子どもたちにはなんとか希望を与えようとする大人からの小さな答え

                        ------須藤真澄「庭先案内」1巻を読む(2006.4.19)


主に子どもが主人公となった16ページのファンタジー短編連作集である。

語りつくせないけれど余韻を残すという短編独特の技術を駆使している。
いわゆる同人誌系と呼ばれる人に多い描き方だが、
好きな人ならわかってくれるという期待で投げやりに描くのではなく、きちんと伝えてくれるところが須藤真澄の力である。

特に、子どもたちの希望はけっして奪わないというところが大人だ。
かつて「より豊かになること」のために大人が奮闘することで 子どもに希望を与えられた時代があった。
「豊かさ」が将来の希望ではなく、「努力」が希望への道でもない時代に、
私たちはどんな風に子どもたちに希望を与えられるのだろうか。

この本も、そんな問いに対する小さな答えであるようだ。



   「なんでもあり」を成立させる、しっかりとした世界観

                             ―――須藤真澄「庭先案内」2巻を読む(2007.1.29)

ファンタジーの基本は、「なんでもあり」である。
「なんでもあり」だからといっても、本当に「なんでもあり」なら、物語として破綻してしまう。

「なんでもあり」とは文法がないことを指すのではなく、
その作品に限って成立する独得の文法(というか世界観)を使って、世界を再構築することなのである。

須藤真澄の庭先案内は、16ページの作品10本を集めた短編集である。
つまり、この本一冊で10種類の世界観があり、 その世界観を逸脱しない範囲で「なんでもあり」な物語が展開される。
思い出したように登場する「幻灯機屋のじいさん」(顔が「非」)も健在だ。

つまるところ何かがあるというような話ではないが、その「何もない」世界を創造するために必要だったものが、
なんとも心地よく豊かな気持ちにさせてくれる。

ある意味、ぜいたくな作品だ。



   使い捨てにするには惜しいキャラが続々登場

                             ―――須藤真澄「庭先案内」3巻を読む(2008.4.12)

忙しいと、これだからいけない。
須藤真澄の16ページ短編連作の3巻が去年の秋に出ていたのを見落としていた。

このシリーズも息が長い。 顔が「非」の幻燈機の爺さんは、今回も巻頭を飾ってくれた。
大阪言葉の七福神は、1巻「メッセージ」以来の登場。
七福神に翻弄された「青春19お嬢さん」の美大浪人生は、1巻の姉とは微妙に別人のような。
むしろ、「エピソード1」の高校生姉妹の方が1巻の姉妹と同一なのか。

そんな無粋な詮索は別にしても、落し物居酒屋やお願い帽子屋さんなど、一回きりで捨てるには惜しいキャラも多い。
そういう意味では、ぜいたくな連載だ。

無理せず、もっと使い回しをしてもいいですから。
読者が言うのもどうかと思うが、そう言いたくなるほど惜しみなくアイデアを注ぎ込んでくれる。
それだけのアイデアが出ること自体、作者にとっても幸せな状態なのだろう。
作者にとっても、読者にとっても幸せな連載ということか。



   端役で登場していた人物に再度スポットをあてるという手法

                             ―――須藤真澄「庭先案内」4巻を読む(2008.8.4)

須藤真澄による16p読みきりファンタジーのシリーズである。

冒頭は、いつもの幻燈機のじいさんだ。
南の島を旅するのは、帽子屋の「おネエさん」じゃないか。
不動産屋にやってきたのは、不運続きの美大浪人生のようだ。
腹黒い姉と素直な妹も、1巻からのレギュラーメンバーだな。

お、この熱帯植物の妖精も3巻にいるじゃないか。
別れた娘とデートしているお父さんは、キャッチボールのオジサンなんだ。
端役で登場していた人物に再度スポット当てて、もう一つの物語を描いてくれるのはやっぱり嬉しい。

今回の新キャラの秀逸は、夢路いとし似の不動産業者だろう。
「不動産ファイル#001」とあるので、新作も期待できそうだ。

まだまだ、「庭先案内」は終わらない。



   東京人の須藤真澄が大阪と神戸の言葉をリアルに描き分ける謎

                             ―――須藤真澄「庭先案内」5巻を読む(2009.7.12)

