西洋文化が最初に出会った元遊牧民の物語

                           ――――森薫「乙嫁語り」1巻を読む(2010.1.16)

 
ヴィクトリア朝を描いた「エマ」で知られる森薫の新作である。
場所は「19世紀中央アジア カスピ海周辺の地方都市」とある。
登場する人たちは、よくわからないがアジア系、
かつては草原を移動しながら牧畜をしていた遊牧民が定住しつつある時代であるようだ。

エイホン家の12歳の少年のもとに、山を越えてハルガル家から20歳の花嫁がやってくる。
エイホン家は町に定住しているが、ハルガル家はまだ遊牧しているようだ。
その違いは小さな異文化交流となり、花嫁・アミルの狩りの技術にエイホンの子どもたちは目を見張る。
しかし、エイホン家の年寄りは、「昔は皆あれくらいできたものだけどね」という。

エイホン家の微妙な立場は、文化人類学者のスミスが居候していることでもわかる。
つまり、彼らは西洋文化が最初に出会った元遊牧民であったのだ。

このような舞台設定でもわかるように、「むかしむかし、あるところに」とは異なる
リアリティのある(と、うかがわせる)考証のもとで物語は展開する。
あとがきページで森薫は、中学から高校にかけて中央アジアにはまったという。
なるほど、この物語を描くために取材したにしては描写が綿密だ。

しかも、拙速に物語をすすめることなく、ゆったりと彼らの生活を描こうとする。
たとえば、花婿の末の弟が町の大工の爺さんの仕事に興味を示すさまだけを、
10数ページを費やして描く。子どもが職人の作業に無心に集中するのと同じように、
マンガの方も同じだけの時間を費やして、職人の仕事によりそう。

それは、居候の文化人類学者の視線に近いかもしれない。
エイホン家という異文化の家族におこった出来事を、しっかりと記録しようとしているようにも見えるのだ。

とはいえ、もちろん物語の方も動きだしている。それも、なかなかに骨太のものになりそうだ。
楽しみな物語が始まった。



    こっそり紛れ込んでいる「ロシ ア人」という言葉

                           ――――森薫「乙嫁語り」2巻を読む(2010.8.1)

1巻の時も感じたのだが、作者は物語を前へ進めるのと同じくらいの思いで、
この村の文化を描こうとしている。あるいは、記録しようとしている。

1巻は建築だったが、この巻では嫁入り道具としての布支度だ。
この民族は、嫁入り道具としてあらゆる布類を用意することになっている。
しかも、その布には母から伝授される刺繍をほどこさねばならず、
母系・父系の先祖たちから受け継いだ絵柄や運針が一枚の布に表現される。

そうした作者の隠された意思の表れだろうか、あるいは、ネタバラシというべきか、
村には文化人類学者のスミスが住み込み、静かに、この村の記録を続けている。

ところが、だ。
この巻の最後の場面で、カメラは乙嫁アミルから切り替わり、村を出ていくスミスを追いかけるようになっている。
あとがきにも「一旦視点を変えて、ここからスミスの道中を追っていきたい」とある。

実は、嫁入りしたアミルが少しずつ村になじんでいくことも、
アミルの父をはじめとする実家の一族がアミルを奪い返そうとすることも、
作者にとっては、スミス目線の村の記録だったのかもしれない。

気になる言葉も紛れ込んでいる。手紙を届けた旅の者に、家長は尋ねる。
「ロシア人はどこまで来てる?」
もう、同じ民族同士で小さないさかいをしているような時代ではなくなっているのかもしれない。

さて、スミス君は3巻で何を見ることになるのだろうか。


   どうにもならない文化の違い

                           ――――森薫「乙嫁語り」3巻を読む(2011.6.21)

いきなり、そんな話になるのかよ、と思われた急展開も、
冷静に振り返れば、文化人類学者スミス君が案内人と出会ったというだけなのかもしれない。
しかし、彼の(とりわけ、心の)ノートには、この出来事はしっかりと刻まれることだろう。

なぜ、二人で逃げないのかといぶかる向きもあるだろうが、「父親が結婚相手を決める」のがこの地の文化なのである。
だからこそ、スミス君の
話を聞いた誰もが「それは、しょうがない」「どうにもならない」という反応になる。
それは彼らが冷たいからではない。
文化が違うというのは、そういうことなのだ。

この巻の念入りな文化紹介は、市場の屋台の食べ物だろうか。
目の前で作ってもらった焼き飯に、焼きまんじゅう、魚の包み揚げ、五目肉うどん、腸詰めに串焼き、
キジはアミルが捌いて店で焼いてもらった。
どれも、とても旨そうだ。
いつのまにか、見知らぬ人も加わわり、彼らが持ち込んだ料理で、宴会はさらににぎやかになる。

