〜っっ!!」
 仲間と組んでの仕事中、独り離れている場面で、携帯が『うるさかったから』切るとはどういう了見か。それが隠密行動中でもなく、ましてや戦闘中で手が空かなかったからというのでも無く。携帯を切る余裕があったのに、相手を確認もせずに切るとは何たること。
 この男なら、戦う片手間に着信相手を確認するのもお手の物だろうに。
「誰からかわからなかったので、つい」
「ついじゃないでしょうが! 他に誰がかけるっての!?」
「それはまあ色々と…………」
 少女の剣幕に、さすがの死神もやや押され気味だ。
 実力では太刀打ちできぬ差があるものの、言い争いになった時に主導権を握るのは、大抵は年若い少女の方である。
 運び屋同士組むようになってから、いつしかそれなりの気安さが芽生えた後で。
 卑弥呼が悪名高い同業者を、無闇と恐れる気がしなくなってから。
 彼等の関係は、暗黙の内に形作られてきた。互いの『殺す技量』の高低でなく、かといって対等とも言い切れぬ、微妙な均衡。決して不快ではない、それ。
「どうして毎回毎回……っ」
 不意に卑弥呼の言葉が途切れる。
 怒りに我を忘れたからでなく、振動の所為だ。車がスピードを緩めず急カーブを曲がった瞬間、卑弥呼の身体が宙を舞う。
 壁に叩き付けられると悟り、せめて身を屈めてぎゅっと目を閉じた少女を、すかさず動いた黒い影が受け止めた。
「……大丈夫ですか?」
「あ、ありがと……」
「いえ♪」
 柔らかく笑う男は、ごく自然な態度である。
 少しの躊躇いもなく、柔らかく自分を抱きとめた腕。
 細身と見えて、しっかりと重みある身体は、車内でも揺らぐことがない。
 離れようと身じろいだ瞬間、再び車が大きく揺れてバランスを崩し、胸の中に抱え込まれる。油断への気まずさと、異性への接触を意識して、微かに頬が染まった。
「ちゃんと座っとれ」
「う……ん。ごめんなさい」
 運転席へと言葉を返すと、ずるずると腰を下ろす。そのまま離されると思ったのに、背後の赤屍もまた、卑弥呼に合わせて座り込んだ。
 我に返ると、守られるように男の腕の中にいる、自分に気付く。
 ぐらりと目眩を覚えながら、絡みつく腕から逃れると、赤屍の横に移動する。触れ合えるような位置に座るのも、柄にも無いとは思ったが、わざわざ離れるのも失礼かと思って。まあ、気にするような男ではなかろうが。
「――そうだ、ちょっと携帯貸して」
「……はい」
 ふと思い立ち、ひとつ頷く。
 あくまで一応は赤屍も、自分や馬車といった『仕事仲間』を区別はしている――のだと思う。理解し難い思考の男だが、その程度には信用している。
 恐れ気もなく差し出された手に笑って、死神は魔女の望むままに応える。
 渡された携帯を無造作に操作する少女を、なんとも興味深げに見つめる姿は、最凶の異名を欲しいままにする男とは思えない。年少の娘を穏やかに見守る保護者のようにすら見える――やってる行為は、むしろ彼の方が子供っぽくもあるが。
「これでいいでしょ。次は、ちゃんと出てよね!」
「はい、わかりました」
 返された携帯を手に、赤屍はにっこりと微笑んでみせる。
 カケラも悪気の無い笑顔を見ながら、卑弥呼は深々と溜息を吐いた。多分きっと、次には違うコトで悩まされるのだろうと、空しい思いを感じながらも。
 そうやって、進歩のない関係が続いていくのだろうと、疑いもせずに。



 ホンキートンクは、奇妙な緊張感に包まれていた。
 理由はわかりきっている。たったひとりの客が、全ての原因だ。行き場無くその隣に座らされた銀次は、既にタレるを通り越してダラリとしている。
 そして突然流れてくる、軽やかな旋律。
 電子和音の作る音色の出所は、すぐ隣席としか思えずに。
 あまりに似合わぬ可愛らしさに、銀次は顔をひきつらせた。
 道端で何処からか聞こえてくるならいい。しかし赤屍の携帯から洩れるには、異様なメロディーである。
「あ、あ、あかばねさん……どしたんですか、それ?」
 少し前に流行った軽快な曲調も、付随する柔らかな女性の声も。
 よりによってこの男の携帯電話から、そんな着メロが流れ出ようとは!
「ああこれは……合図なんです」
 縛られると感じるのではなく、呼ばれているのだと思える――死神は笑って、携帯を手に取る。
 彼女の。彼女だけの。彼女のためだけの、音。
 その音は彼女が自分を呼ぶ声だ。
 特別な束縛は、死神をいつも楽しげに微笑ませる。
 もう少しの間だけは、ひとときの夢のような遊びを続けようと。