「大人のたしなみ」として毒をやりすごす

                          ------こうの史代「長い道」「さんさん録」を読む

   1.「長い道」を読む(2006.5.28)

実は、ずいぶん前に読んでいたのだが、どう言葉にすればよいのかわからなくて放置していたものである。

無職でブラブラしている男のもとに、突然「嫁」がやってくる。
父親同士が飲み屋で意気投合して、勝手に結婚を決めてしまったのだ。

「嫁」の方は何のためらいもなく初対面の男のもとにやってきて、当たり前のように結婚生活をはじめようとする。
男はというと、家事一切をしない上に仕事も長続きしない。
しかも、ちょっとでも金が入ると女性を口説くという生活を改めない。
家計のために「嫁」はアルバイトをしている。

と書くと「自虐の詩」に近いものを感じる。
ところが、唯一、決定的に違うのが、「嫁」にまったく悲惨さがないこと。
より正確には悲惨であるという自覚が ないところである。

しかも、二人の間には性的関係がない。
厳密には1回だけあるが、双方泥酔した上でのことなので男の中では「なかった」ことになっている。
それは、親と「嫁」が勝手に決めて勝手に始めた結婚に対する男のささやかな抵抗とも、
せめてもの良心とも伺われる。(男の好みは、地味な「嫁」とは正反対のハデめの女性だ。)
むしろ、「結婚生活」の良いとこどりをしているというべきかもしれない。

そんな奇妙な「結婚生活」がどう展開するのかというと、
なんと、一切の変化がないまま連載は終わってしまうのである。
終盤にあるキスシーンが男からのメッセージなのかもしれないが、
不条理な「結婚生活」は本質的なところではなんら解決していないのだ。

あとがきによれば、この作品はこうの史代の初めての非四コマ誌の仕事であるらしい。
最後に夫らしい人にあてて、この男の良いところは「すべて貴方に似ています」と述べている
男に「良いところ」なんてあったかというのが正直な感想だったので、
結局、居心地の悪さが増幅したまま、本を置くこととなった。

それが、いくぶん解決したのは、次の「さんさん録」を読んだことによる。


   2.「さんさん録」第1巻を読む(2006.5.29)

仕事一筋で家庭を顧みることのなかった夫が、妻に先立たれのを機会に息子の家族と同居するのだが、
偶然に発見した妻が書き残した家事一切の記録をもとに一念発起し、主夫を始めるという物語である。

もちろん、最初から家事を上手く出来るわけではないのだが、
「ボケてるのか」と言っていた息子は父に人格を認め、息子の妻は結婚前にやっていた仕事を再開することになった。
虫好きの孫娘が「じいさん」と呼ぶのは少し気に入らないがそれでもなついてくれるのは嬉しい。
(ちなみに、この家では母方の祖父のことを「おじいちゃま」と呼ぶ。)

家事にはずぶの素人だった仕事人間が主夫に目覚め、それなりに家事をこなすところには好感が持てるし、
その家事を支える亡妻の良く出来た記録に感謝するあたりは実に良い話だ。
しかし、亡くなった妻の視点にまで立ち戻ると手放しでは喜べない。

実際のところ、残された詳細な家事の記録は、
残された夫でなくとも家事をする上で十分すぎるほど参考となるようなものだ。
そんなものを残さねばならないと感じた亡妻からすれば、夫というものはおおむね自分勝手なものであり、
妻に対してそれなりに気を遣っているにしても気持ちを形に表わすことなどできず、
むしろ家庭の中においては全くの無能な存在でしかない。

そして、妻というものは、夫というものが元来ダメであることを理解し、
そんな夫のダメぶりを許さねばならないものなのであり、
ダメな夫でも愛しぬくことこそが妻としての幸せなのである、と信じている。

信じていないかもしれないが、少なくともそう信じるべきだとは思っている。
そう思っているからこそ、自分が亡くなった後ですら夫が路頭に迷わぬよう、
家事一切を記録に残しているのである。
 
では、この「さんさん録」の亡妻と「長い道」の「嫁」にどれほどの違いがあるのだろうか。
おそらく二人の間で見えている男性像は、ほとんど同じだ。
 「さんさん録」の亡妻の深い愛情がもたらしてくれた心地良さにひたってしまうことと、
都合の良い「嫁」の存在に安住する「長い道」の夫の身勝手な生き方とは、そんなには違いがあるとは思えない。

そういえば、調子に乗りすぎた家族の態度にあきれた息子の妻が、
毒を持った言葉で皆をへこませてしまう場面もあった。
本気で恨み言を言えばとめどなくあふれるにちがいないのだ。
しかし、一生、そんなことをおくびにも出さず生きていくことこそが、「妻」の愛である。
結婚なんて、そんなもの。そんな結婚観を、こうの史代は提示している。

この亡妻の愛を恐ろしいと感じるか、心地よいと感じるかは、読む人の自由である。
少なくとも、残された夫は、(妻が亡くなった後では夫婦関係としては取り返しがつかないのではあるが、)
そこに安住することなく一歩踏み出したとはいえそうだ。

などと書くことは、こうの史代にすれば、何をつまらないことにこだわってるの、と言われるかもしれない。
しかし、その一方で、家事の大変さをわかってるんでしょうね、とさりげなく主張している。

掲載誌は男性劇画誌である「漫画アクション」だ。 やはり、こうの史代は恐ろしい。


   3.「さんさん録」第2巻を読む(2006.7.18)

第2巻にして、最終巻である。
前巻では入門編だった「さんさん」の家事は、もはや前提になっており、
それをどう展開するのかというのがこの巻のテーマである。

「まさか、そっちに展開するとは」と思わせつつ、結局行き着くところまでは行き着かず、
 ちょっとした波乱の後、意外なのか無難なのかわからないところに決着する。

どのみち、この作品は「王子様とお姫様が結婚して幸せに暮らしましたとさ」では済まされないような、
現実の手ざわりのある暮らしを取り扱っている。
結局、いかにもな「劇的さ」とは違うところにたどり着いたのは
むしろ、いかにも「こうの史代らしい」といえるかもしれない。

息子に家事の記録を引き継いだ「さんさん」は、なかなか見事に父の顔だ。
まして、あたりまえに家事をやる男は、それだけで妙に格好いい。

ところが、「ここに描いた家事は、いずれもごく初歩的なもので」と、
こうの史代は「あとがき」でもう一度ひっくり返してしまう。
つまり、上で書いた家事の豆知識が参考になると書いた感想は、
家事においてはダメダメな人のものだったということだ。

そして、「この作品を描いて<苦手なじじい>も<善良な大人>だったことに気づいた」と、こうの史代は書く。
さらっと読めば気がつかないが、「苦手なじじい」と「善良な大人」というのは、ずいぶん毒のある比較だ。
少なくとも、「苦手なじじい」のことを普通「苦手なじじい」とは言わない。

善良そうな語り口に惑わされているが、こうの史代というのはずいぶん毒を含んだ人であるようだ。
そんな毒の部分も含めて、あるいは毒に気づかぬふりをすることが、こうの史代の正しい楽しみ方なのかもしれない。

つまり、それは、世間でいうところの「大人のたしなみ」なのである。
そのことは、この作品で唯一毒のある言葉を吐き続けることを許されているのが、
子どもである孫娘であることからも証明されている。



 * 他のレヴューを読むと、テーマの問題とは別に、「トーンを一切使わない画面に味わいがある」「どの角度 からの見た画面も
   破綻がない」「物の質感をきちんと表現している」などの絵に対する評価も高い。

      YAHOO!ブッス・こうの史代インタビュー

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