スミス君を追ううちに、物語は、村や部族というような次元を飛び越えて、
国家や民族や宗教や人種というようなレベルに変化している。
つまり、スミス君は、それだけ「前線」にやってきたのだ。



   「乙嫁語り」はスミス君の著書な のかもしれない

                            ――――森薫「乙嫁語り」4巻を読む(2012.5.19)


文化人類学者のスミス君は、アラル海の漁村で双子の少女と出会う。

mixi上で、キャラが萩尾望都の「ルルとミミ」にそっくりと言う人もいたほどに、
(そういえば、「私が今何考えてるかわかる?」のセリフもあった。)
もともと活発というか奔放な上に、いつも同一行動で誰も止める者がいないため、
決して悪意はないのだが、やることが「相変わらず壮絶だな」といわれるほどで、
とにかく父親から怒られてばかりいる。

4巻は、この壮絶な二人の結婚をが決まるまでが描かれる。
「乙嫁」とは冒頭に登場したアミルのことで、主人公はアミルだとばかり思っていたが、
どうやら、スミス君が出会ったいろんな「乙嫁」を語る物語であるようだ。
ひょっとすると、「乙嫁語り」とはイギリスに帰ったスミス君による著書の題名になるのかもしれない。

日常生活を描いた文化人類学ノート(?)は、アラル海の漁と魚料理を取り上げる。
あいかわらず、丁寧な記述だ。

そして、内陸部からは、またロシアという言葉が聞こえてきた。
大きな物語も、深く静かに進んでいく。




   渾身の110ページで描かれる双 子たちの結婚式

                           ――――森薫「乙嫁語り」5巻を読む(2013.1.20)


ホントにもう、こいつらは!
いよいよ例の双子の結婚式なのだが、人生に(たぶん)一度の結婚式だというのに、
2馬力による傍若無人なマイペースぶりは止まらない。
(双子なら、アワペースか。まあ、それはよい。)

とはいえ、男たちによる羊の屠殺・解体から、女たちの料理作り、
部屋を飾るペルシャ絨緞の数々、美しい花嫁衣装に貴金属や玉石の首飾りと、
結婚式が一族全体で担われる、村をあげての大きな祝祭であることがわかる。
通りがかりの人が混じっていても、何の不思議もない。

花嫁たちはブドウのしぼり汁で左右の眉をつなげられ、
右の母眉と左の父眉をつなぐ眉は父母の愛と諭され、幸福を祈られる。
最初は美しく飾られて満悦の二人だが、
外の披露宴が盛り上がっているのに、何も口にできないまま部屋で待たされるのが我慢ならない。

いよいよ花婿たちも馬に乗り花嫁を迎えに出るが、
その長い隊列の先頭は、空に向けた長いホルンと打楽器の楽隊がつとめている。
花嫁家に到着すると、まず父親どうしの結納金の受け渡しがある。
続いて、花婿がバター入りの乳を飲み、花嫁の全てを受け入れると誓う。

婚姻の儀式は花嫁の家の一室で、部屋に入るのは花嫁・花婿、双方の伯父、そして儀式を行う僧侶の5人だけだ。
カーテンの向こうの様子を知りたいスミス君が歯噛みするのはご愛嬌。

花婿の家にやってきた2人を迎えるのは、花婿の家での宴会。
なんと、花婿の父は、花婿2人のために新しい釣り船を用意してくれていた。
さっそく漁に出る4人、きっと彼らには幸せな未来が待っている。

これを、森薫は連載3回分、渾身の110ページで描く。
うーむ。もう、これだけで一本の映画にしても良いほどの濃厚な描写。 完全にお腹いっぱいだ。

その後に置かれたアミルとカルルクの小エピソードは、
双子編とアミル・カルルク編をつなぐ良い箸休めになっているが、
実は資料が整わなかったために、祝宴の開始を遅らせる代わりに描かれたものらしい。
そうか、カルルクは、まだ「子ども」なのか。

ここから、もう一度、アミルとカルルクの話に戻るらしい。
次にスミス君がアミルたちの前に登場するときには、どんな姿をしているか楽しみだ。
その時のスミス君はイギリス兵として、ロシア兵と対峙していたりするのかもしれないが。



   全てを奪い取ろうとするものは、けっして力まかせにはしない

                                ――――森薫「乙嫁語り」6巻を読む(2014.1.19)


ああ、そうだった。
大きな力を持つ者が全てを奪い取ろうとするとき、けっして、力まかせに押し潰したりはしない。
対立する二つの勢力を争わせ、双方の力が弱まるのを待ってから登場し、
ほとんど自分たちの血を流すことのないまま、全てを得ようとするのだ。

