ジェンダー入門とも言える思考実験

                       ――――よしながふみ「大奥」1巻を読む(2007.2.6に加筆)

 
「本格的で上手い」とは、噂には聞いていた。確かに、そのとおりの作品だった。

流行病をきっかけに男性が女性の1/4になった日本の江戸中期にジェンダーの逆転が起こり、
女性は外で働き、男性は家の中で「子種」として育てられるよう な社会となる。
そして、「大奥」は、女性の将軍の下で貴重な男性を贅沢に囲い込むものとして存在している。

まず、嘘が少ない。
「男性が極端に少ない社会になれば、ジェンダーが逆転した社会が出現するのではないか」
という基本設定以外は、既存の日本史をほとんど 改竄していない。

若くして亡くなる七代将軍・家継と紀州家から本家を継ぐ吉宗、
その吉宗が器量の良い若い者を選んで大奥から暇を出したことなど、
男女が逆転しているだけで史実そのままだ。
詳しいことは知らないが、丁寧に紹介される大奥の制度なども史実どおりなのだろう。
つまり、基本設定となる嘘を史実に編みこませることが実に上手い。

しかも、流行病という「社会的事情」によって、
物語の時代設定からそれほど遠くない過去に男女の役割が逆転しているため、
現在のしてから見て、女が担うこととなった男らしさの文化、男が担うこととなった女らしさの文化、
男が担い続けている男らしさの文化、女が担い続けている女らしさの文化が混在させて見せることで、
ジェンダー(社会的性別)というものを相対化して見せることにも成功している。

もともと男女逆転と言っても、男たちは時代劇で良く見る武士の姿のまま大奥で暮らしてているし、
将軍・吉宗は「のぶ」という女の名を捨て(!)、「徳川吉宗」という男性の名前で将軍職を務める。
しかも、服装は女性の姿のままだ。しかし、職業上の役割や立ち居振る舞いは、
「男性」、いや「将軍の職務」にふさわしいものになっている。

このように、服装など風俗の部分で昔ながらの「男らしさ」「女らしさ」を引きずっているにもかかわらず、
「将軍」や「大奥」という制度の部分では厳然と男女の役割が逆転しているため、
女性が将軍を務め、男性が大奥で暮らす社会の持つ意味が見えやすい。

吉宗は、髷を結った女の姿の御用取次の加納久通に言う。
 「おみつと久通、どちらも、お前の名だの」
 「家督を継ぐ時は男名でご公儀に届け出ることになっておりますから」
 「どうしてだと思う?」
 「やはり<加納遠江守おみつ>では間が抜けた感じがするからではないでしょうか」
その久通の答えに、吉宗はこう答える。
 「そのしっくりこないという我らの感じ方そのものに事の本質があるのやもしれん」
よしながふみは、ジェンダーという大きな問題を「しっくりこないという我らの感じ方」という、
なんとも平易な言葉で、さらりと置き換えてしまった。

実は、よしながふみは苦手な作家だった。
どうにも読みづらいというか、物語に内在する文法のようなものが、
私がこれまで読んできた作品と違っていて、ひっかかりが多かったのだ。
その点でも、この作品は物語の展開も素直で読みやすい。
時おり、「トーマの心臓」を思い出させる場面があるのも私的には嬉しい。

強いて言えば、「やればできるじゃないか」という印象だ。
作者にすれば、男性にもわかるように描いただけということなのかもしれないが。



    産む性を持った最高権力者」が持つ意味

                      ――――よしながふみ「大奥」2巻を読む(2007.4.9に加筆)

すごいことをやるもんだ。
1巻を読む限りは、「ジェンダーの逆転」というお約束の中で、
大奥をめぐる「もう一つの歴史」を描こうとしているのだと思った。
ところが、物語は一転して、まだ男女が逆転していない家光の時代にさかのぼる。

それは、「お約束」にしておけばよかったはずの「ジェンダーの逆転」を単なる「お約束」としないということだ。
つまり、よしながふみは、まだ「男性の将軍がいて女性がいる大奥がある社会」が、
「女性の将軍がいて男性がいる大奥」に変化していく歴史を自ら作りあげ、
その過程を一つの物語として描いてしまう覚悟を決めたのである。

流行病で急死した家光の血筋を絶やさぬため春日局がとった策は、
家光の娘を「上様」とし、大奥に男たちを集め、
「上様」との間に生まれた男の子を家光の子として次の将軍にすることだった。

もちろん、この段階で作られた大奥は緊急避難でしかなく、男女の社会的位置に動きはない。
大奥に集められた男たちの大部分は、家光が死んだことなど知らない。
秘密を知るごく少数の者も、「上様」の権力に屈しつつも、
ニセモノの将軍である「上様」のことを、ただの「女」として見ている。
彼らの望みは、将軍の父となることだ。

性の社会的役割の部分、すなわち「ジェンダー」が逆転していく過程を描くということは、
逆転しようのない「生物学的性(セックス)」から文化的に作られた「社会的な性(ジェンダー)」の部分だけを、
丁寧に引き剥がし、それが逆転していくという過程を正面から描くということでもある。
しかも、そこには簡単に動かされることのない社会意識をどう動かすか、という課題が常に伴う。

