西国の雄 毛利元就

一、西国の雄 毛利元就の生涯


一、元就の生い立ちから元服まで

元就は1497年(明応六年)、毛利弘元の次男として安芸吉田郡山城に生まれました。幼名、松寿丸。

1500年(明応九年)元就四才の時、父・弘元はわずか八才の嫡子幸千代丸興元に家督を譲り、自らは隠居の身となって
多治比の猿懸城(さるがけじょう)に移り住みました。この時、元就も父に連れられ猿懸城に移り住みます。

父弘元はまだ三十三才。この異例の家督相続の背景には応仁の乱以後の乱世による周辺諸国情勢が強く影響しています。
当時足利将軍家では十一代将軍足利義澄と前将軍足利義稙が争い、京を追われた義稙は当時中国一の大名といわれた
山口の大内義興を頼り、義興もこれに答えて義稙を奉じて上洛する構えを見せ、毛利家に対しても上洛軍に従軍するよう
要請してきました。
これに対し義澄方の幕府からも毛利家に対して東軍に組して、西軍の大内義興と義興の擁立する義稙を討つよう命じられ、
毛利家は義澄方と義稙方の板挟みとなり、結局弘元は嫡子幸千代丸に家督を譲り毛利本家は義稙方に、
また隠居した弘元は義澄方につき両方の要請に答えるという苦肉の策を取ったのです。

父とともに多治比に移り住んだ元就でしたが五才の時に母が、また十才の時には父・弘元が死去。わずか十才で両親と
死別します。さらに十一才の時に兄興元が大内義興に従って京に上がり、その留守を良いことに元就の後見人井上元盛が
父の遺領多治比三百貫を横領し、元就は猿懸城を追い出されてしまいます。
この時、父・弘元の側室であった杉の大方という女性は元就の苦境を見るに見兼ね再婚もせず多治比に留まり、自分の屋敷
がある相合土居に元就を引き取り養育しました。(97年大河ドラマ「毛利元就」では杉の大方を松坂慶子さんが好演!!!)

その後、さいわいにして(?)井上元盛が病死。同じ井上一族の尽力もあり多治比三百貫と猿懸城が元就に返還され、
元就は十五才にしてやっと猿懸城に復帰することができました。
そして元就十五才の時、元服。多治比少輔次郎元就と名乗りました。

この元就の元服については、杉の大方が京に在陣中の興元に使者を立てたところ、興元は「自分は元服にして少輔太郎
と名乗ったので次男である松寿丸は少輔次郎と名乗りなさい。また実名の元の字は毛利家代々の通字であるから言うまでも
なく、下の字は東福寺へ行って彭叔和尚に適当な字を選んでもらいなさい。」と命じました。
そこで使者は東福寺に彭叔和尚をたずねて命名をお願いすると、彭叔は本卦を立て、韻経と周易をひもといて「就」という字
を選び、「本卦は氏の卦にて、この方は名大将となって数ヵ国を切りしたがえ給うとある。庶子に生まれ給いたりといえ
ども、やがて総領家を相続し給うべき本卦でござる。実名は元就と名乗るのがよろしかろう。」と言いました。
これを聞いた使者が喜んで安芸へ帰り杉の大方に報告したところ、杉の大方も喜んでこれを松寿丸に伝え、吉日を選んで
元服の式を挙行したそうです。



《元就の生い立ちから元服までについて安芸中納言の考察》

元就の生い立ちに関しては十才にして両親を失い、また十一才で兄が大内義興に従軍して上洛し
十一才で頼る人もいない孤独の身となった上、さらに井上元盛には所領を横領され猿懸城から追い出されるなど
正直本当に可哀想な印象を受けました。
ですがその中でも唯一元就の救いなのが杉の大方の存在です。当時の乱世の世の中で立派に元就が元服出来たのも
杉の大方のおかげといっても過言では無いのと思います。(後に元就は杉の大方には心から感謝しているという趣旨の書状
を嫡子・隆元に与えています。)
それにしてもこうして元就の生い立ちから元服までをまとめてみると改めてこの時代の混沌さ、乱世の凄さを見せつけられた
ように思います。それを強く感じたのが父弘元から八才の嫡子幸千代丸興元への家督相続です。
中央での争いの渦がこんな安芸の山奥にある吉田にまで波及し、その結果として親と子とでそれぞれ敵味方に別れなければ
毛利家は存続できない・・・。しかも十才で両親と死別し家臣に所領を横領され、領民からは「みなしご城主」と言われていたな
ど、まさに元就は幼い頃より当時の下克上の世の中に直面し、その苦境を幸運にも生き延びることができたのだなぁと痛感しま
した。
これらの経験が、後の元就の偉業に強く影響し成功に結びついたのではないかと私は感じました。

 

製作者:安芸中納言
2001年8月13日


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