西国の雄 毛利元就

一、毛利氏の起こり


『毛利氏の起こりから元就にいたるまで』

毛利家は大江氏の末裔であり、その始祖は平城天皇の第一皇子・阿保親王(一品親王)の落胤・音人で、
毛利氏の家紋「一つ三ツ星」は、この一品を図案化したものであると伝えられています。
本姓の大江氏はこの音人のときに始まります。またその子孫には源義家に江家伝来の兵法を伝授したことで
知られる軍学者大江匡房や鎌倉幕府の公文所の別当となった大江広元などを輩出しました。

毛利氏の始祖は大江広元の四男季光で、相模毛利荘の地頭となり毛利姓を称したことから始まります。
しかし1247年に発生した三浦泰村の乱に季光が三浦氏側に加担したため自刃。
この時第四子の経光だけは越後に在国して乱に関与しなかったので、越後の佐橋南条と安芸の吉田荘を安堵
され経光の次男・時親が安芸吉田荘を相続して安芸毛利氏の始祖となりました。また、ここから毛利氏は
安芸毛利氏と越後毛利氏にわかれ、越後毛利氏が輩出した武将としては北条(きたじょう)高広などがいます。

そして南北朝の動乱期にこの毛利時親が安芸国に移住。時親の曾孫元春のころ、吉田荘の東部に郡山城を築き、
以後、これを本拠としました。

その後、広房、光房、熙元、豊元と続き、元就の父弘元にいたります。
その父弘元が1506年に没すると元就の兄興元が家督を相続。しかしその兄興元も1516年に24歳で病没し、
その子幸松丸が相続するも、これも1523年にわずか9歳で早世。

これにより幸松丸の叔父の毛利元就がその後を受けて安芸毛利家第十二代の当主となりました。


製作者:安芸中納言
2001年7月23日


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