扉絵に誘導されて登場するユーリの心を乱す人々

                     ------萩尾望都パーフェクトセレクション「トーマの心臓」1巻を読む(2007.9.30)


小学館から「萩尾望都パーフェクト・セレクション」というシリーズが発刊されることとなった。
カラーページ・扉絵完全収録とはいうものの、すでに以前の全集で持っている作品ばかりだ。
とはいうものの、「赤全集」は古本屋で買いそろえたことを思い出し、ここは新刊で揃えるべきだと決意した。

改めて読み始めると、たかが扉絵と思っていたものが、意外と効果を表していることがわかる。
コミックスで初めて読んだものにとって、 「トーマの心臓」は全500ページに及ぶ長編である。
しかし、雑誌連載で読んだ者にとっては、毎週10数ページの連作である。
そして、その各回を導いているのが「扉絵」なのである。

初回は、コミックス派でもおなじみの自殺するトーマの見開きだ。
次は「オスカーとユーリ」で、オスカーはユーリの苦しみと向き合う。
「ユーリとトーマ」が扉絵の第3回で、ユーリはトーマの手紙を破る。
エーリクが登場する第4回の扉絵は、「エーリクとユーリ」である。

つまり、トーマの死からトーマとの決別、エーリクの登場という一連の流れのように読んでいた「トーマの心臓」の導入部分が、
ユーリの心を揺り動かすエピソードの積み重ねであり、 そのカギとなる人物を扉絵が上手くリードしてくれているのである。

結果的に「トーマの心臓」は、ユーリの魂の救済に落ち着くわけだが
 こんな風に、扉絵で区切られた短編の積み重ねとして読み直してみると、
もともとはミステリー調の謎解き物語として構成されていたことを 改めて感じることが出来た。

「トーマの心臓」とは、謎の多い人物による心地よい誘導の物語だったのだ。



   やわらかな少年たちの出会いと別れをやわらかく包み込んだやわらかな物語

                      ------萩尾望都パーフェクトセレクション「トーマの心臓」2巻を読む(2007.10.2)


パーフェクトセレクション版「トーマの心臓」の完結篇である。

改めて気づいたのは、「ヤコブ館の二階の端の部屋」が象徴したかったのは
 「残酷な神が支配する」のジェルミとグレッグの関係なのだろうということだ。

最初に、「トーマ」を読んだのは、中学生だっただろうか。
当時は、「信仰を力によって奪われること」の意味を理解し得なかったし、
(ほとんど信仰のないものにとっては、信仰は捨てても良いものだった。)
「タバコの押し付けた跡」も、よくあるイジメの延長線上でしか理解できなかった。

つまり、そのことに象徴されるより深刻な状況を想像できなかったのだ。
今の目で見れば、いろんな言葉が「何が行われていたか」を示唆してくれたが、
本当の意味で何を指し示すかを理解し、洞察するする知識も感性もなかった。

ページ構成上も、雑誌の編集方針上も、おそらくはまだ20代だった萩尾の力も、
「トーマ」の中に、露骨な「残神」のような描写を描くことを許さなかっただろう。
むしろ、象徴的な暴力で、象徴的に信じるものを失ったがゆえに。
ユーリは象徴的な「神学校」で救われることが出来たのだ。

一番の収穫は、とっくに理解していたと思っていた「トーマ」の「救いの物語」が、
思ってもみなかった「残神」へと受け継がれていたという事実かもしれない。

巻末に「訪問者」と「11月のギムナジウム」が収録され、別冊として「湖畔にて」がついている。
特に、「湖畔にて」は、すぐ絶版になった「ストロベリーフィールズ」に、
書き下ろされたきりの幻の作品だけに、「パーフェクト」感を増してくれる。

改めて「訪問者」と「湖畔にて」を読み比べてみると、
オスカーは「父」との一年の旅を経てユーリと出会い、エーリクはユーリと別れて「父」とひと夏を過ごすこととなった。
思い出を共有することは、少年を大人にさせるものらしい。
そして、その前後に、あのトーマとユーリをめぐる物語が合ったのだ。

「トーマの心臓」とは、そうしたやわらかな少年たちの出会いと別れをやわらかく包み込んだやわらかな物語であったようだ。
だからこそ、悲しい物語でありながら悲しみに引きづられることなく、
発表から30年がたった今でも褪せることなく、美しく輝いているのだ。

「大切な物語」 そう呼ぶのにふさわしい物語だ。



   まだ20代前半だった萩尾望都が描いた200年の物語

                      ------萩尾望都パーフェクトセレクション「ポーの一族」1巻を読む(2008.2.9)


毎月出ているのだが、書きたいことがまとまった順に書いていく。

「ポーの一族」と出会わなければ、私はこんなに少女マンガ読みにはならなかっただろう。
多感な10代に、この作品に出会い、夢中になり、複数の友人たちに薦めた(男子校だったので、みんな男だ)。
印象的な場面の模写や作品中の独白を書き抜くなんてことも、ずいぶんやった。
授業のノートをとるような感覚に近かった。

おかげで、独得の構図で描かれた美しい場面や、詩としかいえないような美しい言葉の数々が、
10代の時に一つ一つの場面にどきどきしていた感覚とともによみがえって来た。

一方、今だから改めて感じることもある。
例えば、発表された期間の短さだ。この作品集では、発表順に並んでいる。
「すきとおった銀の髪」が1972年3月に発表された後、
「ポーの村」から「小鳥の巣」まで1972年7月から1973年7月までの間に月刊連載という形で発表されている。

