対局よりも心情を描く若手棋士の青春物語<

                       ――――羽海野チカ「3月のライオン」1巻を読む(2008.7.11)


ハチクロの羽海野チカが次に題材にしたのは、将棋の世界だった。
夢に向かって努力する優秀な若者の物語という点では、ハチクロと共通する。
むしろ、主人公に焦点がしぼられている分だけ、話に作り込みができるようになっている。
そういえば、ハチクロの9巻の表紙は、何の脈絡もなく真山と野宮が将棋を指していた。
もともと、羽海野チカは、将棋の世界が好きなのだろう。

10代のプロ棋士の物語という点では、「しおんの王」とも重なるが、将棋関係者が自分で原作を書いた「しおんの王」と比べると、
将棋好きの漫画家がプロ棋士の監修を受けた「3月のライオン」のほうが、
将棋の世界に対して、ファンの目線とでもいうような正しい距離のとり方をしているようだ。

しかし、それはファンが適当に描いた物語という意味ではない。
監修の先崎八段は、対局の場面だけではなく、
プロ棋士とは何かから始まり日常生活や心構えといったあたりまで、しっかりと羽海野チカに伝えているようだ。
「対局が月に数回なのでラク」という誤解に対しても、
スポーツ選手が試合のない日にはトレーニングをしているように、棋譜並べや研究会などのトレーニングをしている、
という答えも的確だ。

主人公のライバルに村山聖(に良く似た棋士)を選んだのも、新世代の感覚だ。
村山が本当のところどんなパーソナリティであったのかは知らないのだが、
常に病と背中合わせに将棋を指し、抜群の終盤力で勝ってきた村山だから、
ひょっとすると、晴信のような性格だったのかもしれないな、と思わせるところもある。

もう一人、師匠の実の娘・香子も気になる。
監修者の先崎は、米長永世棋聖の元で内弟子をしていた経験がある。
姉弟子でやはり内弟子だったのが、しおんの王の原作者でもある林葉直子だ。
「これ以上は無理だ。初段までいけば、これ以上がゴロゴロいる」と言われ、
香子が上級まで来ていたらしい奨励会を強制的にやめさせられるあたりは、
(実際に林葉が奨励会を辞めさせられた理由が何なのかはともかく)
林葉と重なって見える。

また、本当の父とは別の将棋の師である養父かいるという設定も、「しおんの王」と良く似ている。
そもそも、先崎も林葉も内弟子経験がある棋士(と元女流棋士)という点で、良く似ている経歴を持っていたのだ。
実父とは別に、師匠という将棋の父がいるという独得の感覚が、
内弟子経験があるという同じ経験を持つ二人が関わっている別々のマンガに登場したというのも面白い。

冒頭、「将棋の父」と対局した主人公が勝利をおさめたとき、
父親を撲殺したテレビのニュースと自分を重ね合わせてしまう。 (この感覚も、先崎が伝えたのだろうか。)
いずれにせよ、この作品は、よくある少年漫画のような、主人公がどんどん強大な敵を倒すというような物語ではない。
プロ棋士でありながら高校生という青春の物語を描きつつ、いきなり「父親殺し」とその解決をテーマに据えているのだ。

ところで、主人公「零」は交通事故で家族すべてを失ってしまうのだが、
このあたりは、ハチクロの理花に通じるようでもある。
家族を失うということに、羽海野チカの原体験というようなものがあるのだろうか。



    ファン目線で描かれる棋士たちの悩みと苦しみ

                       ――――羽海野チカ「3月のライオン」2巻を読む(2008.12.6)

「3月のライオン」2巻が売れているらしい。作者は「ハチミツとクローバー」の羽海野チカだ。
掲載誌のヤングアニマルはエロスとバイオレンスに寄り気味の青年誌で、
ハチクロファンの女性が買おうとして思わず固まってしまったという話をよく聞く。

だから、雑誌で読まれていることで単行本が売れているのではなく、
ハチクロから流れてきたり、本格将棋漫画と聞きつけたり、あかりさんの胸がうっかり目にとまったりして(ヲイ)、
たまたま1巻を読んで「はまった」人たちが、一気に書店に走ったということなのだろう。

