『彼を餌付けする理由と動悸が激しくなる因果関係』






 声をかけたのは、面白そうだったから。
 夜通しの仕事を終えて、昼前に新宿で『仲間』と解散した後。
 あまり楽しめる仕事では無かったため、赤屍は少しだけ不機嫌だった。
 街行く人々は都会の無関心さで、黒衣の怪しげな男を気にかけることもない。時折彼に眼を留める者がいても、すれ違えばすぐに興味を失ってしまう。闇を畏れる者とてない昼間の都市は、赤屍にとって退屈極まりない。
 だから彼を見つけたとき、声をかけてみようと思った。
 強いが弱く、激しく脆い少年。
 思いがけぬ強さで自分を追い詰めたかと思えば、他愛の無い仕草にも怯えて逃げ惑ったりもする。仕事絡みでない今、戦いの楽しみを得るのは無理だろうが、生きて動く姿を見ているだけでも彼はかなり面白い。
 少年はこちらに背を向けて、洒落たイタリアンレストランのショーウィンドウを、かじりつくようにして見つめている。眩く光る金色の髪と見覚えた服装のおかげで、背後からでも『彼』だとすぐにわかった。
「何を見ているんですか、銀次くん?」
「――……へ?」
 ぽかんと無防備に振り返った子供に、にっこりと笑顔をお見舞いする。どうやら彼が死神の笑顔を怖がっていると知った上での、ささやかな挨拶――心をこめた嫌がらせだ。
「ああああああああああああかばね!!?」
 思い切りうろたえながら呼び捨てられたので、おやと思う。別にどう呼ばれようと構わないのだが、子供なりの基準で死神を呼び捨てるのは、敵対している最中だけかと思っていたので。どうもそれだけ動揺しているらしい。
「何をしているんです?」
「あ、あうう……」
 ますますにこやかに微笑みかけると、うろたえた様子で背後と自分とを窺う。
 ああ、彼はお腹が空いているのだ。けれど飢えを満たす元手がない。それを赤屍に知られたくもないのだろう。わずかばかりの矜持を守るためか、羞恥心から。優秀なる奪還屋の、腕に反比例する貧乏っぷりは噂に聞いていたので、推測は簡単だった。
 そして類推される、楽しみをもっと引き伸ばす方法。
「こんな場所でお会いしたのも何かのご縁です。昼食でもご一緒しませんか?」
「え、ごはん!?」
「ええ……ご馳走しますよ?」
 微笑んで返事を待てば、わずかに躊躇しながらも、子供はあっさりと頷いた。
 生存の危機を覚えながらも食欲が優先される辺りが、まだまだ子供だ。彼を見て小動物が連想されるのは、多分こんな反応に原因がある。愛らしい小型犬や小さなハムスター。愛される為に飼われている、愛されることしか出来ないイキモノ。
 けれどこの子供は、独り立つだけの牙を持っているところが自分の興をそそる。弱いだけの存在なら、殺して打ち捨ててカケラも記憶は残らない。
 己にしては珍しい執着の意味を考えることなく、死神は先に立って少年を導く。
 いずれ至る結末は同じだとしても、経過を楽しむのは赤屍の流儀に叶ったところだ。



