「聖の青春」というタイトルの重み

                               ――― 大崎善生「聖の青春」を読む(2002.6.30)
大崎善生・著「聖(さとし)の青春」を文 庫で読みました。

 平成10年8月8日、一人の棋士が死んだ。
 村山聖、29歳。将棋界の最高峰であるA級に在籍したままの死であった。(1)

この本は、将棋世界編集長だった大崎善生による棋士・村山聖の生涯を描いたノンフィクションです。

あまり人には言っていないというか、言ってもわからないだろうからあえて話題にしていないのですが、私はかなりの将棋好きです。
もう何年も、将棋世界の7月号を買って順位戦の星取表を作り、5月号で一年の結果を反芻するというくらいの「好き度」です。
(どうです。ちっともわからないでしょう。)

だから、村山聖のことは知っていました。
「終盤は村山に訊け」と言われるほど仲間内から評価された棋士であったこと、常にネフローゼという病と戦いながら生きてきたこと、
そして、うっすらとではあったけれど「闘病のための一年間休場」の本当の意味も。

いわば、「あらすじ」から「感動のラストシーン」まで知っているわけですから、
改めて村山聖の一生を読むことにいささかの抵抗がありました。
もう十分に村山聖の悲しみについては知っているつもりでしたし、うかつな描写によって、
それがゆがめられるのも潔しとしないところもありました。
というのも、著者の大崎善生に対するイメージが、よく知らないなりに、けっしてよいものでなかったためです。

日本将棋連盟が編集発行する「将棋世界」は、文字通り将棋の世界の公式な機関紙です。
大崎善生の名前は、時おり編集長として記事の中に登場したり、署名記事もあったように思います。
そして、その将棋界、特に若い奨励会員に対して、一般読者には知りえないような情報を小出しにしつつ苦言を呈するような印象から、
勝手に大新聞のベテラン将棋記者が請われて編集を引き受けているように思っていました。
(あるいは、そんな大崎のイメージがあらかじめあったので、記事をそんな印象で読んでいたのかもしれません。)

ところが、とあるテレビ番組でみかけた大崎善生はまったく違った印象でした。
予想していたネクタイを締めてメガネをかけた初老の人物とは正反対の、
メガネはかけいたけれどすこし長髪気味でうつむきかげんの文学青年(ただし、1957年生まれ)が、そこにいました。

もともと作家志望で、大学を卒業して日本将棋連盟に入った大崎は、
10代で将棋界をめざし入ってくる奨励会員たちの兄貴分のように慕われていたといいます。
ひたすら将棋修行の日々を送る奨励会員にとって、大崎は勝負と違う次元で話ができる貴重な存在であったのでしょう。
大崎のほうも、20代でトッププロに駆け上がっていく(かもしれない)少年たちに敬意をはらいつつも、
彼らの修行の合間に許された短い休息のひと時を、少なくとも人生の先輩である「大人」として、ともにすごしていたのです。

しかも、村山の師・森信雄は、大崎の部屋を東京での下宿代わりと思って出入りしていたという、きわめて強い信頼関係のある間柄でした。
そんな大崎が描いた村山聖なら安心できようというものです。

実際、冒頭の村山の子ども時代を除いて、大崎の視線は取材者というよりも語り部に近いものがありました。
書きたいことはいくらでもあるのに、細かな説明に時間をさくことができなくて泣く泣く書かずに捨てたやりきれなさが、
たんたんと描く文章からも感じられました。

たとえば、「谷川浩司」「羽生善治」「順位戦」「名人」と言ったキーワードです。
これらの言葉は、将棋の世界を知るものにとっとては、言い知れないような「重さ」を持っています。
たとえ言葉の意味を説明できたとしても、その「特別な重さ」までも伝えきることは非常に困難です。
それでも、大崎はなんとか象徴的なエピソードをみつけてだして伝えてくれます。
私程度の将棋ファンでも、ひとつひとつの言葉の背景にある様々なことがわかるだけに、
大崎自身が抱え持つ伝え切れなかった大崎の思いの大きさがなおさらに増幅されていくのでした。

それは、(私が知るはずもない)「生身の村山聖」をめぐるさまざまな物語でも同じです。
きっと村山聖をよく知る人が読んだならば、
「彼のあの部分を伝えようとして、今このエピソードを語っているのだろう」という思いにひたることができるのだろうな、
と思わせてくれるものがありました。
それでいて、けっして知らない人にはわからないというような拒絶した感じがないのが、大崎の言葉の選び方の妙なのでしょう。