2巻を読んでわかったことは、羽海野チカは相当に将棋が好きだということだ。
それは、別に羽海野チカがふだんから将棋を指すとか、アマ強豪であるということではない。(本当に強いのかもしれないが。)
熱烈な野球ファンが草野球程度の経験しかなくても、投球、打球の評価から作戦・采配に至るまでを熱く語るように、
それほど将棋が指せない将棋ファンであっても、指し手を熱く語り、ひいきの棋士を応援しながら、
プロの対局を鑑賞することは可能なのである。

たとえば、この巻で穴熊(という作戦)に入った玉が、なぜかすぐ出てくるというシーンがある。
実際に棋譜を作るのは監修の先崎八段なのだが(その困惑ぶりはコラムに詳しい。)、
「穴熊に入った玉がすぐ出る」という羽海野チカの注文は、
理にかなってはいないが、何とか辻褄合わせができなくもない、という絶妙なところをついている。
少なくとも、穴熊がどんなもので、どういう意味を持っていて、
そこから出てくることがどれくらい理屈に合わないかをわかっていなければ、こんな注文は出来ない。

また、唐突に挟みこまれている「将棋教えて」の回は、どんなに巧みに物語の中に組み込まれているとはいえ、
将棋を知らない読者が将棋を理解するために、最低限のルールを教えるという目的にしか見えない。
たとえ将棋を知らない「ハチクロ」流れの読者が多いとしても、普通は物語の流れを優先するとしたものだ。
むしろ、この機会に将棋にを好きになってほしいという羽海野チカの強い思いが、
強引に、こういう解説だけの回を作っているのだ。 (しかも、猫の形をした駒が活躍する作中の絵本の出来が素晴らしい。)

そんな将棋好きの羽海野チカが描くからこそ、登場する棋士にリアリティがあり、
あこがれ目線で描かれているためか、人間としても魅力的に描かれている。

たとえば、「泳いで 泳いで 泳ぎぬいた果てに やっとたどり着いた島」 という表現がある。
それは、厳しい修行時代を経て、やっとプロになれた時の感覚を、
将棋を知らない者に向けても実感させてくれるできる巧みな比喩だ。
こういう感覚は、棋士のエッセイなどで、それとなく触れられていることがある。
そして、おそらくは、その「やっとたどり着いた島」をもう一度出発し、
新しい島に向けて泳ぎ始めたものだけが、さらに強くなっていくのだ。

羽海野チカが描こうとするのは、
そんな戦いの場所に身を置いた伸び盛りの若手棋士たちが、
相手以上に自分と戦いながら悩み、苦しみ、時には倦むという姿であり、
そんな若い時代がとうに過ぎた大人たちもまた、
変わらず悩み、苦しみ、倦んでいるという、そんな将棋界の姿だ。

将棋を好きな人たちからすれば、将棋界とは自分たちよりもずっと才能のある選ばれた人たちが、
自分たちに代わってより将棋を強くなるための努力を続け、その成果を対局という形で見せてくれるところだ。
そんなファンの目線から見た将棋界というものをマンガで表現したのが、「3月のライオン」という作品なのだ。
それだけに愛情のかかり方がずいぶん違う。そして、その愛情の深さが人気の源泉でもあるのだろう。

それにしても、香子の毒というか、すさみっぷりが辛い。
彼女もまた、プロを目指す他の若者たちと同じように、「泳いで 泳いで 泳いで」泳ぎ着かなかった一人であるだけに。



  <第3巻の感想は書いていませんでした。


   トッププロの悪魔のような強さと美しさ

                       ――――羽海野チカ「3月のライオン」4巻を読む(2010.4.25)

人気の将棋マンガの新刊である。
マンガとしては異例のテレビCMが制作されたことでも、力の入り方がわかる。
この物語の素晴らしいところは、月並みな主人公の成長物語ではなく、
綿密な取材にもとづき、ファンの目から見てリアリティのある棋士像を示してくれたことである。
 