意識は、誰かが命令しても変わるものではない。
(それは、行政が長年、数々の人権施策を続けても、簡単に差別意識が無くならないことからも残念ながら明らかだ。)
ある日突然、「上様」が女になったからといって、直ちに男女逆転の社会が生まれるというものではない。
だからこそ、まだ男女が逆転していない社会においては、生物学的に女である「上様」は社会的に隠された存在となる。

「上様」の初めての男は、大奥の庭を小姓姿で歩いている「上様」を見て、
その美形ぶりに「男色」をしかけようとした男だった。
男は、その場で「上様」を傷つけた者として殺されるが、
皮肉にも女である「上様」は妊娠し、その男の子どもを産むこととなる。

このエピソードは、「男女逆転」の持つ意味を如実に著している。
すなわち、肉体的な優位さが社会的優位さと等価であると単純に思い込むことで陵辱する性であった男性は、
権力者の地位に女性がいることによって、いとも簡単に殺されてしまう。
そして、「上様」は自分を犯した男を平気で殺してしまう権力者の顔を持つ一方で、
女性としての肉体を持つがゆえに子どもを産むのだ。

現在に至る男性が外に出て社会を動かす仕事を行い、女性が家庭的な仕事を行うべき>という性別役割分業の思想は、
女性が子どもを産むという生物学的性別の役割によって支えられていたことは否定できない。
ところが、「大奥」における「上様」は、最高権力者の地位にいただくことを余儀なくされ、
なおかつ、産む性という役割をも担うことを期待されている。

跡継ぎがいない徳川家における緊急避難の措置として据えられた仮の「上様」であっにせよ、
「女の上様」という存在は、産む性だからこそ女性は家庭に居るべきという考え方を完全に覆している。
現実社会では相対化が困難なゆえに理解されがたいジェンダーとセックスの区別を、
模式的ではあるにせよ、具体的に見せてくれたのは、相当な快挙といえよう。

そして、大奥という特別な場所で芽ぶいたジェンダーの逆転をさらに支えているのは、
鎖国という国家レベルでの閉鎖性ということなのだろう。
よくもまあ、上手い具合に思考実験に適した時代を発見したと思うが、
それもまた、よしながふみの上手さなのである。



    なんと見事な歴史の嘘

                  ――――よしながふみ「大奥」3巻を読む(2007.12.24に加筆)

「男女逆転大奥」の第3巻である。
大奥だけではなく、日本が丸ごとでジェンダーの逆転に向かう様が丁寧に描かれている。
しかも、そこに実際の日本の歴史を丁寧に織り込んでいく。

1641年のオランダ商館の出島移転による鎖国は、男ばかりが亡くなる流行病を異国から隠すためのものと説明する。
働き手としての男が激減による自作農の小作化に対処したのが、1643年の田畑永代売買禁止令である。
男子が失われた有力大名は、次々と無嗣断絶により改易されてしまう。

政治の問題だけではない。それまで長い髪を下ろしていた女性の髪型は、
男性の減少、働き手としての女性の台頭の結果として髷の大流行をうむ。
女性が髷に結うということは、肉体労働をするために必要であり、必然であるというのだ。
なんと見事な歴史の嘘だろう。

それにしても、大飢饉の折に江戸の町をお忍びで歩いた家光の言葉として、
「前見た時より、また女が多くなった」「なぜ若い男が誰も働いておらんのじゃ」とあるのは、
フィクションとしての大奥の世界を通り抜けて現在の日本を思わせる。

また、米俵を積んだ荷車を女たちが引くのを見て家光が述懐した
「農村から流れてきた物乞いも多いが、江戸の町は思ったより活気がある。」は、
東京だけが繁栄している地域格差の実態をも皮肉っているのでは、とさえ見える。

それはそれとして、「大奥」を描くために描かれている大奥の外の物語が、
この奇想天外な設定に重みや深みというものを与えてくれている。
「大奥」という場所でひそかに行われていた男女逆転は、
大衆のレベルでは生きていくために仕方のないものとして、いつのまにか進行していたのだった。

社会の意識は、誰かが命令することによって変わるものではないかもしれないが、
変化が必要な社会的背景がありさえすれば、突然、堰を切ったように変わっていく。
よしながふみは、そうした社会の動きを、歴史的事実に極めて近い創作によって語りきってくれる。

そして、そんな壮大な思考実験が繰り広げられているにもかかわらず、
依然として「大奥」の基調に流れているのは「愛の物語」なのである。
改めて言う。なんと見事な歴史の嘘だろう。


   もはや堂々たる、もう一つの歴史

                       ―――よしながふみ「大奥」4巻を読む(2009.1.17に加筆)


もはや堂々たるものだ。
女将軍・家光が登場し、有功は大奥総取締となる。そして、家綱・綱吉と時代は移り、今度は右衛門佐の時代になる。
少し駆け足になったきらいはあるが、どうやら、よしながふみは「大奥の歴史」を全部やってしまおうとしているらしい。

