彼と彼女の交際事情



 裏新宿の夜は、様々な意味で闇深い。
 街路灯は少なく、その大半は壊れたまま修復される気配もない。
 すえた臭いが漂う小道の左右には、廃墟と化したビルが林立している。見上げた先で時折明かりがちらつくのは、そこに目をぎらぎらと光らせた人間が潜んでいるから。大の男であってさえ、我が身が可愛ければうろつくのを控える――ここは、そんな場所だ。
 故に道往く人影が現れたとき、周囲に蹲る者達は訪れた物知らずの愚行を嘲ったが、そこに若い娘の声音が響くのを聞いて、大いに驚き怪しんだのである。


*     *     *


「……なんだかすっきりしない仕事だったわ」
 なんだか、どころでなく。少女の機嫌は現在、最高に悪かった。
 凄みの効いた呟きに応えは返らないが、彼女は独りではない。数歩離れた背後には、闇に溶け込むようにして、長身の男が歩いている。
 肢体の線がわかる衣服ながら健康的な印象の少女と、白い相貌以外は帽子から靴まで暗い夜と同化している男――運び屋として名を知られた二名である。
 不機嫌な表情も露わに、卑弥呼はずんずん夜道を歩く。
 首尾よく仕事が終わって開放感に浸れるはずが、今夜ばかりはそうもいかない。ゆったりと自分の後をついて来る赤屍に視線を投げれば、対照的に彼の機嫌は上々なようだ。自分にも深く関わる話なのにあくまでご機嫌なのは、あの『噂』を打ち消すほどに仕事で満ち足りたのか。そう考えると、いっそう気分が滅入ってくる。
 つい先程別れた若い男、初めて出会って仕事を共にした同業者の発言が、全ての始まりだった。黒い影を見やりながら、少女はいささか大げさな溜め息を吐く。もう少し顕著な反応があっても良いだろうに、自分だけが苛ついていると思うと、空しさまで募る。彼に真っ当な感性を期待しても無駄だと、わかってはいるのだが。
「――そんなに怒っているのに、どうして私を止めたんです?」
 不意に赤屍が、少女に問い掛ける。
 仕事終了直後に投げつけられた言葉。そのあまりの問題発言に、卑弥呼は怒りに震えるばかりだった。けれど彼女の顔色を見た赤屍が、スッとメスを取り出したとき、彼を止めたのも他でもない卑弥呼なのである。
 仕事に支障を来たさぬ場合、卑弥呼は赤屍を制止しない。出来ないのではなく放っている。だからこそ赤屍も、邪魔をされて不快というより不審そうな様子だった。これは、彼女の意に添った行為なのにと。
 赤屍の腰の辺り、コートをぐいとつかんだ卑弥呼は、有無を言わせず身を翻し……赤屍はおとなしく引っ張られて退場したものの、ずっと疑問を燻らせていたらしい。
「あんたね、多少の陰口を叩かれたくらいで、いちいち他人を……しかも同業者を殺してまわってどうすんのよ!」
「あなたのその反応を見ていると、些細な悪口とも思えないのですが」
 卑弥呼は元から沈着冷静な性質ではないが、躁鬱状態を繰り返すような現状は、心的外傷の大きさを物語っている。
 気配りとは縁遠いようで、余計なところだけ観察している男に舌打ちが洩れた。
「でも、あんたは大して怒ってないじゃない。何で相手を殺そうとしたの?」
「だって卑弥呼さんは、凄く怒っておられるじゃありませんか」
 決まりきった解を問われた態度で、あっさりと赤屍が返答する。少女は残念ながら、更なる血圧の上昇を意識せずにいられなかった。
「そんなこと言うから、変な噂がたつんでしょ――っ!!」
「――そんな事、と言うと?」
 含み無き純然たる疑問符に、ぐらりと目眩がする。ここで下手な事を言うと、かえって話がややこしくなりそうだ。鋭いようで妙に天然が入っている男に、おかしな先入観を植え付けると、思いもよらぬ自滅技となりかねない。
「あんたって、どうしてそうも極端に走る――というか、殺伐としてるの!?」