史上5人目の中学生棋士・零は、その才能が認められつつも、
普通の10代の少年のように漠然と将来に不安を抱き、プロ棋士としての自分のあるべき姿を見いだせないでいる。
日々の生活に疲れ果て盛りを過ぎた中年棋士にいらだつ一方で、
若手棋士仲間とのライバル意識を内に秘めた楽しい日常の物語もある。

と、こうなるとただの青春ドラマに見えてしまう。
実はまだ、プロ棋士の世界を表現するには描かれていなかったものがある。
それは、努力と才能の人ばかりであるプロ棋士の中にあって、さらに選ばれた存在であるトッププロの戦いである。

そして、この巻ではついに宗谷冬司名人・竜王(じゃなかった獅子王)が登場する。
15歳でプロ、21歳で名人、7冠制覇、そして十数年トップ棋士として君臨と、
谷川九段と羽生三冠を良いところどりしたような脅威的な経歴である。
(谷川ファンとしては、谷川九段がそうであらねばならなかった経歴というべきか。)

 その姿は変わる事なく 褪せず、倦まず、汚れず、
 圧倒的な力で そこに静かに そこに在り続ける
 神にたとえられるその一方で 誰かが言った
 「きっと 悪魔っていうのはああいう顔をしているんだろうな」

ひょっとすると、羽生三冠が似たような形容をされたこともあると思うが、
 フィクションであるがゆえにさらに理想化された美しい表現である。
そして、今の零では及ばぬ高みに存在するA級八段・島田挑戦者を、
宗谷は、ただの凡人であるかのようにもてあそび、圧倒してしまう。
しかも、美しい。強さとは、美しいものでさえあるのだ。

最後に零が才能を見せる。
対戦相手の島田はもとより控室の誰もが見えなかった「美しい一手」を、 宗谷と零だけが発見したのだ。
この出来事は、零にとって大きな転機となるだろう。

しかし、それは、
 「嵐の向こう」にあるもの それは たださらに激しいだけの嵐
という道を進んでいくということでもある。




  人を描くことが将棋の魅力を描くことであるという確信

                       ―――― 羽海野チカ「3月のライオン」5巻を読む(2010.11.28)


たとえば、「将棋のまち天童から名人を」という横断幕を横目に、郷里の期待に応えねばならないという重圧に苦しむ島田、
たとえば、負けた時の苦しみを語った時、同級生から「お前、将棋やってて楽しい?」と問いかえされ、答えが見つからない桐山、
たとえば、対局中、大量に消費する糖分を補給するために、3個のケーキをむさぼり食う隈倉と
大量のブドウ糖を入れた紅茶を飲む宗谷、
たとえば、「気楽でいいなぁ、タイトルに縁のないヤツは」と語る後藤、
「みんなそう、ま、みんなって(タイトル戦を)「経験したヤツは」って事だけどね」と語る柳原、
二人は言葉づかいこそ違うが、ともにタイトル戦で戦うことの重さを語る。

つまるところ、人を描くことが棋士という存在を描くことであり、プロ棋界を描くことであり、
将棋というもののの魅力を描くのであると、 羽海乃チカは確信しているのだろう。

将棋が強い人には盤面が出てこないことが不満かもしれないが、
棋士に敬意を持つ一般の将棋ファンにとっては、こっそり楽屋裏にカメラが入ったようで嬉しい。
二海堂はリアルな棋士の姿というよりも読者向けの解説者めいた役回りだが、
桐山本人も気づかなかった「心の中」を言葉にしてくれる人間がいてくれることは読者にとってはありがたい。

そして、もうひとつ、桐山の心の問題も残っている。
こちらもひなちゃんの事件を通して、少しずつ解きほぐされていくのだろうか。




   必要とされる人となるために自分ができること

                       ――――羽海野チカ「3月のライオン」6巻を読む(2011.7.24)

なるほど、そう来たか。
ひなのいじめ問題は、零に「勝ちたい」と思わせるスイッチを押した。

才能は抜群、さほどの努力しなくても、そこそこの実績は残せる。
だから、これ以上の努力をしてまで勝ちたいという気持ちに今一つなりきれない。
そんな、もやもやした状態に甘んじていた零は、ひなの問題をきっかけにして、心の底から勝ちたいと思う。
「対局料や賞金でひなを救うために」、いや、それは違う。
先輩棋士たちが教える「指導対局の極意」のように、相手の気持ちに寄り添い、相手のことをよく見ることを通じて、
必要とされる人になるために今の自分にできることが将棋に勝つこと以外にないということを悟ったからだ。

