日本の精神分析を作ることから生まれた日本人論

                      ―――― 北山修・橋本雅之「日本人の<原罪>」を読む(2009.3.21に加筆)


北山修は、言うまでもなくザ・ フォーク・クルセダーズの一員としてデビューし、一世を風靡した作詞家である。
と同時に、フロイト派の精神分析学を修めた精神科医であり、現 在は九州大学大学院人間環境学研究院教授とともに、
日本精神分析学会会長も務めているらしい。

精神分析医としての北山が一貫して取り組んでいるのは、日本神 話や日本民話を使った精神分析の日本化を試みである。
たとえば、「エディプス・コンプレックス」という有名な精神分 析用語がある。
ギリシャ悲劇を例に出しながら、ある病的な心理状態を説明する ものである。
このことは、エディプス神話というヨーロッパでは誰でも知って いて、
長年にわたり自分たちの文化として受け継がれている物語を使う ことによって、
人の心のつまづきの一つの典型例を拾い上げ、わかりやすく説明 することに成功している。

つまり、「あなたの心のつまづきは、ギリシャ神話のエディプス のようなものです。」と説明されれば、
(実際に、そんな説明が診察室で行われているのかどうかはわか らないのだが、)
そんな物語を受け継いでいる者同士であれば、ある程度理解し合 うことができる。

ところが、日本ではギリシャ悲劇を文化として受け継いでいるわ けではないので、
ギリシャ悲劇を例に出されても共感を得られないばかりか、「エ ディプス神話」という物語を受け継いでこなかった日本人には、
「エディプス神話のような心理状態」というものが必ずしも日本 人にあてはめられない場合さえも想定される。

だからこそ、精神分析という手法を日本に定着されるには、フロ イトやその弟子筋のヨーロッパ人が発見したヨーロッパ的な物語ではなく、
日本人独特の心のつまづきの物語を発見するべきなのであり、そ れはきっと日本の物語の中にあるはずなのである。
そして、そんな日本人独特の「心の台本」を見つけ出し、日本独 特の精神分析を構築しなければならないというのが、
北山修が精神科医として取り組んできていることなのである (と、私は理解している)。

そして、そんな北山が日本人の問題として発見した大きなテーマ の一つが、
イザナキ・イザナミ神話や山幸彦・トヨタマヒメの神話、民話 「鶴の恩返し」を経て
木下順二「夕鶴」に至る物語等に繰り返し登場する「見るなの禁 止」である。

実際のところ、臨床的にも夕鶴の女性主人公のような過剰に献身 的な人物は存在しており、北山は「自虐的世話役」と名づけている。
また、逆に禁を破った男は完全な存在だった母親に幻滅する子ど もになぞらえられており、
自らの欲望により対象を傷つけ、また破壊してしまったことへの 罪意識にさいなまれる、としている。

この私の不完全な要約がどれほどの妥当性があるかはともかく、
北山による日本神話の精神分析的解釈に注目したのが、国文学者 の橋本雅之である。
橋本は、国文学・神話学の研究成果をもとに、他国の神話との比 較も含めて、日本神話の中に日本独自の精神文化のありようを見出す。

橋本は、「見るなの禁止」の物語が必ずしも日本独自ではないに もかかわらず、禁を破った側の罪を問わないのは日本独特の感覚であるという。
それどころか、日本の物語においては「見るなの禁止」を破るこ とが罪としてではなくケガレと解釈され、
「見るなの禁止」を破ったものは罪を負った加害者の立場ではな く、
見ることによりケガレを移された被害者に置き換えられてしまっ ていると指摘する。

そして、この罪を罪と認めず「ケガレ」を「ミソギ」によって解 決するという日本的な問題解決方法が、
なかなかほかの国の人たちにわかってもらえないし、日本人自身 もそのことに問題があることに気が付いていないのではないかという。

精神分析と国文学という二つの方向から「見るなの禁止」が語ら れることをとおして、
それぞれの立場から日本人のかかえる問題が浮かび上がる。
解決方法は、一言で言えば「弔いをつくす」ということのようだ が、現実には簡単ではない。