そして、そんなエピソードのひとつひとつをつなげる中で、改めて「聖の青春」というタイトルが浮かび上がってきます。
師匠や家族の助けを借りつつもやってのけた一人暮らしの中に、
あるいは「時間」との戦いを自覚しつつ「名人」をめざす厳しい将棋の修行の中に、
そして、棋士たちとの交流するときに時おりかいまみせるかたくなさの中に、
何よりその背景にある「生きる」ということへの熱い思いの中に、ともかく、そんな村山聖の人生の中に、大崎善生は「青春」を見ました。

将棋と出会うことがなければ、ひょっとすると本当に病院から一歩も出ることのない療養生活ばかりだったかもしれない村山聖の人生が、
「青春」と呼ぶのにふさわしい輝きとともにあったことを、大崎は「聖の青春」というタイトルという形で残しました。

だから、将棋を知らない人でもこの本は読めます。知っている人には、なお楽しめることでしょう。
帯に大きく書かれた「話題の作家のデビュー作!」とあるのを見ると、
もうこの本が村山聖を離れ大崎善生のものになっていることを表していました。

将棋の世界で修行をした異色の作家のデビュー作、泣けます。



 (1) 「聖の青春」(大崎善生・講談社文庫・2002年)p14 



 * かつて某巨大掲示板「あれから5年村山聖の偉大さを語るスレ」に書いてしまったコメント

2003/08/09

髪も爪も「日々伸びて行く」ことに、「成長するもの」「生きているもの」の一つとして愛おしさ を感じていた、
というようなことが「聖の青春」に書いてあったような。

村山にとって節制するということは、一生病院のベッドの上ですごすということだ。
そうすれば、もう10年や20年は生きられたのかもしれない。
しかし、村山はあえて身体を痛めつけるプロ棋士という道を選んだ。
短いが「青春」のある人生を村山は選んだわけだ。

そんな「青春」を生きようとした村山だから、
「女を抱いてみたかった」というのは心情としてはよくわかる。
短く定められた生命だから、なおさら自分の生きた証を残したい。
それが「将棋名人になりたい」という夢だし、普通の青春を謳歌したいという願いなのだ。

「オタク」という文脈で村山を見るのは甘い。
悪意ではなく、フリークスとかゾンビとか、そんな深い人生の不条理から出発しないと村山の境地にはいけない。

「聖の青春」はそんな本だ。
やさしく読めるので、夏休みに挑戦してほしい。


2003/08/13

なぜ、「終盤は村山に訊け」だったかの秘密が、
病室のベッドの上でできる唯一の将棋の勉強が「詰め将棋を解くこと」だけだったことを考えると、
病気を抜きに「終盤の村山」は考えられない。

病気がなければ村山は もっと強くなれかもしれないが、
病気があったからこそ村山があそこまで強くなれたのも事実なのだ。

それでも、村山が村山の実力を持ちながら普通の体力を持ち合わせいたなら、
という夢想を抑えられない。しょせんは「たら、れば」の世界でしかないし、
つきつめれば「今、生きていてくれたならば」ということだ。

対戦成績などにはうといのだが、
佐藤の追悼文にもあるように 村山の格は元祖・羽生世代のトップランナーであり、
村山が活躍さえしていれば、遅れてきた羽生世代である丸山・郷田・藤井というあたりを、
さらに遅れた羽生世代の深浦あたりの位置にまで、止めることがあっても不思議はないのではないかと思う。

彼らの取ったいくつかのタイトルは、当然に村山が持っていただろう。
その一つが名人位であっても不思議は無い。

「もし本当に名人位をとって、もしその日に本当に引退を発表したならば、」
そんな夢想はいささか「月下の棋士」の読みすぎといわれそうだが、
あの「月下の棋士」に出てくるような棋士が本当にいたなんて、それはそれで大変なことだと思わないか。



         講談社サイト内「聖 の青春」ページ                     Wikipedia 「聖の青春」ページ    
        日本将棋連盟サイト内村山聖ページ                       Wikipedia村山聖ページ
        映画「聖の青春」サイト                            Wikipedia 大崎善生ページ

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