「心友」二海堂の入院も、つらいことだが零の背中を押した。
伝説の村山−丸山戦を思い起こさせる二海堂の棋譜を、零は「まるで一篇の冒険小説のようだ」という。
まさに「死力を尽くして」戦うことで自分の居場所を勝ち取るという世界に、零もまた身を置いていることを痛感したのだ。

ひなちゃんは、もう大丈夫だろう。
時間はかかるが、こんなに周囲がしっかりと支えてくれるなら、なんとかなる。
零だって「ぼくもいますっっっ」と宣言している。
そして、それは、零にとっても、もう一つの大切な「居場所」であるのだ。

 


   「信じれば夢は叶う」ための才能と努力

                       ―――― 羽海野チカ「3月のライオン」7巻を読む(2012.4.7)

「3月のライオン」が将棋マンガというには対局シーンが少ないという人がいる。
しかし、勝負の世界に生きる棋士たちの生の姿(と思わせるもの)を描いている点で、
まさにプロ棋士を描いた将棋マンガなのだと思う。

今回の冒頭、新人戦決勝で敗れた山崎順慶五段の、こんな述懐が置かれている。
 「信じれば夢は叶う」 それは多分 本当だ 但し 一文が抜けている
  「信じて 努力を続ければ 夢は叶う」  これが正解だ 
 さらに言えば、信じて「他のどのライバルよりも一時間長く 
 毎日努力を続ければ、ある程度迄の夢はかなりの確率で」叶う――だ

勝負の世界では、決勝で勝利した一人を除いて、常に全員が敗者である。
たった一人を除いては、信じていても夢は叶わない。
順慶が思わず、
 この文章をここまで削ったヤツに、何を思ってここまで削ったのかと問い質したい
と言いたくなるのもわかる。

ところで、「願えば夢はかなうもの」という本を、本当に書いた人間がいる。
女流棋士として、また、ライトノベル作家として、本当に「夢がかなっていた」ころの女流棋士・林葉直子である。
つまり、この挿話は、林葉直子のこの著書を下敷きにして描かれている。

しかし、この、ある種、傲慢とも言える「信じれば夢は叶う」という言葉を、
鴻上尚史の「才能とは、夢を見続ける力のことである」という言葉とセットにすると、
夢を願い続けるということ自体が、相当に力のいる困難なことであることが分かる。

もう少し、順慶の言葉を引用させてほしい。
 深く読む事は 真っ暗な水底に潜って行くのに似てる
 「答え」は真っ暗な水底にしかなく 進めば進むほど 次の「答え」は更に深い所でしか見つからなくなる
 昔は潜れば潜る程「答え」が手に入って 恐怖より「欲しさ」が勝っていた
 だが、プロになって6年もたつと まったく先に進めなくなってしまった今では
 全身がちぎれるような思いをして潜っても 手ぶらで戻る事が殆どになった
 「見つかるかも」より 「またどうせ見つからないかもしれない」が勝った時から リミッターの効いた努力しかできなくなった
 でも そんな俺を尻目に 桐山と二海堂は 当然のように飛び込んで行く  何度でも
これが「才能」であり、「夢を見続ける力」であり、「願えば夢はかなう」ということなのだろう。

このマンガには、どの巻にも、桐山と、その周辺の棋士たちの才能や、努力や、不安や、ためらいを表現する
素敵な言葉にあふれている。
そして、それらを通して、桐山たちが着実に成長していく姿を描いていく。

ひなちゃんの問題にも、思いのほかしっかりと決着をつけてくれた。

そして、このこともまた、桐山の心が成長していくための、一つの大切な物語なのである。



   リアルに描かれた老人の肉体と人生のありよう

                          ―――― 羽海野 チカ 「3月のライオン」8巻を読む(2013.1.2)