「しかし彼の勘ぐりが、かなり失礼だったのは事実ですし」
 如何なる結果を招こうとも、自業自得ではないか。
 まるで無関係のように言い放つ男は正々堂々と当事者だが、嬉々として刃を振るう瞬間も、他人事のような顔をしたままだろう。彼を見つめながら、卑弥呼は己の身体が再びわなわなと震えるのを、押さえることができなかった。
「なんで、なんであたしがあんたなんかの――っっ!」
「恋人だと思ったんでしょうねえ?」
 どこから飛来したのか、トリハダが立つ噂。
 耳にした瞬間に受けた衝撃の大きさは、どう表現しても言い足りない。
 いっそ忘却香を一帯にぶちまけようかと真剣に思案したが、赤屍を止める間に機会を逃してしまった。慙愧に耐えぬ事態だが、既に巷で広がっているらしいので、一人だけ口封じしても無駄だと判断したのもある。
「だ〜れ〜が、恋人ですって!?」
「正確には『特別に仲が良い関係だと聞いた』でしたか?」
「…………あああもう! そうよ、つまりはそういう誤解をされてるのよ――っっ!」
 耳を押さえ、ふるふると首を振りながら、少女が狂乱する。しかし赤屍は、この与太話が流布した経路を不思議がるばかりだ。それがまた、少女の苛立ちに拍車をかける。この手の噂はやたらと相手に嫌がられても腹立たしいが、面白がるのはもっとむかつく。ちなみに喜ばれるのも論外だ。
「どこからあんな妙な噂が出たっての!?」
「私達が、誤解を招くような真似をしたんでしょうかね?」
「いつどこで!? 何か心当たりがあるの?」
 噛み付くように吠えても、赤屍は首を傾げるばかりだ。
 ――多分きっと、こんな傍若無人な遣り取りの数々が、誤解を招く一因なのだが。それだけでも、あるまい。
「あんたみたいに役に立たない男なんて、死んでもお断りよ――っっ!」
「酷いですねえ、卑弥呼さん。私だってちゃんと働いてるじゃありませんか」
「働くってか、しなくていいことばっかりやってるんじゃないの!!」
 そもそもの論点が、間違っている気もするが。
 脳裏に浮かぶのは累々と重なる屍。名は体を現すという格言に相応しく、見掛け通りに怪しく危険な存在。何が哀しくて、この男を『愛している』なんて誤解がまかり通っているのか。そもそもこの男、いつもにこにこ笑っているものの、ちゃんと感情の起伏があるのかさえ疑わしいのに。恋愛なんて、複雑怪奇な情動を理解できるのだろうか。
 さすがに失敬かと思いもするが、妥協は禁物だ。こうして会話していると忘れそうだが、日頃の行いが全く洒落にならない男である。
「あんたが却って迷惑だったことが、何度あると思ってるの!?」
「――……卑弥呼さん?」
 遠慮会釈もなく、力いっぱい死神に叫ぶ。それまで少女の怒りをどこ吹く風と受け流していた男は、ふいに眼を眇めた。
 妙に静かな呼びかけと、密かに漂い始める殺気。
 彼の変化に気付いた少女にも、緊張が走る。夜の大気がねっとり手足に絡みつく、そんな錯覚。否応無しに、死神との力量の差を感じる瞬間。恐怖や畏怖、そんな暗い感情は、常に彼の傍らにある。
「…………いい度胸ですね」
「ちょっと――少しは手加減してよ。大人気ない」
「この街で何が起ころうと、大した騒ぎにはなりませんよ……」
 口元に浮かぶは凄絶なる微笑。彼の手元へと、手品じみた唐突さで冷たい光が現れる。
 それでも尚、少女が口を開こうとした――刹那。瞬く間もなく、動く腕。
 閃いた銀光は、彼女をかすめて後方へと流れていった。
 剥き出しの皮膚に、宙を裂く風圧を感じるや否や。複数の悲鳴が上がり、遁走していく気配がする。大方、彼等の二つ名も知らずにちょっかいをかけて来たチンピラだろう。一応の卑弥呼の制止が効いたのか、命があっただけ儲け物だ。
「――あんたに手を出すなんて、命知らずもいたものね」
「あなたのこともご存じないとは、どうせ長くはないでしょうが」