そんな中でも、いろんな仕掛けが施されている。
女・家光が立った時は、「あくまでも、これは"仮"の措置である」、
 「男子が家督を継ぐようになるその日まで、(略)将軍の座を借りている過ぎぬ」と宣言している。
それゆえ、女が公の役職に付くものの、名は男のものを使用するという新しい習慣が生まれたわけだが、
30年ほど下った綱吉の治世には、
 「男子であるそなたに家督を継がせる事を快く許して下さった」と牧野成貞に言わせている。

それまでの常識からすると考えられないような制度も、
30年もたてば、そちらが当たり前になってしまうだろうというわけだ。
そう言われると、私たちにも思い当たる節がないでもない。

もちろん、庶民の世界に目をやることも忘れない。
千歯扱ぎ、踏車、備中鍬、唐箕などの農具を、「非力な女達でも効率よく農作業を行える」発明として位置付けてしまう。
 しかも、その解説の横に、これらの農具を使用する女性たちの図絵が、
まるで歴史の教科書に引用される挿絵のように描かれるのも心憎い。

また、(たぶん)史実にはない大奥の人員整理の話題では、
大奥にいた100名ほどの男たちを暇金も渡さず吉原に送り込み、
腕の立つ一部の者を監視役とすることで、売春を強いるという措置を、
「健康な男の体を女達に提供できる場所として吉原を生まれ変わらせた」と、
あくまでも「歴史的事実」として、わざと淡々と描いている。

もし、この男たちに対する理不尽な仕打ちに対して違和感を感じたならば、
裏返しの「歴史的事実」も理不尽であることに気づくべきだ、ということだろう。

それはそれとして、桂昌院となったお玉が腹黒いこと。
これもまた、堂々たるものだ。



    「世継を産む性」の哀しみ

                     ――――よしながふみ「大奥」5巻を読む(2009.10.31に加筆)


将軍・綱吉、大奥総取締・右衛門佐の時代が続く。
それは、元禄赤穂事件、すなわち忠臣蔵で描かれたような、
殿中刃傷事件と浪士による仇討が起こった時代でもある。

女性による家督相続が当たり前となりつつある綱吉の時代に、
古い伝統を守る存在として赤穂浅野家を出してきたあたりが上手い。
もともと法外で密やかに行っていたはずの女性による家督相続を家光という権力が追認しても、
世の中に守旧派がいるのも当然である。

そんな「古い因習」を軍治から文治へ向かう時代に合わないものとして、
つまり、男性が政治をつかさどることを「時代遅れな遺制」として描いてしまう。
これ以降、男性による家督相続は制度的に禁止される。
つまり、経済の時代にあっても、つまらぬメンツにこだわる男性は、
政治を担わせるには「不適格な性」だとされたのである。

この考え方自体は、ジェンダーフリーの視点から見れば、逆転した差別意識であり、
性別による偏見に基づいて、男性の政治的能力を不当におとししめている考え方である。
しかし、そこに過去からの歴史的な経過と「やむをえない」かのように見える事情を巧妙に加えることで、
うっかり納得してしまいそうなほどに強い説得力を持たせることに成功している。

そして、そのような、わざと「間違った理論」を物語の中で提示することによって、
現実の社会に別の形で存在している、偏見に基づいて女性の能力を不当に貶めている巧妙につくられた理論を、
逆に相対化して見せているのである。

その一方で、この巻では「産む性」としての将軍が、より厳しい形でクローズアップされる。
松姫こと綱吉の嫡男・徳松が亡くなった1683年当時、徳川綱吉の年令は37歳。
四谷・大久保・中野に犬小屋を建てた1695年には、もう49歳である。

この間、綱吉には血統を絶やさぬよう、次々と新しい男があてがわれる。
もっとも高貴な権力者に対して周囲が一番に望んでいることは、
けっして良き政治を行うことではなく、「世継ぎを産む」ことであるわけだ。
はて、それは300年も昔の話なのだろうか。




    「自立するための性」という可能性

                          ――――よしながふみ「大奥」6巻を読む(2010.9.11)


この巻のメインテーマは、後継問題である。
家光時代の綱吉の父・桂昌院(玉栄)と順性院(お夏)の確執が、そのまま将軍の後継問題につながっていく。

桂昌院は、順性院の孫が綱吉の養子となり、次の将軍になることがどうしても許せなかった。
しかし、桂昌院が反対するという理由だけで、綱吉の「姪」を次の将軍から排除するということも普通には考えられなかった。
それでいて、桂昌院の意向が大きく影響するのは、「父親」である桂昌院が綱吉にとって特別な存在だったからである。

どれほど老醜をさらしていても、
綱吉は桂昌院のことを「父上に見捨てられたら 私はこの世に もう何のよすがも無うなってしまう」と言う。
それは、常に桂昌院だけが綱吉のことを娘として愛し続けたからだ。
前巻では、産む道具としてしか扱われない綱吉の孤独が描かれたが、
この巻では、産む性しか知らないが故の綱吉の愛の不在が描かれる。