作詞家・北山修から出発して、精神医学関係の専門書もいくつか 読んだ身にとっては、
本書は新書版でもあり、大変わかりやすく北山の思想にふれるこ とができた。
橋本の立場も対話者というよりも、北山の思想を踏まえて国文学 者の立場から補足したり、
純粋な聞き手として北山にぶつかっているところもあり、共著で ある以上に、北山修を学ぶための格好の入門書になっているようだ。

それは、ただ北山修という精神分析医の問題意識を知るというこ とにとどまるものではなく、
日本を代表するで精神分析医の言葉を通して、日本人がかかえる 心の問題というものを
わかりやすく浮かび上がらせるというということでもある。



     講談社サイト内「日本人の原罪」紹介ページ
     Wikipedia北山修ページ
     Wikipedia橋本雅之ページ
 



   ひらがなの筆名どうしで語られる平易な北山修の精神分析理論

          ――― きたやまおさむ・よしもとばなな「幻滅と別れ話だけで終わらないライフストーリーの紡ぎ方」を読む(2013.3.3)


作詞家として出発した日本を代 表する精神分析学者・きたやまおさむによる講義と、
少女マンガ的現代感覚で国際的な人気を博す小説家・よしもとば ななとの対話による一冊。

ともに言葉を取り扱う才能にあふれる二人ではあるが、どうかす ると、この手の本は異種格闘技的なすれ違いに終わりがちだ。
しかし、「よしもとばなな」の方が10代のころからの「きたや まおさむ」の大ファンで、
自切俳人としての活動も知っているとなると心配は杞憂であっ た。

第一章の「母と子の二重性を読む」では、浮世絵を題材にして同 じものを共に見つめるという日本独特の母子関係を取り上げ、
「あの時同じ花を見て 美しいと言った二人の 心と心が今はも う通わない」という全能感をともなう幻想と、
現実と向き合うことによる幻滅の大切さを解く。

第二章では「ストーリーの表と裏を織り込んで」と題し、
イザナギ・イザナミの神話や「鶴の恩返し」の昔話に見られる 「見るなの禁止」と禁を破ることによる別れから生まれる罪悪感をとりあげる。
精神科医としての「きたやまおさむ」は、禁を破る「与ひょう」 の問題以外に、
「つう」の役割を積極的に引き受けてしまう「自虐的世話役」の 存在を指摘する。

このような「きたやまおさむ」の講義のあとに、「よしもとばな な」との対話が置かれる。
「よしもとばなな」は「きたやまおさむ」の謎を解き明かそうと 興味シンシンで、自分の体験を交えながら真剣に講義を混ぜっ返す。

第三章の「人生は多面的」では、3・11に傷ついた心の取り扱 い方を取り上げる。
人間の心に「表舞台と楽屋裏」があることをよく理解したうえ で、楽屋裏の心に対して、支えていかなければならないと解く。

そして、対話では、本名の自分とペンネームの自分という話題に 及ぶ。
芸能人として活動する際に使用される「きたやまおさむ」の名 は、精神科医としての北山修と区別するために意図的に作られたものだ。
「よしもとばなな」は吉本という姓は残しているけれど、名は 「ばなな」だ。
二人にとって人間の心にある「表舞台と楽屋裏」という比喩は、
自分をさらけ出す(かのように世間が思っている)表舞台の職業 と楽屋裏の本名の自分との関係にも通じている。

「きたやまおさむ」の講義内容は、語り口こそ異なっているもの の、
「悲劇の発生論」や「幻滅論」など北山修の著書で語られている ものと変わらない。
しかし、「北山修」についても「きたやまおさむ」についても理 解がある上に
人間洞察にも優れた「よしもとばなな」という対談者を得ること で、
本書はより一般人の生活に引きつけて、北山修の研究を紹介する ことに成功している。

それゆえ「よしもとばなな」がひと夏の数日間安らいだひと時を 過ごしたように、
読者にもまた安らいだひと時を与えてくれる一冊になっているの だ。



   * 「よしもとばなな」は、2002年に「吉本ばなな」から「よしもとばなな」に改名していたが、2015年に「吉本ばなな」に再改名している。

    朝日出版社サイト内「幻滅と別れ話だけでお笑いライフストーリーの紡ぎ方」ページ
   吉本ばなな公式サイト

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