持駒使用の謎を世界将棋史から導く

                             ――― 木村義徳「持駒使用の謎」を読む(2011.11.12)

一時期、毎月「将棋世界」を読んでいたことがある。
見る将棋ファンとして、新聞の将棋欄を見ているだけで飽き足らず、 もっといろんな情報がほしくて、図書館などで読んでいたのだ。
そのころ、気になる連載があった。すでに引退していた木村義徳八段が将棋のルーツを探るもので、
特に、日本将棋独特のルールである「持駒使用」について研究しているものだった。

当時の表題も「持駒使用の謎」だったはずで、まえがきには、「1997年6月号から17回連載した」とある。
ただ、雑誌連載だと、「前述のとおり」という説明があっても、前の記述を覚えているはずもなく、
といって先月号を確かめるわけにもいかず、その場その場でそんなものかと思いつつも、全体像が見えなかった。
その後、加筆のうえ単行本化されたとは聞いていたが縁がなく、 刊行から10年を経て、ようやく手に入れることとなった。

さて、日本将棋だけが持駒を使用することとなったかを探ろうとすれば、
世界の将棋の中で、日本将棋がどのような位置にあるのか、いつ、どんな形で日本に将棋が伝搬し、どう変化したのかを探らねばならない。
著者は、古代インドに生まれた「チャトランガ」までさかのぼる。

まだダイスの目によって駒を動かした4人制のゲーム「チャトランガ」は、
まず2人制になり、ダイスがなくなって技量の差で勝負するゲームとなり、やがて駒の名前や動かし方が変化しつつ、世界中に伝搬していく。
著者は、その跡を丹念にたどりながら、その改変の歴史を明らかにしていく。

例えば、タイで最も古い時期に改変された「歩を3段目に並べる」というルールは、インドから西に伝搬したチェス系にはなく、
インドで最後に改変したとされる「ポーンのナナメ駒取り」は、西のチェス系とタイにはあるが、中国以東には伝わっていない。
ということは、世界各地の将棋の現行ルールを見るだけでも、どの時代の、どのルール改変を受容しているかによって、
いつ、どんな形で将棋が伝搬してきたものか知ることができる。

つまり、歩が三段目に並ぶ日本将棋は、少なくともタイでの最も古いルール改変をした後のものが伝搬しているが、
それは、インドの最後の改変である「ポーンのナナメ駒取り」というルール以前である、ということが分かる。

そして、西洋の「チェス」にも中国の「象棋」にも伝わっているにもかかわらず、
日本には伝わっていないインドにおける古い改変(1)が あることを指摘した上で、
日本には、タイ(の最も古い改変)を経由したものの、インドでの古い改変を経ないまま日本に伝わっているのであり、
インドでの古い改変を経てから伝搬した中国の象棋とは、相当早い時期から分かれて発展したのだとしている。

こうした世界将棋史を踏まえながら、立像の駒が手書きの木片駒に変化したことによって道具の側から持駒使用の準備がなされ、
また、飛・角がなかった平安将棋では引分けが多くゲームとして行き詰まってしまったことから、
ルール上の問題を解決するために、持駒使用が発明されたのではないかというのが、著者の主張である。

そして、興福寺から出土した1058年作と推定される駒において、同じ「金」と書かれている銀・桂・歩の裏側の字体が異なることから、
取った駒を再使用するためには駒の区別が必要だったのだとする。

この分野では、遊戯史の研究者と論争を繰り返しているらしく、本書でも相手の主張を個別に検討しながら丁寧に反証している。
中には数ページにもわたるものもあり、 「不利になる変化」を解説している定跡書のようで、いかにも棋士が書いた研究書らしいと感じられた。
また、平安将棋が手詰まりになりがちなことを実際に対局することで検証しているのも、棋士ならでは、と言えそうだ。

もっとも、まだ論争の余地があるらしい「持駒使用」の理由や、その時期、また、世界的な将棋伝搬史を、
この一冊を読むだけでうのみにするわけにはいかないだろうが、素人なりに読んでみて、いかにも胃の腑に落ちるという感はあった。

今さらながら労作である。

 


   (1) 両端の駒(日本の香)が「縦に前進するだけの動き」から、「縦横に自在に動く」ルークや車になり、その内側の駒(日本の桂)が「二方桂」
   の動きから「八方桂」のナイトや馬になるなどの改変があったとされる。

 
       Wikipedia木村義徳ページ  

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