そして、すでに初老の域にかかる綱吉だったが、生まれて初めて一人の女性としての愛が満たされる事によって、
ようやく父の呪縛から自立することとなる。
世の中には、「自立するための性」というものも存在するのだ。
親の呪縛から自立した綱吉は、姪の綱豊(家宣)を養子とし、自分の後継とすることを宣言する。

つまり、綱吉の綱豊(家宣)後継指名という歴史的事実に、
よしながふみは、愛の不在と愛の獲得という物語を添えるのである。
追いすがる父・桂昌院がつかんだ内掛をそのまま脱ぎ捨て、小袖姿になった老綱吉のなんとさわやかであることか。

そして、綱吉−柳沢吉保−右衛門佐の時代は終わり、家宣・家継−間部詮房−江島の時代になる。
それにしても、この江島が、また武骨なんだな。これが。

 


    自己評価の低い人間の悲劇としての江島

                       ――――よしながふみ「大奥」7巻を読む(2011.7.7)

この巻のメインは、仲間由紀恵主演の映画でも知られる「江島生島事件」である。
その映画のことは知らないが、「よしなが版大奥」の江島は、けっして美しく描かれない。

前巻に登場した江島について、思わず「武骨」と書いてしまったが、江島の苦悩はそれだけではない。
豪放だが気遣いのできる魅力的なリーダーとして描かれる一方で、
江島は極端に毛深い自分の身体を醜いものとして忌み嫌っている。
つまり、十二分に仕事はできるのに、自らのいくつかの体験がトラウマとなり、
対異性関係において自己評価の低い人間の悲劇として描かれるのである。

しかも、よしながは、不条理なまでに容赦なく江島という存在を叩き潰す。
江島と生島新五郎との関係は、江島が酒席で生島とわずかに言葉を交わし、
これからどう動き出すのだろうと思わせた瞬間に終わってしまう。
「このまま、今の二人が続いてくれたなら」と思わせるような、「終了フラグ」すら立ててくれない。

そして気がつけば、長い回想シーンは終わっており、第1巻の主人公であった吉宗が再登場する。
これから、もう一度、吉宗の長い物語が続くことを考えると、
これ以上「江島生島事件」を深く描いてしまうことで、
吉宗のことを、これ以上イヤな人間に描かれてしまうのを避けたのではないか。
最初、そんなことを妄想した。

もう一度、読み直して、実は、いくつかの言葉を交わしただけの、まだ何も始まっていないような一瞬だけでも、
 江島にとっては、もう十分に「この上もない幸せ」であったのかもしれないと思うようにもなった。

ところで、作中の歌舞伎芝居は、男が働き、女が体を売る、今の社会と同じだ。
リアリストの江島は、作中における再度の男女逆転を「身を粉にして働き、男を買う江戸の女達の夢の世界」と断ずる。

しかし、後世に残る(つまり、私たちが知っている)「歌舞伎芝居」が男女逆転をしていないということは、
よしながふみは、物語中の男女逆転の社会として「大奥の最後」にとどまることなく、
「男女逆転の社会」そのものを、もう一度、元に戻すところまで描くつもりなのではないか。

「開国」、「大政奉還」など、男女再逆転のキーワードも思い当たらなくもない。
そんな風に、勝手に期待を高めて、勝手に興奮しているのだった。




    完成された「女尊男卑」社会、もしくは、その折り返し点 

                     ――――よしながふみ「大奥」8巻を読む(2012.10.20)

6巻分の回想は終わり、時代は吉宗に戻る。

当時の社会は「女尊男卑」が完成している。
老舗の料理屋ともなると、「男性」の料理人でも雇う度量は見せるが、
どれほど料理の腕を持っていても、裏で働く「焼方」にまではなれても、
客前に姿を見せる「板長」にはけっしてなれない。

 うちは客商売だよ どんなに味が良くても 男の板長がいる店では
 食べたくないっていうお客様を むりやり店に引っぱり込む事とはできないんだ
 
 ちょいとした事… たとえば月のものの事を話すにしたって
 お前がいたら 皆やりにくくって仕方ないのさ
 どうがんばったって お前さん やっぱり男だからね! 

もっとも根の深い差別は、あたかも相手のためを思っているかのような優しい姿で現れる。
お前が陰口やいびりに耐えて努力して来たことは知っている。料理人としての力も正当に認めている。
しかし、お前は(社会的信用がない)「男」だ。
「男」として生まれたお前のためを思うからこそ、 「独立した方がいい/これ以上、高い地位につけることはない」と、
板長は言い渡す。

そんな「女尊男卑」社会の完成を折り返し点にして、赤面疱瘡は、少しずつだが、その力を弱めつつあった。
それを期して、吉宗は、密かに大奥での蘭学と赤面疱瘡の研究を奨励する。

当時の日本は、鎖国をして外国からの目をそらしつつも、
対外的には(世界中の常識どおりに)男性が政治の中枢にいることになっていた。
鎖国によって、日本が経済的にも文化的にも世界から遅れをとっているのであれば、
開国により世界に追い付かねばならない。
それには、赤面疱瘡の問題を解決し、男性をもう一度政治の表舞台にたたせることが必須だというわけだ。

