『あまごもり』 |
闇夜の帳を厚くして、雨が激しく降り続いていた。 濡れるのを厭わず新宿を闊歩していた赤屍は、路上にあるモノを見つけて機嫌を上昇させる。 雨宿りの最中なのだろうか。常夜灯だけがぼんやり光る寂れた様子のビルの入口、その小さなひさしの下に、金髪の少年が独りで座り込んでいたのだ。 「こんばんは、銀次くん」 「あ……かばね、さん…………」 微かな灯りを享けた髪が、柔らかく輝いて見える。 剥き出しの細い手足は、妙に寒々しい。 突然の呼びかけに驚いて男を見上げて来た眼差しは、心細げな不安定な光を宿していた。常の溌剌とした生気が窺えずに、内心で首を傾げる。 「おひとりですか。美堂くんと喧嘩でも?」 「違います。今日はちょっと出かけてるだけです!」 即座に否定しながらも溜息を吐く。迎えの当てもなく座り込んでいるのは、人懐っこい少年にとっては苦痛なのだろう。 「傘持ってないし、濡れるの嫌だし……」 「――なるほど」 この雨脚では走っても確実に濡れてしまう。仕方なく此処で雨が上がるのを待っていたらしい。 それなりにこの少年に対して含むところある赤屍にとっては、滅多とない好機だ。 どうしてやろうかと、死神は唇を弧の形に吊り上げる。 「――近くに私のねぐらがあるのですが、ご一緒しませんか」 そっと手を差し伸べてみたが、少年は困り顔で視線を揺らす。 珍しい態度に、おやと眼を瞬く。予測していた恐怖ではなく、浮かべたのは微妙な困惑。どこか切なげで憂いすら帯びた表情は、日頃の無邪気なお子様らしさとうって変わって、思春期特有の不安定さを感じさせる。 断られても無理強いしようと決めていたが、疑問に気をとられて即座に昏倒させるのは思いとどまる。銀次にこんな顔をさせる原因は何だ。いつでも思いもよらぬ行動で驚かせてくれる子供は、さて今度は何に惑っているのだろうか。 「駄目です。オレ……すっごくお腹が空いてるから」 「――はい?」 笑顔の下で物騒な企みを巡らせていた男は、予想外に聞き慣れた単語を耳にして、つい反問してしまった。 空腹なのと、死神に拉致されたくないのと。どう繋がるのか、赤屍には理解不能だ。この少年とは思考の基本構造が違い過ぎて、興味は持っていても歩み寄りがまだ足りない。 「ここ三日ほどなんにも食べてないんで、ムチャクチャお腹減ってるんです。だから……」 「動く気力もない、訳ですか?」 「それもあるけど雨に濡れたりしたら……うっかり周囲に放電しそうで…………」 力なく笑いながら、少年は電気うなぎよりも頼りない呟きを洩らした。動物でも自分の電流くらいは制御するというのに、なんと情けない。あえて不甲斐なさを指摘する意欲も湧かずに、死神は浮かべた微笑で感想を誤魔化した。 「……だからといって、ずっと座り込んでいるつもりですか」 「いいんです、放っておいてください」 呆れた気配は伝わっていたのか。視線を合わさず、拗ねたように言い放つと、抱えた膝の間に顔を埋めてしまう。闇の気配はしばらく前方に佇んでいたが、銀次が無視し続ける内に、静かに消えていった。顔を上げぬまま動いた空気でそれと察し、少年は小さく溜息を吐く。 畏怖すべき死神に何かを期待していたのでは、決してない。縋る気持ちも無く頼るべきも彼ではない。それでも、夜闇の中ではぬくもりが欲しくなる。 (……いいんだ、雨がやむ頃には蛮ちゃんも帰って来る) そうしたら、何もかもいつも通りだ。朝になってスバルに帰って、ちょっとだけ蛮に怒られて日常へと還るのだ。 空腹は孤独まで助長するのか。いつもは傍にいると緊張する男の消失さえ、ひどく寂しい。