それは、エイホンとハルガルの争いに乗じたバダンのことではない。
そんな風に、遊牧民族どうしの争いが起こることを承知の上で、
むしろ、そんな争いを起こさせるために、 パダンに武器を流していたロシアのことだ。
まだ、この巻では武器という形でしか姿を見せないロシアだが、やがて、全てを飲み込んでいくのだろう。

そんなわけで、この巻で詳細に描かれるのは「戦い」だ。
森薫自身もあとがきで述べているように、「騎馬に弓」というのは本当にかっこいい。
双方が常に動き回っているので、勢いや力強さが違うのだ。

カルルクを助けようと必死なアミルも見事だったけど、
でも、一番カッコイイのはバルキルシュの婆さまだな、やはり。



   どんな言い訳も無用の「百合を描く」という強い意志

                             ――――森薫「乙嫁語り」7巻を読む(2015.4.18)


この巻は、イギリス人文化人類学者のスミスたちのが訪れた都市での物語である。
スミスたちを受け容れた有力者らしき男の妻・アニスが、この巻の乙嫁だ。

広い庭のある大きな屋敷で、多くの使用人にかしずかれる豊かな生活、
優しい夫、子どもにも恵まれ、申し分のない暮らしぶりなのだが、どこか孤独。
そんなアニスに、彼女の世話をしている使用人は、「姉妹妻を持つべきですわね」という。

「姉妹妻」とは、結婚して子供のいる女性同士が契りを交わし、
嬉しい事も、悲しい事も、悩みもなんでも話して、お互いの心の本当の理解者になる一生の親友だ、という。

そんな相手と知り合うなら風呂屋に行くのが良いといわれ、アニスはその使用人に連れられ風呂屋に向かう。
そこで、豊満な胸を持つ一人の若い母親・シーリーンを見つける。

どんなに言い訳をしても、姉妹妻となるシーリーンを見つめるアニスの視線はもう完全に恋としか言いようがないようなもので、
当時の「姉妹妻」という制度の本当のところはどうだったのかというような余計な詮索をすることが全く意味をなさないほどに、
一巻まるごとの百合の物語を描きたいという森薫の強い意志が見て取れた。

あとがきマンガによると、「縁組姉妹(ハーハル・ハーンデ)」という風習が本当にあったらしい。
また、風呂場のシーンが多かったせいか、女性の裸はやたらとあった分、
細かく描き込むような文様や細工が登場する場面が少なく、
「描くところが、もうない」とのたまうような、「まさかの不安感」にかられた、とも。

というわけで、今回の念入り描写シリーズは、風呂屋か。



    中央アジアを舞台にした王道の初恋物語

                           ――――森薫「乙嫁語り」8巻を読む(2015.12.30)


今回の乙嫁候補は、アミルがこの町に嫁いで最初に友人になったパリヤさんだ。
(アミルがそう呼ぶからか、ついパリヤには「さん」をつけて呼びたくなる。)
悪い娘ではないのだが、素直さとガサツさからくる率直な物言いで誤解されがちなところがある。

6巻のパダンの襲撃のときに家を失ってアミル宅に移り住んでいるのだが、
どうやら、以前からの縁談がうまく進んでいるようだ。
いつのまにそんな話になってたのかと振り返ってみると、4巻でちらりと出てきていた。
しかも、相思相愛であるらしい。

花婿候補は元気な上に、ソロバンもできるし、字も書ける。前に隊商宿をやっていた時に、常連の商人から習ったという。
もともと遊牧の民だったこの町の者にとっては、ソロバン自体が町のどこかにあったはずだというレベルだから貴重だ。
今は、襲撃された町の復興を進めていかねばならない時期なので、実に頼もしい。

それにしても、19世紀の中央アジアを描いた作品で、
会いたいのに会いに行けないとか、きっと嫌われてしまったに違いないと思い込むとか、
こんなにも真っすぐな初恋物語が描かれるとは思わなかった。

というわけで、この巻の念入り描写は、2度目の布支度の刺繍ではなくて、捻じ曲がるほどに純真なパリヤさんの乙女心。



    究極の自爆系少女・パリヤさん が乙嫁になるまで

                           ――――森薫「乙嫁語り」9巻を読む(2017.1.21)


まず、表紙が目につく。
すっくと立ったパリヤさんが、なかば怒りに満ちた緊迫した表情で、
口元にメガホンのようなものをあてて、何かしら叫んでいる。
パッと見は、「キミたちは完全包囲されている。銃を捨てて出てこい。」の図である。