それは、赤面疱瘡という風土病による「男女逆転社会の成立」という大きな嘘を使って描き続けてきた作品を、
開国に向けた赤面疱瘡の克服による「男女逆転社会の終焉」という、
さらに大きな嘘によってたたみこんでしまうという、よしながふみの強い意志を示している。

その意気やよし。
とことん描いてみなはれ(なぜか船場言葉)、というところだ。

そんな中、1巻で水野を導き、さらには仕えることになっていた杉下が、
今や大奥総取締として穏やかな顔で大奥を差配しており、
また、吉宗をめぐる黒い疑惑については、加納久通がすべてを背負っていたことが明らかにされる。

そして、物語の冒頭から(時に映画版において)脇で光っていた二人に対して、
よしながふみは、特にページを割いて二人の最期を描く。
このあたりは、作者から登場人物への感謝の気持ちを表したということなのだろう。
(できれば、阿部サダヲと和久井映見で映像化されたものも見たいところだ。)

そして、新たに登場してくるのが、田沼意次と平賀源内の二人だ。
なるほど、面白い世の中じゃないか。




     密やかな研究室としての大奥

                     ――――よしながふみ「大奥」9巻を読む(2013.1.2)


もともと「大奥」という物語が8代吉宗から始まっているせいか、
この物語の世界では8代吉宗が絶対的存在として描かれている。

9代家重から10代家治に時代は移っても、不在の吉宗の影が残っている。
御用人から側用人、老中にまで駆け上がった田沼意次にしても、
その聡明さを見出し、家重・家治の側近として仕えるよう仕向け、
さらに自らの治世に対する改革まで託したのも、実は8巻の吉宗だったりする。

また、何かと幕政に口をはさんでくる田安家の定信、一橋家の治済は、
10代将軍・家治とともに吉宗の孫にあたり、陰日向に次の将軍をうかがうのだが、
将軍のスペアとして江戸城内に田安家・一橋家を残したのも、また吉宗である。

吉宗の遺訓に従い、家治は意次の側用人登用にあたり、
赤面疱瘡の解明のために、蘭学者を江戸に集め、研究させることを命ずる。
そこで、人知れず、というか正史には残らない形で研究をができる場所として、 大奥が登場する。

日本の男女逆転を悟られないよう、オランダ人から蘭学を学ぶのは男性である。
その主役となる青沼が、オランダ人と長崎の遊女との間に生まれた子というのも上手い。
大奥という隠された場所で、長身金髪碧眼の人間から学ぶというほどに、
蘭学というのは、新しく怪しく異端の学問であったということだ。

「解体新書」を訳しつつある杉田玄白が、田沼意次の計らいで大奥にも出入りするのだが、
教科書でもおなじみの男性として杉田玄白が登場するのにも驚かされた。
もう、この物語を読むにあたって、我々が男性として知っている歴史上の人物が
史実通りに男性のままで登場することに、違和感を感じるようになっているのだ。

さらにややこしいのは、平賀源内である。
型破り奇人として知られる源内だから、どう描かれても許されるというものだが、
この物語での源内は、男装の女性である。

男女逆転社会ということでは女性・源内は当然だし、蘭学を学ぶなら男装もわかる。
田沼意次のブレーンとして、蘭学研究の拠点である大奥にも出入りするにも、男装である方が好都合なのだろう。

単に大奥に出入りするだけではない。
全国で見聞した最新情報を持ち込む天才・源内と大奥の蘭学スタッフたちは、
そのディスカッションを通じて、赤面疱瘡撲滅の手法まで開発しそうな勢いだ。
吉宗以前の「大奥」が男女逆転をテーマにした愛の物語であったのに対し、
この巻では、赤面疱瘡の克服と男女再逆転というテーマに取り組む歴史の物語となっている。

と思っていたら、大奥の外で、ややこしそうな愛の物語が発生しそうだ。
やはり源内のセクシュアリティは女性に向いており、
身の回りの世話をするほど良い仲だった人気歌舞伎役者(もちろん、女だ)をひどい仕打ちの末に別れてしまったのだ。
もともと男女逆転社会というだけでもややこしいのに、
男装の女性天才学者と性を超越する演技をする女性歌舞伎役者の恋とは、
思考実験と言いつつも、見ていて頭がクラクラしてくる。

こういう設定を自在に扱えるというのも、 BLで鍛えたよしながふみの面目躍如というべきなのだろうか。



    政権交代が破壊した「ありがとう」で連なる仲間たち

                     ――――よしながふみ「大奥」10巻を読む(2013.11.10)