もともと、子供向けのメディアであるせいか、マンガで魅力的な老人が登場することは珍しい。
むしろ、明らかに老人を描くことが下手なマンガ家も少なくない。

そんな中、羽海野チカは、実に魅力的な中年男性や老人を描いてくれる。
それは、肉体にきちんと皺を描いているだけではない。
大人の心の部分も含めて、しっかりと描くことができているということだ。

今回のヒーローは、柳原棋匠66歳である。A級に在籍して、タイトルも通算14期。
それどころか、今も棋匠位のタイトルを保持し、通算10期の永世棋匠に手が届くところにいる。
そして、その通算10期目の棋匠戦を、念願の初タイトルを目指す島田八段と争う。
2勝2敗で迎えた第5戦、勝負の行方やいかに。

8巻の表紙を見たとき、そこに描かれているのが誰だかわからなかった。
この人、誰だっけ、いつどんな形で零の物語とかかわったんだっけ、
それが柳原棋匠と思い出したのは、物語を読み進めていった後のことだ。

しかし、表紙のやや左側から振り返るように立つ老人と、
その周囲を飛んでいるような白い長い布のようなもの、
そして、そこにまとわりついている白い何物かが後ろに流れ去る瞬間、
老人があっけにとられるような、あるいは何かを発見したような、
それでいて少し解放されたような、しかも、そのことに戸惑っているような、
そんないろいろな表情を見せていること発見すると、
この老人が置かれている状況がただ事ではないことが見て取れた。

それが何を表わすのかは、ちゃんと購入して読んでほしい。
8巻目ではあるが、この1冊だけを取り出しても訴えるものがある。

そして、この物語を読むに値すると思ったならば、もう一度、1巻から購入して読んでほしい。
間違いなく、そうするだけの価値のある物語なのであるのだから。
そして、このこともまた、桐山の心が成長していくための、一つの大切な物語なのである。




   実は、零が家族を回復する物語なのかもしれない

                         ―――― 羽海野チカ「3月のライオン」9巻を読む(2014.1.18)

巻によれば、「家族の第9巻」である。

主人公の零には3つの家族らしきものがある。もしくは、あった。
実家の桐山家は、交通事故で両親と妹を一度に失ってしまった。

内弟子として零をプロ棋士に導いてくれた幸田家は、
ともにプロを目指していた幸田八段の二人の実子を、零が軽々と追い抜いてしまったことから気まずくなり、
中学3年でプロとなったことをきっかけに、零は自ら家を出た。

そして、思わぬきっかけから、出入りするようになった川本家で、
零は下町の家族が持つ暖かさに触れ、心の傷が少しずつ癒されていく。
将棋という勝負の世界に身を置くことことで、かえって勝ちたいという気持ちになれなかった零が、
川本家の三姉妹にかかわることによって、初めて勝たねばという気持ちになっていく。

零が川本家の次女・ひなを大切に思うからこそ、
ひなの高校受験の家庭教師役として川本家に入り浸るからこそ、
そのことで、プロ棋士としての対局がおろそかになったのではないかと
川本家の人々に気遣わせたりさせたくないからこそ、
零は大切な対局に勝ち続け、8連勝でB級2組への昇級を決めたのだった。

この人にだけには心配をかけさせたくない大切な誰か、
それは、きっと家族というものに近いのだろう。
長女のあかりは、零の気持ちを、ひなだけではなく、
あかり自身のことも、末妹のモモのことも大好きなのだ、と言う。

そんな零と川本家の「家族」のような関係を聞いた伯母は、
 一足飛びに そこに行っちゃうとね
 「恋」なんてもろいものに戻すのは 至難の技だねぇ…
とタメ息をつく。

などという展開をふまえると、「3月のライオン」という物語は、
天才棋士の成長物語でも、少年プロ棋士の甘酸っぱい恋物語でもなく、
家族を失った零が家族を回復するという物語なのではないか、
と考えさせられた「家族の9巻」なのだった。



   局面打開の勝負手は、「指しすぎ」か否か

                      ――――羽海 野チカ「3月のライオン」10巻を読む(2014.12.6)