よく見ると、メガホンに見えたのは丸いパンで、左腕でさらに2個のパンを抱えていた。
 このパンの登場するページを見ると、
「これは鷹の爪文様です。鷹の爪は魔除けです。 ウマルさんとご家族と親戚の皆さんが健康であるようにと願いました。」
と自分が焼いたパンの口上を述べている。

後の二つは、「良い知らせが届くようにとの思いを込めたタンホポ文様」、
「末永く良いご縁で結ばれるように願ったナワ文様」、とやっとの思いで語る。
どうやらパリヤさんは怒っていたのではなく、単にテンパっていただけらしい。

そんなわけで、前の巻からのパリヤさんの純愛は、きちんと続いている。
ウマルも実によく出来た男で、不器用なパリヤのことを意に介さず、
頼もしい仲間のように、パリヤさんを愛している。
よかった、よかった。

となると、今回の念入り描写は、 思いが込められたパリヤのパン。
やはり、これしかない。



   たくましくなったカルルクと、ア ミルの小さな欲求不満

                            ――――森薫「乙嫁語り」10巻を読む(2018.3.3)


つながりをすっかり忘れてしまったのだが、
アミルの夫のカルルクさんは、なぜかアミルの実家、遊牧民のハルガル家にいる。

アゼルを始めとするハルガル家の三悪人?の指導の下、
カルルクは、弓を習ったり、屠畜に参加したり、鷹を育てるところから鷹狩りを始めたりする。
街暮らしのカルルクにとって、自ら家畜を育て、獣を狩り、さばく遊牧民たちは、
人として生きる力に優れているように感じたのだろう。(現代人の私たちから見れば、なおさらだ。)

馬に乗って逢いに来たアミルに、
立派になった腕の筋肉や射止めたヤギの頭蓋骨などを無邪気に披露するカルルクだが、
アミルはもっと違う意味でカルルクが成長することを待っているようだ。

後半は、アンカラに向かうスミスくんの話になる。
これも、すっかりつながりを忘れているのだが、
なんとかアンカラ入りして、友人というか先輩のホーキンズに再会することとなる。

 ホーキンズの言葉から推測すると、物語の中ではクリミア戦争が終っているようだ。
しかし、ロシアが中央アジアに本格的に進出するのは、クリミア戦争の後だ。
戦争の予感に帰国を勧めるホーキンズに対し、
スミスはカメラさえ手に入れれれば、すぐに戻って調査を継続すると宣言する。
危険は承知の上だ。

しかも、そんなスミスを思わぬ人が待っていた。
森薫も、いろんな意味で気を遣ったのだろう。

というわけで、今回の念入り描写は、鷹狩り。
巣立ち前のイヌワシのひな鳥を巣から奪って飼いならし、
手元に呼び寄せることから覚えさせ、狩りをさせるところまで育てる。
そして、繁殖能力を持つようになった4歳には山へ帰す。
そんな一連の流れを、ほとんど物語内での時間を使わずに、きれいに紹介してくれた。

また、あらためて遊牧民の冬支度が紹介されたことと、
スミスがアンカラまでたどり着いたことで改めて意識したのだが、
物語内の時間は、まだ半年ほどしかたっていないらしい。



   高橋葉介という原点が見て取れ た、満腹感のある初期作品集

                              ―――「森薫拾遺集」を読む(2012.3.3)


本人いわく「一見、何だかよく解らないギャンブル性の高い本」だそうだ。
デビュー10年を期に、短編やらエッセイマンガやらサイン会の記念リーフレットまで、40数本が207ページにまとめられている。

「メガネっ娘メイド」という、そのスジには鉄板のネタで売り出しだけあって、
森薫は、男性目線で魅力的に見える女性を描くことが好きらしい。
むしろセクシュアリティは女性に向いているいるのではないかと思うほどに、ツボを心得た描き方だ。

少女ならば、未来に希望を込めたすがすがしさや無防備さを描き、
若い女性ならば、完成された肉体を見せつけるようにバニー姿にさせ、
少し脂肪がついた大人の女性には、新婚旅行以来のハイレグの水着を 畳で着せてポーズまでとらせてしまう。
何人も登場するメイドは忠実だったりマイペースだったりさまざまだが、皆、それなりにたくましく、すこぶる有能だ。

本人も書いているのだが、初期作品の絵は高橋葉介にそっくりだった。
高橋葉介も「夢幻紳士」で売り出したくらいだから、 主人とメイドや書斎でティータイムというアイテムには相通じるところがある。
森薫の入口がこんなところにあったのか、と思わぬ発見だった。

そして、読み終わった後に、もう一度、カバーと扉を鑑賞し、
濃口の森薫に、少し胃にもたれるほど満腹になった。


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