この巻のキーワードは、「政権交代」と「ありがとう」だ。

日蘭混血の医師・青沼を中心に、大奥で密かに続けられた赤面疱瘡の研究は、
ついに、弱毒性の人痘による予防術を開発するまでになった。

それは、当時の蘭語にも蘭方医学にも卓越した知識を持つ青沼と、
青沼に劣らぬ知識と発想力を持ち、日本中を歩いて人や情報を集めた平賀源内と、
通称「青沼部屋」に集った仲間たちの献身的な努力の賜物であり、
なにより、それらを許した開明的な将軍・家治、老中・田沼意次の庇護によるものである。

しかし、それらを快からぬものと思う保守的な者たちは、
「そもそも蘭方医学など外道の医術よ」「漢方の奥医師とは格が違う」
「武士とも呼べぬ怪しげな学者が我が物顔で大奥にずかずか入り込んでくる」と揶揄し、
「女(田沼・源内)二人と男大勢でとんだ医学の講義もあったものだ」という ゴシップまで流すほどだ。

そして、運の悪いことに、あるいは政敵を利するかのように、次々と天災がおこる。
まず、江戸の町は未曾有の大洪水に見舞われ、やっと立ち直った頃に大地震が直撃する。
続く浅間山の大噴火は、その噴煙と降灰による冷害をもたらし、
奥州を中心に多数の餓死者を出し、江戸の町は田畑を捨てて流れてきた避難民であふれた。

史実によれば、田沼期に作中にあるような大洪水は二度ほどあったが、
田沼時代の天災といえば、噴火・飢饉と並んで明和の大火とするのが一般的である。
つまり、よしながふみは明和の大火を省略して、わざと洪水を選択したのである。

そこでは、高台を目指して逃げまどう人々の描写も含めて、
東日本大震災という現実の出来事を強く意識していることが見て取れる。
そして、天明期の大飢饉もまた、奥州の人々に最も苦しみをもたらした厄災である。

民の苦しみが時の権力者に憎しみを向けるのは世の常だ。
田沼意知が暗殺されたとき、江戸の民は犯人を「世直し大明神」ともてはやした。
そして、田沼意次の一番の後ろ盾であった将軍・家治がなくなると、
ほどなく意次は隠居させられ、青沼部屋に集った者たちも大奥から排除される。

ところが、この青沼部屋の仲間たち、特に大奥を去る過程が、実にさわやかなのである。
赤面疱瘡の人痘に成功した青沼が「ありがとう」と源内に手を差し伸べると、
源内は「地位よりお金より 人にありがとうって言われるのが大好きさ」と答える。
赤面疱瘡の予防法を開発した青沼に、田沼も「ありがとう」と声をかける。
失脚を覚悟した田沼が青沼に与えられるのは、もはや言葉しかない。

青沼もまた「ありがとうございました」と青沼部屋に集った仲間たちに声をかけ、
「皆さんがいなければ とてもここまではこられなかった!」と述懐する。
罪人として縄を打たれた青沼に、皆は「ありがとうございました」と繰り返すばかりだ。

大奥から江戸の町に戻った黒木は、城に向かって吠える。
 江戸城にいる女達よ
 政権の座について それで満足か!?
 そんなに己の地位が権力が大切か!?
 貴様らは母になったことがないのか!?
 母ならば 男子を産んだことはないのか!?
 産んだならば その子を赤面疱瘡で亡くしたことはないのか!?
 そういう悲しい母と子を一人でも減らしたくて懸命に努力してきた者達に この仕打ちか!?

この巻が現実の日本で政権の再交代があった直後の2013年に描かれたことを思うと、
奥州での天災の描写や反対派の醜悪なデマ、江戸時代に似つかわしくない「政権」という言葉も含めて、
現在の日本の政権のあり方に対する、よしながふみの釈然としない思いを吐露しているようにも見える。

日本の前政権にいた面々が、青沼部屋の仲間たちほどにさわやかであったどうかについては置くとして。



    種馬としての男性将軍の復活 

                   ――――よしながふみ「大奥」11巻を読む(2014.9.8)

人痘接種を受けて赤面疱瘡を克服した家斉が、150年ぶりに男子として将軍職に就いた。
史実によれば、家斉は50人以上の子を設けたというから、 物語の世界でも男性将軍に戻すには良いタイミングだ。

しかし、これでたちまち「男女再逆転の時代」が始まると思ったら大間違いで、
母・治済は、自らが政務に専念することができるように、
子作りに専念する種馬役として家斉を将軍職に就かせたにすぎない。
(男女再逆転の視点として、「女は仕事、男は家庭」を提示しているところが興味深い。)

これまでも、子作りと政治との両立は「女性将軍」の懸案の一つだった。
もし壮健な男が出現すれば、将軍の大切な役割のうち「子作り」だけならば任せられる。
徳川治済の分業感は、この物語での時代感覚としては理に適っている。

象徴的なのが、将軍として政治に口を出そうとする家斉に発した治済の一喝だ。

 そもそも男など 女がいなければ この世に生まれ出でる事もできないではないか!!
 生まれたら生まれたで 働くのも 成人して子を産むのも 全て女に押し付けて
 己はただ毎日 女にかしずかれて子作りをするだけ!!