つまり、「ポーの一族」「メリーベルと銀のばら」「小鳥の巣」という
18世紀から20世紀にわたる「ポーの一族」の骨格となる200年の物語が、
わずか1年間、それも、23歳から24歳の若い作者によって休みなく描かれていたのだ。

 しかも、「グレンスミスの日記」のような「ポーの村」と「小鳥の巣」をつなぐ物語を、
「小鳥の巣」の発表以前に描いてしまっている。
つまり、少女マンガの歴史を変えたともいえる「ポーの一族」の物語は、
すでに萩尾望都の中で完成されていて、あとは紙の上に再現するだけだったのだ。

だからこそ、萩尾望都は、あの完成度で作品という形に留めることができ、
そして、生意気盛りの10代の子どもだった私たちの心をとらえたのだ。
つたない模写だったが、眉毛から目を描いてという順番で描くルールを覚え。
柄にもなく、この「美しい存在」を再現したいというせつない思いにかられたりしたのだ。

そして、30年の時を越えて、今でも10代のエドガーやアラン、メリーベルの姿を見ると、
自分が年老いて滅び去って行く人としての歴史を生きていることを改めて感じるのだった。

このレビューも、将来、この作品を読む人に向けた、小さな「グレンスミスの日記」であるのかもしれない。


   私たちがオービンだったと思い知らされる30年ぶりのエドガー

                        ------萩尾望都パーフェクトセレクション「ポーの一族」2巻を読む(2008.2.15)


1972年から73年に突如現れた「ポーの一族」は、
トーマが描かれた1974年になりを潜め、1975年から再び出現する。
描かれるのは、主要な3つの物語をつなぐ小さな物語ばかりだ。
当時、新しい物語が始まるたびに、これがどの時代であり、
どの物語がどうつながるのかを、夢中になってつなぎ合わせていたものだ。

「ランプトンは語る」でオービンの言葉を借りる形でエヴァンス家の家系図が描かれたり、エンドロールのように略年表が挿入さ れたのを見て、
「こういうのがほしかったんだよね」と、よくできた参考書を見つけたかのように狂喜したものだった。

 もっとも、当時の私にとって西暦で描かれた年表は、
その歴史的背景を感じながら見つめるものではなく、引き算をするためにしか機能していなかった。
結局やったことは、エドガーはアランより100年以上は年上だとか、メリーベルはその100年間を生きたんだとか、
アランだって100年は生きてることになるとか、そういうことしか考えていなかった。

そして、エドガーやアランは(実は100年以上生きていたにせよ)、10代だった自分にとって身近な存在であり、
果てしなく長いであろう大人の時間を思えば、少しは永遠の14歳の気分になれたものだった。

今、改めてパーフェクトセレクションを手に取ると、本の中のエドガーやアランは14歳なのに、
読んでいる自分自身は、ずいぶん年をとってしまっている。
なんということはない、私たちがオーピンだったのだ。

おそらく、私が亡くなった時も、この本の中のエドガーは14歳の姿のままで、
怪しい瞳で「おぼえてるよ魔法使い」とささやいて、霧の中に消えていくのだろう。
そして、再び私より若い読者の前に、突然姿を現せるにちがいない。

彼らは、永遠の14歳であり、はるかなものなのだ。


   萩尾望都の怨嗟のエキスが煮詰まった原液のような作品集

                        ------萩尾望都パーフェクトセレクション「半神」を読む(2008.4.13)


「自選短編作品集」ということで、単行本未収録の短編を中心に集められている。
とはいうものの、原作付きの「温室」「マリーン」を除けば、途中で読むのが辛くなるほどに嫌な親ばかりが登場する。

表題作であり、16pの奇跡として知られる「半神」は、栄養がゆきわたらなかったがために愛されなかった双生児の物語だっ た。
「イグアナの娘」は、母親にだけはイグアナにしか見えない娘が主人公だし、
「学校へ行くくすり」では、逆に父がワープロに母が電気ジャーに見えている。

「天使の擬態」では、実は親に話せない生き方をした娘が苦しみ、
「午後の日射し」は、親の言いなりで結婚した中年女性が恋を知る話だ。

「偽王」は、王から少年が理不尽に傷つけられる物語であり、
「カタルシス」は、息子を愛情という名で支配しようとする母親を描き、
「帰ってくる子」では、死んだ弟にこだわる母親は兄のことを愛せない。

そして、初期の名作「小夜の縫うゆかた」が置かれている。
小夜は亡くなった母を思いつつ浴衣を縫う。亡くなった母は、小夜にとっては理想の姿のようだ。
この母は、萩尾にとっても理想の母なのだろうか。
あるいは、自ら浴衣を縫う小夜は、 母から自立することができた喜びに満ち満ちているのか。

巻末に付けられたような「友人K」をやりすごしたものの、
オブラートに包みきれなかった萩尾の怨嗟の声を一冊分聞いたようで、けっして良い気分の読後感ではなかった。

しかし、今まで感動してきた萩尾のあの名作の数々も、その背景に親との確執が見え隠れすることは知られている。
そういう意味では、この短編集は、いかにも萩尾らしいし、むしろ名作と呼ばれるものも多く集められている。

とはいえ、たくさん原液を飲んでしまって胃が苦しい、という感覚もまた否めないのである。



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