「……なによ、それって嫌味?」
 知名度も外見の印象深さも、段違いに赤屍の方が上のはずだ。眉をしかめた卑弥呼に対して、クスと笑みが向けられる。
「いえ、違いますよ。私はともかく、レディ・ポイズンに手を出そうとは……いずれ見た目に騙されて、報いを受けると思ったまでです」
「見た目に騙され……って、あんたみたいのに手を出す時点で、処置なしじゃない」
 自分はともかく、赤屍は見るからに怪しいのに。
 率直な感想は暴言でしかないが、日常茶飯事でもある。思い返せば赤屍にぎょっとした回数は数え切れないが、彼に殺されるかとまで警戒した事態は数少ない。単に、自分など殺し甲斐が無いからだろうけど。
「――そういえば、先程の話ですが」
 ふと思い出したというように、赤屍は気楽な調子で口を開く。機嫌が更に下降気味の少女は、じとりとした視線で先を促した。
「この間ホンキートンクで、ウェイトレスのお嬢さんとお話したんですが。あなたと仕事でご一緒したと言いましたら、仲が良いのかと聞かれまして」
「……というより、他と悪すぎるんでしょうが」
 特別に赤屍と卑弥呼の仲が良いのではなく、他若干名以外との関係が、殺伐としすぎているのだ。もしくは他人など眼中に無い、とも言える。
 赤屍といえども、無闇矢鱈と殺気を垂れ流してはいない……と思うけれど、彼の基準は常識の範囲を逸脱していて、他人には理解しがたい。
 その隔たりがどうでもいい者や諦めがついた者、もしくは彼と対抗しうる実力者なら、ひとまず会話が成立する。もっともこの死神との会話は、通じているようで訳がわからなくなる場合も多い。出会った途端に殺し合いになるかどうかがボーダーラインなのだ。定義しようとすると、頭が痛くなる。
「仲良しですとお答えしましたら、それではあなたの事が好きなのかと聞かれまして」
「――待ちなさい。頼むから、ちょっと待って」
「はい、なんでしょう?」
 礼儀正しく……というよりいっそ無神経に、赤屍はおとなしく卑弥呼の言葉を待つ。
 しかし彼女は、待てと訴えてはみたが、激しい突発的頭痛に倒れ込みそうだった。
「………それであんたは、何て答えたの?」
「卑弥呼さんのことが、好きだと答えましたけど」
 一瞬の迷いも躊躇もなく、朗らかに死神がさえずった。
 至極当然、何の含みもございませんといった態度。まずかったという意識が全く無いのだろう。我慢に我慢を重ねていた少女は、正当な権利としてぷっつりとブチ切れた。
「それが原因でしょうが――っっ!!」
 赤屍のコートをひっつかむと、目線が合う位置まで引き寄せる。
 素直に身を屈めた男のシャツの襟首を両手で握りなおし、ゆっさゆっさと揺さぶった。
「何を考えてるの!? 言葉は正しく使いなさいよ!!」
「やはりあれでしょうかねえ。あのときゲットバッカーズのお二方はいませんでしたが、元四天王のお二人がおいででしたし……」
「ますますどう考えたって、ソレが原因じゃないの――っっ!!?」
「……卑弥呼さん、痛いです」
 ぐらんぐらんと揺らされて、さすがに赤屍が嫌そうな顔をする。
 少女の手にそっと触れ、だが圧倒的な腕力の差でこぶしを開かせると、己を解放させた。しかし首を締められていた赤屍より、卑弥呼の方がよっぽど真っ赤な顔をしている。相当に頭に血が昇っている証拠だ。
「あの二人に伝わったってことは、天野銀次にも! つまりは蛮にも知れたってこと!?」
「ああ、そうですね」
「呑気にしてないで、なんとかしなさいよ――っ」
「何とかと言われましても……あちらこちらで、否定して回ればよろしいのですか?」
 真顔で尋ねられ、卑弥呼はふと想像する。
 赤屍ともあろう者が、この手の噂を必死に否定して回っていたら……
「それじゃかえって、肯定してるようなもんよ――――っっ!」
「やれやれ。それではどうしろというんです?」