少し前なら、これを裏返したような発言を平気でしていたジジイは数知れずいた。
もとより制度が変わったからといって、意識がなかなか変わるものではない。

治済は、権力を得るためにはどんなことでも平気でやりきるという点で、
家治・定信とは違う意味で吉宗を受け継いだ孫であった。何人もの政敵を毒殺したのは言うまでもない。

田沼を許さぬという立場で手を組んだはずの松平定信も、
最後の仕上げとばかりに 治済が望む「大御所」の地位に定信が難色を示したのを機に解任してしまう。
思わぬところに、大物の悪役が登場したものである。

しかしながら、松平定信による「寛政異学の禁」で蘭学が公式には排斥される中にあっても、
(人痘による副反応で甥を亡くしたとあっては、定信が蘭学嫌いになるのもわからなくはない。)
源内や青沼たちが大奥で撒いた蘭学の小さな種は、
商家に婿に入った僖助や診療所の看板を上げる黒木や伊兵衛という、
大奥を追放された者たちによって静かに受け継がれていく。

そして、「没日録」を読み切った家斉は、自ら黒木のもとを訪れる。
仲介したのが、かつては反田沼派の筆頭であった松方というのも皮肉だ。
松方もまた、青沼部屋での蘭学研究が徹底的に排除されたことや、
あまりに身勝手な治済のふるまいに、いくぶんかの疑問を持つようになっていた。

さて、治済が健在な今の段階で、家斉はどこまでのことができ、
また、やってのけるだけの覚悟があるのか。




     「ありがとう」の連鎖の中に身を置く将軍家斉 

                     ――――よしながふみ「大奥」12巻を読む(2015.7.4)

前巻の終りに、将軍・家斉は自ら密かに城下の黒木宅を訪れた。
将軍が江戸城を離れること自体、通常ありえないことであるし、
ゆるぎない欲望と毒物でもって江戸城を支配する母・治済に隠し事をするのも危険だ。
家斉は、それほどまでに自分の命を救った「人痘」を広めることに本気なのだ。

次の手は、「天文方翻訳局」の新設である。
これなら、黒木を正式に召し抱えることができる上、さほど目につかない。
なるほど、うまい場所に設定したものだ。

史実においても、(この物語では絶対善である)吉宗は天文学に深い関心を寄せており、
吉宗による洋書の解禁の背景には、西洋天文学の導入があったとされる。しかも、場所は江戸のはずれの浅草だ。
つまり、幕府内部で秘かに蘭学の拠点となりうる場所として、天文方はふさわしい。

さっそく、天文方の面々にあいさつする黒木だが、
学者は数少ない「男の世界」としつつ、「翻訳局に頼む仕事はない」という渋川正陽に対し、
女性の高橋景保は、「正確な天体観測には、最新の西洋の天文学知識が必要」と歓迎する。

史実においても、1811年高橋景保の提唱により天文方内に「蛮書和解御用」が置かれている。
蛮書和解御用には、玄白・良沢の弟子の大槻玄沢らが出仕しているので、
「杉田玄白とも懇意の黒木」が「蛮書和解御用とよく似た場所」で、翻訳官筆頭を務めるのに違和感はない。

そして、「大奥」という男女逆転の物語を生み出した根本的な原因である「赤面疱瘡」は、
田沼意次の庇護の下で青沼や源内らが大奥で開発した「人痘」をもとに、
黒木らがさらに実用化した「熊痘」によって、一気に克服されることとなる。

その背後に、将軍・家斉の後ろ盾があったことは見逃せない。
その証拠であるかのように、 よしながふみは、家斉が黒木に「ありがとう」という場面をわざわざ置いている。

家斉もまた、青沼部屋の仲間たちと同様に、「ありがとう」の連鎖の中に身を置くものなのだ。




    ここへ来て、驚きの大奥「男女再々逆転」 

                       ――――よしながふみ「大奥」13巻を読む(2016.5.15)

赤面疱瘡が克服され、男性将軍・家斉が立ってからは、
このまま「男女再逆転」の幕末を迎えるのだと思っていた。

すでに庶民の間では、かつてなら貴重な子種として家で大切にされていた成人男子だが、
「試しに働かせてみると」力も強く、よく働くので女たちが驚いたほどだ。
女性は仕事ができないものと決めつけられていた均等法直後を思い出させる。

一方、男性が外で働くことは、女性が家事労働の専従となる性別役割分業への移行であり、
すべての仕事をしていた時代と比べると女性が楽になったことは間違いないが、
「経済力を男性に引き渡すという事だ」と、きちんと作中で語っているのも見逃せない。

それはそれとして、よしながふみは、もうしばらく男女混在の幕政を描こうとする。
この巻の主人公は、すでに異例になりつつあった女性藩主であり、
その才覚によって、若くして老中に抜擢された阿部正弘である。

将軍も、家斉、家慶と男性が続くが、世継ぎは女性の家定と定められた。
史実を出来るだけ傷つけないという方針から、 多くの子を残した家斉、家慶を男性でなければならなかったが、
子のいなかった家定ならば、女性に戻すことができるということもある。