羽海野チカの入院・療養でしばらく休載されていた「3月のライオン」だが、
2013年末から再開し、10巻目にまとめられた。

ひなちゃんもが入学し、穏やかにすぎていく高校生活や、
内弟子修業をしていた師匠宅への心の整理も兼ねた訪問、
川本家とのやさしく静かな暖かい交流など、
「休場明け」にふさわしい緩やかな立ち上がりだったが、
川本家に、とある男が登場したことから、物語は一転激しくなる。

男は、さわやかな笑顔を見せているが、油断のならない顔つきだ。
なにより、ひなちゃんがおびえて、モモちゃんを抱きしめたまま固まっている。
不審がる零に、男は相手を小馬鹿にしたような物言いで、高圧的に出て行けという。

調べると、男は女癖が悪く、仕事も長続きしない。
責められると、その場限りの言葉だけで逃げ出し、
次々と女を渡り歩いてきたらしい。
なんとも、泥沼な人生だ。

まともに相手をしても勝ち目はない。
なにせ、男は誠実に話し合おうという気持ちはさらさらないし、
そもそも、自分の欲求を通すことにしか関心がない。
挑発したり、イヤ味を言ったり、わざと激昂しているフリをしながら、
相手が疲れ果てて、あきらめてしまうのだけを待っている。

しかし、零くんよ。
いかに局面が泥沼化したとはいえ、
さすがに、その一手は少し「指しすぎ」ではないか。

あるいは、羽海野さん、少し急ぎすぎちゃいませんか。




   勝負に辛いプロ棋士の戦い方

                    ――――羽海野チカ「3月のライオン」11巻を読む(2015.10.17)

プロ棋士の将棋よりも、女流棋士の将棋の方が見ていて楽しい、という話がある。
女流棋士の将棋は言い分を通しあう乱戦が多く、指し手の意味もわかりやすいのに対し、
プロ棋士の将棋は相手の手を先回りして封じたり、細かい損得を積み重ねるなど、
勝負に徹底してこだわりすぎるせいで、かえって素人には分かりづらいというわけだ。

で、前巻からの課題の三姉妹の父・妻子捨男(仮名)である。どんな人物か。
 あなたは短期的展望しかありません。その場しのぎの嘘を重ねて取り繕う。
 詰んでからが長くて汚い。
まさに泥沼だ。
 聞いたことも頭の表面で止めて ただ僕の気持ちをザラッとさせる事だけ考えてますよね?
 相手がカッとなって自滅したり 呆れ果てて戦意喪失したりするのを待ってる

そもそも、一度は自分たちを育ててくれた実の父親を拒絶し続けることは
三姉妹にとっても負い目になるし、精神的につらい。
しかも、捨男(仮名)は、そんな三姉妹の心情さえ平気で利用する。
三姉妹だけなら、疲れ果てた末に理不尽とわかっていても妥協してしまうか、
下手をすると、うっかり暴発した自分たちの方が悪者にされてしまいかねない。

しかし、プロ棋士の零は、ここで言い放つ。
 僕、仕事柄、こーゆーの慣れてるんで、どこまでも投げませんから

勝利に徹底してこだわる。勝つためにやることなら、何をしても責められることがない。
むしろ、そんな相手にも平然と対処することが、プロ棋士に求められていることなのだ、と。
(あの若くして引退してしまった女流棋士は、そうした点でプロ棋士の域ではなかったのか。)

零が、ここまで本気になれたのも、捨男(仮名)が自分のことをカッコウになぞらえたからだ。
内弟子生活を続けつつ、幸田八段の実子よりも将棋の才能を示した零は、
自らのくびきであるかのように、自分自身を托卵されたカッコウのヒナになぞらえていた。
そんな零の思い込みが取るに足らない小さな問題であることを、
捨男(仮名)は、自らの卑劣な態度で示してくれた。

アニメ化、映画化が決定したという。
プロ棋士としての零の物語は、まだまだ始まったばかりだが、
これからもどんどん強くなっていくだろうし、活躍も約束されていると言っていい。
しかし、零の心の成長をめぐる物語は、三姉妹との関係も含めてずいぶん整理されてきた。
そろそろ、終局が近いのかもしれない。



