逆説的恋愛論  〜雨上がり〜

 自分以外の誰かが何を考えているかなんてわからない。
 時に自分のことだってはっきりしない。
 内心がわからないのは別に、彼に限ったことではないけど、なのに彼の心の内だけは知りたくなる。それはあの人が特別だからなのだろうか。

 特別な存在。
 それが大切なものだとは限らない。
 何よりも誰よりも強く、激しく願うもの。求めるもの。欲するもの。

 彼は――いったいなに?
***   ***   ***
 夜半過ぎまで、雨は激しく降り続いていた。
 明け方になってようやく晴れ間が見えたきたものの、蛮はこのまま惰眠を貪るつもりらしく、動き出そうとしない。車の屋根を叩く水音がうるさくて、よく眠れなかったのだろう。仕事も無いし、エネルギー消費を考えると正しい判断とも言える。
 それでも銀次が動き出したのは、時間が来ると空腹を感じる正直なカラダのせいだけではなく。雨上がりの空が、見事なまでに真っ青に澄み渡っていたからだ。
 早朝の街は、どこか張り詰めた空気を感じさせる。寒々しさを煽るのは冷たい大気だったり、人の少ない道や、まだシャッターの下りた店だったりする。
 水たまりを避けながら未だ眠りから覚めきらぬ街を歩いていると、独りであることが寒々しく身に沁みて、ぬくもりが恋しくなってくる。 
 仰ぎ見る天の美しさには、どれだけ手を伸ばしても届かぬ哀しささえ感じる。どこか切ないそれは、誰かを見ている時に感じる想いに似通っている。
 たとえすぐ隣にいても、言葉を交わしても、わかりあえたと思ったことのないひと。
 誰より強くても、その強さを他者と分け合う意志の無いひと。
 銀次にとって強さとは、仲間や弱い者を守るために必要なモノだった。いつだって強くありたいと思っているけど、力を欲する理由を見失っては意味がない。なのに、彼は。どうしてあんなに躊躇なく在れるのだろうか。それが、確かにある種の『強さ』をもたらしていると判ってしまうから、自分の願う『正しさ』と矛盾すると感じるから、堪らなくなるのだ。
 ぼんやりとした淋しさを覚え、帰ろうかと踵を返した銀次は、ちょうど視線の先を横切った影に気付いてギクリと身を強張らせた。
 いつからか、すっかり覚えてしまったシルエット。というより、一度でも関われば忘れられない姿であり、性格でもある。気に留めずにはいられない、存在感を持った人物。彼を見つめる行為は、決して不快なだけではない――それで畏怖の念までも薄れるかどうかは、別問題だが。
 肌寒い季節であってさえ、引きずりそうに長い黒のコートは異彩を放っている。
 その顔がいつにも増して楽しげに見えるのは、気のせいだろうか。
 不意に相手が立ち止まり、視線を流してきた瞬間――心臓が大きく跳ね上がった。
「あ、あ、あ、あ、赤屍さん!?」
「おはようございます、銀次くん。朝の散歩ですか?」
「……は、はい………赤屍さんは………ひょっとして、お仕事帰りですか」
「ええ♪」
 にっこり微笑む男は、非常にご機嫌がよろしい模様だ。
 幸いにも、嗅ぎ慣れた鉄臭さは感じなかったが、この分では満足のいく結果だったのだろう。どんな内容だったのかは、主に精神衛生上から知りたくなかった。清々しい朝っぱらから、今更な内容を巡って死闘を繰り広げたくはない。それでもつい、口をついて悲しみが零れるのが銀次の彼たる由縁だ。
「お仕事……うまくいちゃったんですね……」
「おや、そんなに私の仕事を失敗させたいんですか」 
「いえ、そーゆー訳ではないんですけどお〜」
 微妙に笑みの種類を変えられて、何だか背筋にゾクリと走るものがある。
 銀次は赤屍の不幸を願ったのではなく、彼が仕事を楽しむ過程で誕生する不幸が嫌だっただけだ。赤屍が心楽しく人生を送るのには、全く文句は無い。
 たとえば金に困った姿が想像出来ない赤屍を、うらやましくは思う。だからといって妬んで、仕事の失敗を願ったりはしない。銀次の精神構造は、そんな根暗な発想とは無縁だ。しかし赤屍の仕事のやり方を考えたときに、ちょっとだけ満足いかない仕事であるよう神頼みしたくなったりもするのである。
「オレはいつだって赤屍さんの仕事が、いろいろイロイロと無事に済むよう祈ってますよ」
「――それはありがとうございます」
 微妙に遠まわしな表現を、どこまで深読みしたのやら。
 口角を吊り上げ、笑みを表現した男はしかし、あっさりと否定の言葉を吐き出す。
「けれど、申し訳ないですが今日の仕事は失敗したんですよ」
「…………えええええええっっ!!? じゃあ、どうしてそんなにご機嫌なんですかー!?」
 脳が言葉の意味を理解した直後、銀次は絶叫した。
 今、自分はとっても奇妙で信じ難い言葉を聞いたと思う。かえって怖いくらいに。
「非常に過程は楽しめましたので」
 その馬鹿でかい声を予測していたのか、心持ち後ろに下がって音波を避けながらも、赤屍の微笑みは益々深いものになっていく。