 手の打ちようがありませんねと。平然と笑ってのたまう男の足を、思い切り蹴飛ばそうとして……さすがにと言おうか、避けられてしまう。
 大したダメージになる訳でなし、甘んじて受けるくらいの気概は無いのか。ぎろりと睨みつけるが、男は帽子のつばに手をかけて、慇懃に表情を隠す。いくら非力な卑弥呼相手とはいえ、渾身の力を込めた攻撃は嫌だったらしい。
 諦めきれず、何か仕返ししてやろうと隙を窺う少女へと、赤屍は物柔らかな笑みを向けた。
 いつもの虚ろで底知れぬ笑みではなく、優しげで慈しみの情を感じさせるそれ。滅多に見られぬ、人間らしさを秘めた表情。自分が少なくとも気に入られてはいると、信じたくなる瞬間。
「――けれど卑弥呼さん」
「な、なによ……」
「私は、本当に、あなたのことが好きですよ…………?」
 つい本気だと思い込むくらい、欠片も他意は感じられない。
 それは子供が玩具に向ける感情だったり、愛らしい小動物を想う気持ちと同種だったり。よく出来た機械仕掛けの人形が、プログラム通り定められた台詞を紡ぐのと同じなのかもしれない。けれど脳裏で警鐘が聞こえても、騙されそうなほど微笑は悪意なく。それだけに、始末に負えぬ。
 彼は何処まで意識しているのだろう。底知れぬ闇を抱きながらも、妙な部分ですっとぼけた言動を繰り返す男。確信犯ほど性質が悪くなくても、天然だけで充分どうしようもない。
「――馬鹿言ってるんじゃないわよ!?」
 うろたえ、焦り、茫然として――我に返った少女は、思い切り赤屍に叫ぶ。
 勢いよく怒鳴った後、立ち止まった男を置いて、卑弥呼はさっさと家路をたどり始めた。
 件の話はこれにて終了。これ以上赤屍と関わっては、余計な墓穴を掘りかねない。根も葉もない噂なんて、放っておいてもすぐに消える。
 引き摺って来た勢いのまま、何となく彼と一緒に歩いていたが、仲良く帰る必要など無いのだ。仕事はとっくに終わったし、夜道が怖い歳でもない。多少の危険は対処できる。
 捨て台詞と共に置き去りにされた死神は、しばらくそのままその場所に立っていた。やがて彼女の言葉が脳内に浸透するにつれ、くすくすと笑いが零れ出す。
 まったく、これだから彼女は面白い。
 始めて出会った一瞬だけは緊張感に溢れていたが、すぐさま自分の暴走に怒り、時には手さえ出して来る性格。怖れを知らず、己を曲げることをよしとせず、かといって、頑固すぎて融通が効かぬ訳でもない。
 彼が少女を気に入っているのは、まぎれもない事実だ。他の相手なら、切って捨てたくなるような無礼も気にならぬ程に。簡単に振りほどける腕が、自分をつかむのを許すくらいに。まるで異なる方向へ帰る少女と、暗い夜道を同行しようと考えるまでに。
 傍若無人な態度も、ある意味赤屍をあなどる言動も、気に障ることはない。その感情に甘い名前をつけるつもりは無いが、これを特別扱いというならそうなのだろう。
 闇の中、肩をいからせてどんどん小さくなる少女の背後に、滑るように黒い影が付き従う。その姿は、生気に溢れる少女を狙う死神のようであり――稚さの残る娘を護る、黒衣の守護者とも見えた。


*     *     *


 火の無いところに煙は立たずの格言通り、信憑性の全く無い噂は笑いの肴にされるだけ。信じる者が現れるには、多少なりとも真実味が必要である。
 夜を往くふたつの影が、互いの存在を許容しあっているのは誰にでもわかる。畏れられるべき死神と、自然にそんな関係を築いていること自体が、噂の遠因となっている。
 ついさっき、死神の鎌をすり抜けた――少女の一言によって加減された一撃に命を救われた者達もまた、噂を広めるに違いない。死神と少女がいかに近しい関係にあるかを。
 その正体が恋情のような、汚れた憎しみに酷似した感情ではないとしても。 




《終》