それでも雨の音を子守唄にうとうとする中、パシャンと水の跳ねる音が聞こえて意識が微かに浮上する。殺気は無い。ただの通行人だろうと再び眠りに落ちようとした銀次に、穏やかな声がかけられる。 「――こんなところで眠るのは感心できませんね」 「あ……れ、赤屍さん? 帰ったんじゃなかったんですか」 寝起きのぼんやりした浮遊感と、寂しさが混ぜ合わされた、人恋しい気分で瞼を開く。気になって引き返すなんて死神に限って有り得ない話だろうに、如何なる気まぐれなのだろう。嬉しいような恐ろしいような矛盾を覚えながら、少年はぱちぱちと瞬いた。 「どうぞ、銀次くん」 「…………へ?」 きょとんとする子供と死神の視線が絡まる。 その目の前にそっと差し出されたのは、コンビニの袋――に、入ったカラアゲだった。 視界にその物体を把握するや否や、銀次の瞳がギラリと光る。 最後に胃袋を固形物に使用してから既に三日が過ぎ、生死に関わる段階に達しようとしていた成長期の子供にとって、もっとも重要なのは腹を満たすことだった。もちろん、黒衣の男からの差し入れの意外さに、感慨がなかったといえば嘘になる、が。 三日ぶりの食料、実は五日ぶりのたんぱく質に眼を輝かせてがしりと袋を奪った子供は、まさしく飢えた獣のようにばくばくと口の中にカラアゲを詰め込み、お約束の如く喉を詰まらせ、どんどんと胸を叩いた。 「――こちらもどうぞ」 「あう……ずみまぜ……」 すかさず準備良く手渡されたのは、ペットボトル入りのお茶だ。有難く受け取ると、蓋を開くのももどかしい勢いで、ごくごくと喉を潤す。その返す手でカラアゲを口に放り込み、銀次が何とか一息ついたのは、見事にぺろりと袋をカラにした後のことだった。 「あ…………その、ごちそうさまでした」 「いえいえ、お粗末様です」 くすくす笑っている男は、割とご機嫌な様子だ。 人心地ついて我に返った少年は、死神の変わらぬ笑顔にほっとした。こんな優しいところは好きだと思う。間違いなくコワい男だが、全くの悪人とも思えない。相棒や友人達が今の銀次の内心を知ったら「騙されている!」と叫ぶだろうが、本人としてはいたって正直な心境である。 しかし銀次は、ひとつだけ確認せずにはいられなかった。聞かない方が良いのかもと思ったりもしたのだが、けれど。 「赤屍さん……ひょっとしてコンビニでカラアゲ買って来てくれた……んですか」 「はい」 「あ〜……そうですよね」 死神の恩恵を享けた上では言い難いが、店員に少し同情する。夜更けにこの男が現れては、さぞかし緊張しただろう。赤屍は万国共通に怪しまれる条件が備わっている。 しかもカラアゲは、大抵はレジの前に置いてある。黒尽くめの笑顔の男が何も持たずにレジに寄って来たら……自分なら殺される前に逃亡するか、非常ベルで通報してしまいそうだ。 「えーっと、どうしてこんなコトを……?」 「お腹が空いたと言っていたからですが」 「は、確かに言いましたが……ここまで手間をかけて下さったのは何故なのでしょうか」 「それは勿論、銀次くんが好きだからですよ♪」 「は……ははは、は……」 次々と聞くべきでなかった事実が明かされていく気がする。 顔が引きつるのがわかったが、ここまで来たら毒も皿も食らう覚悟で、もうひとつ聞いておこうと勇気を振り絞る。実は前々からある疑問があったのだ。 「赤屍さんの好みのタイプってどんなのなんですか………」 「――そうですねえ」 丈夫で長持ちするのが一番です。 にっこり笑いながらの台詞は、到底人間に対する感想とは思えない。 しかし自分にはばっちりと当てはまる気がしたりしたので、銀次は顔を引きつらせながら乾いた笑顔を浮かべた。 |
『終』 |