「……ええと、それはいっぱいコロせたということなんでしょーか」
「違います。手強い方とお会いすることができましてね。結果は痛み分け、といったところでしたが」
 そうは言っても、仕事に失敗したというなら、運ぶ予定の荷物は奪われてしまったのだろう。殺しすら否定したのだから、相手にも逃げられたのだろう。
 見れば確かに赤屍の黒い衣服は、いつもと違ってあちこち破れてボロボロだ。
 滅多に見れない姿だが、さすがというか露出した肌には傷ひとつ無い。服だけとは考えにくいし、当初は中味もコワレていたのだろう。しかし治癒力のデタラメな体質なのは、二人ともお互い様である。今更突っ込みあう点ではない。
「それでなんで楽しかったんですか!?」
「なかなか楽しいひとときを過ごせましたからね。今から次が待ち遠しいですよ」
 ひょっとしたら、自分達とやり合った後もこうやって笑っていたのだろうか。気に入った、という彼の表明は全然嬉しくないが、うっとりとした笑みには眼を奪われる。
 どこか陶然として、夢見るように優しい微笑。
 この瞬間、赤屍の興味の全ては確かに他へと向かっていた。自分ではない、赤屍を楽しませた存在。発露する感情は物騒極まりないものでも、彼の心を独り占めにするイキモノは、銀次の知らない誰かなのだ。
 何故だろう、そう考えるのは酷く苦しかった。見知らぬ誰かが気の毒で、可哀想で――それだけでなく、訳もわからず心騒ぐ。
「オレ……赤屍さんが何を考えてるか、さっぱりわかりません」
「おや、奇遇ですね。私もあなたの考えることなど全く検討がつきませんよ」
 クスクスと微笑む男は、そう言いながらもまるで困った様子は無く――銀次の困惑は深くなるばかりだった。赤屍が何を考えているのか。どうして殺戮に――戦いにあれほど執着を示すのか。自分には全くわからない。
 銀次が知っている赤屍は、仕事で関わった僅かな時間が全てだ。
 情け容赦なく弱者を滅ぼし、それすらも楽しいと哄笑する死神。実力は随一ながら、限りなく気まぐれで仕事すら放棄する熟練の運び屋。何を至上と思って動くのか、予想がつかない人種。それとも、理解に苦しむのは自分が愚かだからなのか?
 彼はいつまでも安らぎや平穏を拒み、他者と理解しあうことも拒んで生きていくのだろうか。自分との出会いに、殺し合いたい相手を見つけたという以外の意味を見出そうともせずに。いずれ己の手で屠りたい獲物として以外の価値を求めようとしないで。
 無性に口惜しくて、拳をぎゅっと握り締める。
 彼の心を変えることが出来ない己の無力さが、何よりも悲しかった。もっと、認めて欲しいから。面白そうな獲物、嬲り甲斐のある玩具としてでなく、存在価値を認めてもらいたいから。
 息苦しくなるほど、激しく沸き起こる感情は、何と呼ばれるべきだろう。己の心は、何処へ趣こうと足掻いているのか。
「……いいじゃありませんか。思考の全てが読める相手など、存在する意味がありません」
 黙りこんでしまった相手から、何を感じたのか。
 銀次を観察していた男は、密かに口元を緩ませる。ひどく当たり前の事実を述べる口調で。
「思っていることがわからず、思いもよらぬことを仕出かしてくれるからこそ――他人が存在する意味があるのでしょう」
 何もかもわかってしまうのも、興ざめします。
 そうやって笑う男には、皮肉を言っている様子はない。
 彼が告げた言葉は、確かに間違いのない事実で、万人が思いつく使い古された理屈だ。それでも、世界中を敵に回しても怯むことも、嘆くこともしないだろう赤屍が口にすれば、特別な感慨を生み出す。彼であってさえ、他者が存在する価値を量りはするのだと。
「でも俺は……赤屍さんが考えてることを、もっと知りたいです」
 わからないから、知りたくなる。
 知りたいのは、興味があるからだ。
 相手を理解したいと思うのは、好意の始まりなのかもしれない。意識して考えた訳では無いが、妙に気恥ずかしさを感じながら、決死の覚悟で申告する。赤屍が不快に思ったなら、即座に切り捨てられる言葉だとわかっている。物理的な問題でなく、精神的な排除の方が傷は深い。
 予想外の発言をした銀次の顔を、赤屍は不思議そうに見返してくる。
 そこに何を見出したのか……死神は楽しげに、少年へと向き直った。
「私も、銀次くんのことを知りたいと思っていますよ」
 何もかもが銀次の杓子からはかけ離れた男は、無垢な子供を闇へと誘う悪魔のように、優艶に微笑む。真意のわからぬ底知れぬ笑みは、何を思って浮かべられたのか。自分の心情すらつかみ切れぬ銀次は、喜んでいいのかわからず困惑する。言葉は好意から発されたのか、相手を効果的に嬲る為にと、弱みを求めてのものなのか。
 惑う少年を、赤屍は変わらぬ笑顔で見つめ続ける。


 ――その眼差しの意味も、誰も知ることはない。

《終》