もはや名人芸だ。
幻燈機の爺さんは、いつものいい味を出すだけじゃなく、少しだけ秘密を明かしてくれた。
オネエのパティシエは、オネエの帽子屋と「姉妹」であるらしい。
大阪姉妹は、正月を過ごした神戸の坂で、思わぬ大活躍をしている。

それにしても、東京人のはずの須藤真澄が、なぜこんなにリアルに、大阪と神戸の言葉を描き分けるんだろう。
いや、その前に、なぜ毎月、これほど魅力的な物語が紡ぎだせるのだろうか。

須藤真澄の作品を見ていると、時々驚かせる角度から描かれたカットがある。
カメラの置いている場所が、普通の人の目線とずいぶん違うのだ。
普通の人々の普通の生活を描いているのに、カメラの位置が違うだけで、 妙に不思議な画像になってしまう。

なるほど、これか。
カメラが違う位置にあると、当たり前の世の中も違って見えてくる。
それどころか、世の中を違って見せてくれるカメラは、いつのまにか時間や空間をずらしたり逆回転させたりし始めるのだろう。

それにしても、破壊王女子高生の強烈なこと。



   フィナーレだけれど、終ってしまうわけじゃない

                             ―――須藤真澄「庭先案内」6巻を読む(2010.3.6)

帯に、「ついにフィナーレ」とある。
本当に終了なのかと思って調べると、同じコミックビーム誌で同じキャラが登場する新連載が始まるらしい。

だからというわけでもないが、
冒頭の幻灯機の爺さんに始まり、大阪姉妹も、帽子屋の「お姉さま」も、
ロシア系のルポライ・イタシーボ、ではなかったルポライター志望少女もいる。

「イノキ盆拝会」もいいなあ。
この話、このダジャレからスタートしただろ、どうせ。



   「庭先案内」とは書いていないが、「庭先案内」の7巻

                             ―――須藤真澄「水蜻蛉の庭」を読む(2011.7.10)

須藤真澄本人があとがきで書いているように、
この本は「庭先案内」の7巻目にあたり、 「この話のあの人が、あの話では そんな人とコラボしてたりします。」

なら、なぜ、この作品が「庭先案内」の7巻ではないのだろうか。
勝手に、大人の事情を邪推するなら、「7巻」というよりも巻数のない方が、初めての読者に売れるからという事情が浮かんだ。

適切な感想であるかどうかはわからないが、
最初に「仮題」として発表された「庭先塩梅」よりは、「水蜻蛉の庭」の方が印象がよかろうとは思うのだった。
ちなみに、「水蜻蛉の庭」という作品はない。ならば、なぜ「水蜻蛉の庭」なのだろうという謎が残る。

いや、だから、「庭先案内」の7巻なんだって。
そうか、それなら安心だ。



   震災に真正面から取り組んだ「東の島より西の海へ」の衝撃

                             ―――須藤真澄「金魚草の池」を読む(2012.5.13)

東日本大震災の光景には誰もが衝撃を受けたが、
表現を仕事としている者には、とりわけ強いものがあったであろう。

ましてや、想像力を使って、当たり前の世界とは異なる、
虚実の間や生死の間をも自由に行き来することができる世界を構築してきた
ファンタジーまんが家・須藤真澄ならば、なおさらであろう。

だからだろうか。
読んでいる側の勝手な思い込みなのかもしれないが、
地震の直後に発表された、被災した子どもの夢を取り上げた「球形の眠り」以外の、
いつもの「まずび風」ファンタジーと見えるものであっても、
どこか、大きな喪失感からくるベールのようなものをかぶっているように見えた。

などというようなことを、したり顔で言えたのは
巻末の手前にそっと置かれた 2012年3月に発表の「東の島より西の海へ」を読むまでのことだ。

その島には、あの日、やっとの思いで流れ着いた2万人たらずの者が暮らしていた。
彼らは、漁に出たり、畑を耕したり、共同で食事を作ったりしながら、少しずつだが、新しい土地で自らの暮らしを復興しようとしていた。
しかし、漁をする者たちがどれほど探しても、かつて彼らが暮らしていた故郷は、影も形も見つからなかった。
せめて、あの日から1年目の日に、みんなで海に花を流そうと皆で決めたのだが…