   やさしい日々の復活と新しい物語の起動

                      ――――羽 海野チカ「3月のライオン」12巻を読む(2016.10.23)

あの重苦しい妻子捨男編が終了し、冒頭の2話は、いかにも箸休め的だ。
あかりさんの結婚相手にふさわしい男性を、零が知りうる限りの独身男性から値踏みしたり、
長く二海堂家で暮らし、晴信の将棋研究を邪魔せぬよう必死な老犬の一日を描いたりする。

一転、舞台は鹿児島へ。
藤本棋竜に挑戦するのは、若き土橋九段。
またも、年齢を重ねた中年棋士が若者に追い詰められた話かと思いきや、どうも話が違う。

零があかりさんが話しているのを見て、藤本棋竜が嫉妬しているあたりから変だ。
さらに、棋竜を追いかけて3人のキャバ嬢が現れ、家を出たはずの妻と娘2人まで姿を見せる。
これは、いつもの棋士ネタとは違う。

棋竜戦の対局よりも、一人の男としての藤本雷堂をめぐるいろいろや、
その後の零と川本三姉妹との指宿観光も含めて、
この「薩摩編」もまた、捨男事件のキズを癒すために必要な手続きだったのだろう。

続く対局は、滑川七段の強い個性に見過ごしがちだが、
珍しい相筋違い角から、千日手も辞さずの手待ちを経て、
スキを見せたかと思うと逆転の勝負手の連続という棋譜が素晴らしい。
下敷きの対局があるのかもしれないが、先崎九段の監修力が光るところだ。

そして、運命の夏祭りの夜。
白玉シロップの入った寸胴をかかえたあかりさんが倒れそうになった瞬間、
左腕をとったのが島田八段、右から腹の辺りを腕で支えたのが林田先生。
すんでのところで無事だったシロップが「たぱん・・・」と音を立てるが、
「たぱん・・・」と揺れたのはシロップだけではなさそうだ。

密かに、新しい大きな物語が動き出していたらしい。




   第一人者と本気の対局ができるという至福

                      ――――羽 海野チカ「3月のライオン」13巻を読む(2017.10.28)

まずは、「あかりさんのおっぱいも、たぱん」事件の後日談。
意を決して開戦した林田先生だが、勇んで歩を突き捨てたものの後続手段がなく、
気が付くと、逆に盛り上がった島田九段に完全に押さえこまれているという形勢。

ただし、かんじんのあかりさんはというと、羽海野流で恋愛に臆病なまま。
こんなところで、妻子捨男が登場するとは思わなかった。根が深い。

代わって、この巻の中核は、
朝日オープン戦を意識させる「東洋オープントーナメント」をめぐる二海堂の宗谷名人に対する思いをめぐる物語だ。
(途中までは、「東陽オープン」の記載だったが、そのうち修正されるだろう。)

棋界の絶対的な強者であり、神々しくさえある宗谷名人と対局することは、
二海堂のような若手棋士にとっては名誉なことであり、この上ない歓びでもあった。
まして、宗谷名人が第一人者の矜持として二海堂の得意戦法に誘導し、
「君の一番強いトコ見せてくれないか?」と(指し手で)問いかけられたとなれば、
ニ海堂も、対局を見守る他の棋士たちの興奮は最高潮となる。
(こういう、「横綱相撲」は、リアルなプロの対局でも見られることがある。)

追い詰められた「本気」の宗谷名人と対局することに二海堂は無上の歓びを感じ、
宗谷名人が「本気」の顔を見せていることに、他の棋士たちも嫉妬する。
なんという至福の瞬間。

その後のことは、深刻なようで、実は些末なことであるのかもしれない。
というのも、宗谷名人から届けられた幻の棋譜を、
二海堂本人も、まわりの棋士たちも、 まるでラブレターでも送られたかのように感じていたからだ。

ところで、いつもなら将棋監修の先崎九段によるエッセイが添えられるのだが、 この巻にはない。
実は、先崎九段は8月から年度末までの休場が発表されており、
詳細は分からないものの、体調不良との情報も漏れ伝わっている。
まずは静養され、次の巻ではあの軽妙な文章を 私たちに届けていただきたいと願うばかりだ。


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