 面倒だからと、銀次が凝視していた店にそのまま入る。
 木目を生かしたカントリー風の内装と、軽快に流れるポップミュージック。ニンニクやトマトの香ばしい匂いが店中に漂っている。
 万年金欠病の銀次には縁薄い店内である。ただし、どうしようもなく浮いているのは相変わらずの黒衣をまとう赤屍の方だった。しかし互いに他人の視線を気にする性質ではない。赤屍はこの格好を通し抜く図太い神経を持つが故に、銀次は注目を集める一群の中心として生きていた過去から。単に鈍くて気付いていない、ともいえる。
 店の扉を開けるなり、迎え入れてくれたウェイターはかなり腰が引けていたが、赤屍は気にせずに銀次はうきうきとして気付かず奥の席に陣取る。そこで死神が帽子とコートを脱いだので、店内の緊張感は一気に薄れた。
 元の顔立ち自体は端整で上品な男である。白いシャツ姿になると、いつもより数段胡散臭い物騒さが薄れて、銀次の警戒心をも薄れさせる。タイが黒色なのは、葬式帰りだとでも思ってしまえばいい。死者を量産している事実を考えると、あまり洒落にならないが。
 親切にもテーブルの横に立てかけてあったメニューを手渡してくれる。その動作も優雅なものだ。そういえば彼の動きはいつだって無駄がない。驚嘆すべき速度を保つために、意識せず身についているのだろう。
「さて、お好きなものをどうぞ」
「ほんとーに、ほんっとーに、良いんですね!?」
 未だ探るような疑いの視線を向ける少年に、笑って頷いてやる。
 銀次の腹が弾けるまで食べようとも淋しくなるような懐具合ではなし、少年が店の食料を食い尽くそうとも死神は笑っているだろう。それだけの度量――もしくは非常識さも、お互いにある。
「赤屍さん、赤屍さんってイイヒトだったんですね!」
 第三者がこの場にいたら、それはどうだろうと突っ込んだかもしれないが。素直に喜んだ銀次は、ぱああーっと背後にヒマワリでも咲かせそうな勢いで満面の笑みを浮かべる。
 その瞬間―――死神は、僅かながらも動揺した。
 眼の前の子供が何かした様子は無いのに、確かに激しいものが身の内を駆けて行った。まるで戦いの最中に電撃に貫かれたような感覚に慄く。まさかこの少年が、無邪気な仮面をかぶって罠を仕掛けて来たとでも?
 メニューをわくわくと見つめる少年を観察しながら、赤屍の理性は冷静に告げる。いや、そんなはずはない。彼にそこまでの気概があるとは思えない。仕掛けるにしてもせめて、食事を食べた後にするだろう。
 嵐を呼ぶ雷帝というより光まとう太陽の子と呼びたくなる、晴れ渡る青空の下で笑っているのが似合う光の子供。忌まわしきあの無限の城から逃れられたと愚かに錯覚したままで、愛らしく微笑む少年。
 思えば出会って以来、彼の意外な顔には驚かされてばかりだ。
 ついには無邪気な笑顔にほだされました、だなんて。洒落にしても笑えない。
 多分、気のせいだろう。柄にもなく他人を喜ばせているから、調子が狂ってしまったのだ。
 やがて皿が運ばれてくると、子供は目を輝かせてフォークを手にする。真っ赤なソースのトマトとブロッコリーのスパゲッティ。血の色より明るい赤色、食欲をそそる香り。不器用にぐるぐると巻きつけたパスタを、銀次は大きく開けた口の中へと運ぶ。
 驚くべきスピードで貪るように皿を空にしていく姿からは、日頃の食生活の貧しさが如実に窺えて哀れにさえなってくる。刹那の疑惑は掻き消え、ただの子供を相手にしている気分になる。妙に優しい暖かな想いは、ますます柄でもないのだが。
 それはそれで面白いと思ってしまうのは、どうしてなのか。
「銀次くん、頬にソースがついていますよ」
「ほえ?」
「……ああ、そちらではなく」
 瞬く間に大盛りのパスタを平らげた少年は、あらぬ場所にまで赤い飛沫を飛ばしていた。
 フォークを口にくわえたままで顔を上げると、銀次はごしごしとまるで見当違いの場所をこすった。
 赤屍は呆れ果てながらも手袋を外し、右手を少年の頬に伸ばす。唇をかすめるようにして、指先でそっとソースをぬぐってやると、にへらと締まりなく笑った子供がありがとーございますと礼をのべてくる。能天気な笑顔には、警戒心はカケラも残っていない。仕方あるまい、自分ですらすっかり毒気が抜かれてしまっている。
 その銀次が一転してぎょっと眼を見開いたのは、直後のことだ。
「あ、赤屍さん、それ……っ」
「はい? 何ですか」
「いえいえいえなんでもないですっ」
 ちらりとテーブルの上を見ても拭くものが無く、小さく溜息を吐いた男はチロリと赤い舌を見せて指先のソースを舐めとった。他に拭くところも無いし、仕方があるまい。
 銀次に呼びかけられるまでもなく、行儀が悪いのはわかっている。しかし元凶は彼なのだから、咎められる筋合いでもない。何も言うなと圧力をこめてジロリと見返せば、何故か子供は頬を染めながら口をばくばくさせている。
 動揺する少年を、男は怪訝そうに見つめる。銀次は焦った様子でゴクリと口の中のパスタを飲み込み、ぐるぐるとフォークを動かすが、当然ながら既に皿は空っぽになっていた。空を切るフォークにようやく気がついた少年のうろたえまくる姿は可愛らしささえ漂わせるが、ここまで慌てられるとこちらまで気恥ずかしくなってくる。
 それほど大した真似をしたつもりはないのだが。
 無駄にこみ上げてきそうな動揺を、小さく息を吐いてやり過ごし。誤魔化すように、水を一口含む。そう、別に大したことではない。あまりに彼が子供っぽいから、つい手が出てしまっただけ。
 平静を装いながらも落ち着かなく視線を揺らした男の眼に飛び込んで来たのは、鮮やかに人目を惹くメニューだった。何かを曖昧にする為に、それを再び手に取ってみる。
「……もっと、食べますか?」
「――――はい!」
 眼をぱちくりさせた少年は、大きく何度も頷いた。
 気が変わらない内にというように、焦ってメニューに手を伸ばす。それは彼もまた動揺しているのを隠すためなのだとは、思ったが忘れることにする。
 微笑ましく可愛らしいと思いつつも、ただ子供扱いしたのではなく。何故わざわざあんな世話を焼いたのかは、考えないことにする。該当する理由は、想定外だ。


 だから互いに。
 今はまだ、何も気付かない。
 ――知らぬふりをしたままでいる。


《終》