須藤真澄は、思いのほか真正面から被災した者の思いと向き合っていた。
体験したものでなければはかりしれないような思いを、体験していないものが安易に形にしてしまうのはためらわれるものだ。
しかし、須藤真澄は、1年の時間をかけて思いを熟成し、今ならば描けるであろうことを、今ならば描けるであろう範囲で、
ただし、この上なく真正面から描き切った。

この作品も、萩尾望都の「なのはな」と並んで、震災後をめぐる大切な表現として長く記憶されてほしいものだ。
そして、須藤真澄にとっても、この作品を描くことで、
心の内にかぶさっている薄いベールのようなものを 切り開くきっかけになってもらえることなら、なおうれしい。



   なるほど、タイトルの頭文字が「水・金・地」なのか

                             ―――須藤真澄「地図苔の森」を読む(2012.12.9)

「庭先案内」全6巻が、「庭先塩梅」にモデルチェンジして3巻目、
「水蜻蛉の庭」「金魚草の池」に続いて出たのが、この「地図苔の森」だ。
本編と無関係なタイトルは不可解だったが、あとがきに種明かしがされていて、
 「水・金・地…」ということらしい。(なら、8巻は出るか。)

今回は珍しく一話ごとの「あとがき」が付けられていて、 創作の秘密みたいなものも垣間見える。
「ルポライター志望少女」の話に登場した「古本屋の親父」がなかなか良い味を出していると思ったら、
須藤真澄も 「今後も「おやっさん」(昭和の仮面ライダー)的な扱いで 登場させていきたいです。」 と書いていたりする。

こういう「使えるキャラ」をストックしておき、このアイデアなら、この人が使えそうだとか、
この人の後日談なら、こういう話になりそうだとか、 そんな風にして新しい物語が生まれてくるのだろう。

「風邪引き美大受験失敗少女」については須藤真澄も気にしていてるらしく、
「この娘さんを、いつか幸せにしてやりたいんですけどねえ、 どうしたらいいんでしょうねえ」としみじみと困っている。
(設定上、登場のたびに物語内時間が1年経過してしまうため)
「いつのまにか「よく登場する若い娘さん」枠最高齢になってしもた。 嫁にでも出すか、国外に逃がしてみるか。」

はい、楽しみにして待ってます。
次の巻は「火事場の泥棒」でどうだ。いろんな意味で違うか。



   大阪姉妹の名前が「あんな」と「さよか」とは秀逸すぎる

                            ―――須藤真澄「火輪花の丘」を読む(2013.10.19)

読み切りファンタジーの連作も、新装になって4冊目である。
水・金・地ときて、火から始まる植物があまりなくて、「火輪花」は、ロシア民謡で知られる「カリンカ」の当て字とのこと。
(さすがに、「火事場泥棒」ではなかった。)

なんとなくだが、この巻は、子どものような純粋な者たちがこの世ならぬ者たちに翻弄されるというより、
この世をならぬ者たちの方が純粋な子どもたちに振り回されるというような話が多かったような気がする。

けっして純粋な者とも言えないが、亡霊に取りつかれた美大受験少女は、
亡霊たちの妨害にめげず、ついに合格してしまったらしい。
しかし、このまま期待通りの不運なな大学生活を送ってくれそうだ。

あとがきでは、今回登場のキャラクターの名前について語られていた。
秀逸は、大阪姉妹の妹の「あんな」と姉の「さよか」。 須藤真澄の関西言葉は、リアリティがあって好感が持てる。

で、次の巻は「木」なのだが、「木酢液の瓶」とかどうだ。 植物の名じゃないけど。(そおゆう問題か。)



   みんなそれなりに「グッデイ」だった、それぞれの最後の一日

                            ―――須藤真澄「グッデイ」を読む(2014.12.17)

須藤真澄は、コミックビームで16ページの読み切りファンタジーを2004年から発表している。
10年を超える連載なので、年に一度くらいのペースで同じ登場人物を使ったりもするが、
一つの設定で描き続ける、いわゆる読み切り連載という形式はとらなかった。

ところが、この本は、「玉迎え」という設定を使った読み切り連載で一冊を描き切った。
ちなみに、連載のシリーズ名は「庭先塩梅」で変わっていないので、よほど、この設定にこだわりがあったのだろう。