女性の家定が将軍となった傍証として、
家斉・家慶時代に多くの子女を養子や嫁に出す際の費用が財政を圧迫したという事情や、
怪物・治済で顕在化した毒を盛る習慣によってか、家慶の子が皆、早逝したこともある。

しかし、それだけでは、いったん成立した男女再逆転した大奥を、
もう一度、女性将軍に仕える男性大奥とするには弱い。

そこでなんとか考え出されたのが、
家慶の家定に対する「特別なこだわり」という 非常にやっかいな設定ということなのだろうか。
かくして、つかの間の女性大奥は、本丸御殿の火事をテコにする形で、
家慶の退場とともに、家光以来の「本来の姿」である男性大奥へと総入れ替えする。
総取締は、阿部正弘が陰間茶屋で見出した瀧山である。

そして、アメリカからはペリーが、京からは天璋院篤姫がやってくる。
ひょっとすると、この巻は、幕末編の主な登場人物を配置するための つなぎとして置かれているのかもしれない。
いよいよ、本格的に幕末が始まる。

そして、みなもと太郎「風雲児たち・幕末編」と、ますます人物が交錯するのだった。




   「武家の当主」と「将軍の正室」が比較対象となる不思議 

                      ――――よしながふみ「大奥」14巻を読む(2017.4.8)


冒頭、「大奥」という閉塞した空間には不似合いな海岸の場面に驚かされる。
村娘と密会しているのは、島津の一門の今和泉家の若様なのだという。
謎が解けたのは、彼が島津本家の養子になるよう命じられたからだ。
つまり、彼は「篤姫」なのだ。

さらに近衛家の養子となり名も忠敬から胤篤に改めると、 将軍・家定の正室として大奥に入ることとなる。
この胤篤は頭脳明晰で身体頑健とされ、
「武家の当主ならともかく、正室として江戸に向かい生涯江戸城に閉じ込められ」
と実父が嘆くあたりが、この「大奥」独特の価値観だ。

誰にでも訪れるような運命ではないのだが、
男女逆転社会から、再度の逆転をしようとする時期だからこそ、
「武家の当主」と「大奥で正室」という奇妙な比較が成立する。
しかも、島津斉彬からは、 一橋慶喜を次の将軍にするよう働きかけよ、との密命も帯びる。

井伊直弼らは「男将軍」による財政の悪化を理由に紀州家の福子を推しているが、
斉彬は、海外事情に通じた外様大名の幕政参与が必要であることと併せて、
国の非常時には、年長で男子の慶喜が将軍にふさわしい、とする。

つまり、かの一橋派と南紀派による将軍継嗣問題について、
この「大奥」の世界では、「男女再逆転」という時代の微妙な感覚がこっそりと絡められているのだ。

そんな中、前巻で活躍した阿部正弘が静かに退場する。
幸せそうなな将軍・家定と正室・胤篤の姿をはなむけにして。
そして、時代は、ついに家定と心(と身体)を通わせることのできた胤篤と、
阿部の遺した大奥総取締・瀧山の時代になる。




   大奥という「毒」を浄化するかような家定と胤篤の愛 

                        ――――よしながふみ「大奥15巻を読む(2018.1.27)

前半、懐妊した将軍・家定と正室・胤篤の仲睦まじい様子が丁寧に描かれる。
ともにカステラを作ったり、特別に仕立てた裃を愛でつつ二人で庭を散歩したり、
夜の庭を眺めつつ寄り添ったり。

というのも、それまでに二人いた家定の正室は毒殺されており、
家定自身も、おそらくは母からも父からも毒を盛られている。
殺された二人の正室や。何よりも苦痛でしかなかった父との関係もあって、
家定は男性を愛するどころか、心を開くことさえできなくなっていた。

そんな家定の心を解きほぐしたのが三人目の正室・胤篤であり、その成果が家定の懐妊であるはずだった。
ところが、突然、家定は胤篤の前から消え、次に知らされたのは、すでに亡くなっているとの「情報」だった。
開国か攘夷かで国論が二分し、それが将軍後継問題までつながっていた時期だけに、
物語では、犯人こそ特定していないものの、毒殺であることを示唆している。
史実でも、家定には毒殺説があるようだ。

だからなのだろう。 胤篤の無念をたどるように、
家定の死の報から埋葬までの間に、もしくは美しい思い出から虚しい後日談までを、
たっぷりと50ページを使って表現する。

一方、大奥の外では、大老・井伊直弼が日米修好通商条約に調印し、
孝明帝が水戸藩に攘夷実行の密勅を下すと、井伊直弼は安政の大獄で応える。
それでも、なんとか和宮降嫁による公武合体にこじつけたものの、
開国を急ぐためとはいえ、その激しすぎる政策が反感を買い、直弼は暗殺される。

そんな激動にあって、いつのまにか胤篤は家定の遺志を継ぐかのように、
沈みつつある徳川家について考えるようになっているのだった。
それにしても、手を変え品を変え、ジェンダーを超えた展開をみせてくれるのだが、
巻末にチラリと登場した和宮には驚かされた。

次巻も、見逃せない。



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