その「玉迎え」なのだが、「玉薬」という薬の効用で、 体の寿命で亡くなる人の身体が、その前日、球体に見える状態をいう。
ただし、次の日に亡くなる人のことを球体に見える人は世界に1人だけで、
もし、玉迎えの人を見つけたら、本人には直接告げず家族にそっと知らせて、あとは家族に任せるものとされている。
つまり、この本は、「玉迎え」を迎えた人とその家族による、さまざまな「最後の一日」を描いている連作なのである。

それぞれの人のそれぞれの最後の一日は、みんなそれなりに「グッデイ」だった。
とはいえ、人が亡くなっていく話は、 いかに「ますび流」のアレンジが加えられていたとしても、やはり物悲しい。
それまでの作品が、夢のあるちょっといい話が多かっただけに、なおさらだ。

なぜ、今、亡くなる直前の人と家族の物語を描こうとし、連作として続けようとしたのか。
あるいは、このシリーズなら続けて描けるし、描き続けたいと思ったのか。
須藤真澄の心境が気になるところだ。

やはり、震災をめぐるいろんな思いが、熟成発酵したのだろうか。
本当のところはよくわからないのであるが。



   帰って来たレギュラーメンバー、そしてついに語り始めた幻灯機屋

                            ―――須藤真澄「木珊瑚の島」を読む(2015.6.21)


しばらく集中的に描いていた「グッデイ」のシリーズが一冊の本にまとまったことで、
須藤真澄は、再びいつものあいつらの物語に帰ってきた。

幼い時代の大阪姉妹は、大阪市立美術館らしき場所で開催された大インド展に現れる。
(あとがきに旧大阪市立博物館とあるが須藤真澄の思い違い。あの外観は大阪市立美術館。)
帽子屋、ケーキ屋、人形師のオネエ三兄弟のもとには、小津風の両親が訪れる。
美大に入っても咳き込んでいる不運少女は相変わらず不運だが、なんとか無事なようだ。
そして、幻燈機屋のじいさん。あんた、昔は、もっと無口だったんじゃないかねえ。

あとがきによると、幻燈機シリーズは次回が最終回とのこと。
行く先々で、人々の心を安らがせたり、もやもやした心を晴らせたりしていた幻燈機屋だが、
確かに、幻燈機やあのじいさんをめぐる謎も、少しずつ解けてきていた。
あるいは、無口だったじいさんの心も、少しずつほぐれてきたということか。

「ともあれ次刊「土」も、よろしくお願いします。」とのことなので、心して待つことにするか。


   実は「悲」だった幻灯機屋の爺さん、大阪姉妹に救われた風邪ひきお嬢さん

                             ―――須藤真澄「土筆柑の空」を読む(2016.6.2)


庭先案内全6巻、太陽系の星を使った題名に変えて6巻、
2004年の連載開始から12年にもわたる16ページ読み切りの連作が終了した。

「犬の薬売り」は、「水蜻蛉の庭」が初出だった。
「帽子屋とケーキ屋と人形師」のオネエ三姉妹は、
帽子屋が「庭先案内3巻」から、ケーキ屋は「5巻」から、人形師は「6巻」から登場している。

全く気が付いていなかったが、「レゲエ系フリーマーケット少女」は、「2巻」からいた。
「3巻」から登場の「風邪ひき美大不合格お嬢さん」を救ったのは、
なんと、「1巻」から登場の鉄板キャラである「大阪姉妹」だった。

幻灯機屋の爺さんは、1巻に2回登場したのを含め全巻に登場し、
都合、13回にわたって、アジアの各地を歩き続けた。
あとがきによると、<ブータン→ベトナム→ネパール→ネパール(首都→高山→首都)→
モンゴル→ウイグル→ミャンマー→タイ→カンボジア→ブータン→ラオス→インド>だそうだ。

爺さんのことを顔が「非」と書き続けてきたが、あとがきには、「わしの顔、「悲」って字に似てないか」とあった。
なるほど、そうでしたか。それは失礼しました。

いろいろ読み返すと、読んだ時の小さな感動がよみがえる。
もう十分に大人だったので、「あのときは、こんな出来事があって」なんて思い出はないが、昔も今も心は変わっていなかった。

本当に、楽しませていただきました。 本当に、お疲れさまでした。
本当は、「天花粉の缶」とか「海遊館の裏」みたいな続巻も読みたかったんだけどね。



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