「蛇の生き血」の上澄みのような清らかさ

                      ――――坂口安吾原作、近藤ようこ「夜長姫と 耳男」を読む(2008.4.20)


ネットマガシン「SOOK」に連載されたもので、坂口安吾の原作である。
原作どころか坂口安吾を知らないので、近藤ようこが坂口安吾とどう向き合ったかというより、
坂口安吾ってこういう作品を書く人なのか、というレベルの感想しか出てこない。

奇行とも見える苦行を続け、破壊に限りなく近い創造を続ける耳男、
絶望を背負って生きつづけるという強い意志、こういうものを無頼というのだろうか。

近藤ようこは、あとがきでこう書いている。
 (若い頃は)「女を咒(のろ)う系統のお話などは鬱陶しくてイヤだった。」
(今読むと)「鬱陶しいどころか、何かの上澄みのような清らかな話であった。その何かこそ蛇の生き血なのかもしれないけれど。」

さすがに「清らかな話」とまでは感じられなかったが、それは近藤ようこの表現がどうだったかというようなことではなく、
素直に初めてこの物語に接したものとして、毒気にあてられたからだろう。
「清らか」といっても、せいぜい「蛇の生き血の上澄み」だというのだから。



    わからないまま漫画化したというのに、なぜこんなに美しいのだろう

                      ――――坂口安吾原作、近藤ようこ「桜の森の 満開の下」を読む(2009.6.21)


坂口安吾原作のシリーズである。小説をほとんど読まないので、例によって有名すぎる原作は知らない。
やっぱり、こういう話だったんですかあ、というところだ。

作者は、「モノを考えることもしない」主人公がわからない。
「わからないことに正直なまま、安吾が書いているとおりに描いた」という。
それが功を奏したのか、怪しいまでに美しい満開の桜や、
その透明感の中に底の見えない恐ろしさを秘める女が、
男の薄っぺらさと比べると、ずいぶんとなまめかしい。

「わからないのに、なぜ「桜の森の満開の下」はこんなに面白いのだろう。 こんなにシンとして懐かしい気持ちになるのだろう。」と近藤ようこは書く。
むしろ、問いたい。 わからないのに、なぜこんなに美しく描いて見せることができるのだろう。
なぜ、残酷なのに、救われたような気持ちになるのだろう。



    近藤ようこの初期作品を思い起こさせる、絶望から出発する力強さ

                         ――――坂口安吾原作、近藤ようこ「戦争と一 人の女」を読む(2013.4.13)


最近、続けて発表されている坂口安吾の原作を近藤ようこが漫画化したシリーズである。

舞台は、空襲が続く東京。女は言う「夜の空襲はすばらしい。」
そして、防空壕で男の胸に顔をうずめながら女は続ける。
「私は夜の空襲が始まってから 戦争を憎まなくなっていた」

謎めいた、しかし魅惑的な言葉から「戦争と一人の女」という物語は始まる。
なぜ女は、そんなことを言うのか、 なぜ、そんなことを言う女になったのか。

女であるというだけで背負わされた不幸と、それでも生き続けねばならないという絶望と、
それゆえに捨てることのできない絶対的な不信感と、そして、そこから逆に生まれてくる刹那的な力強さと。

女は、敗戦後を空想する。
空襲で破壊されたガレキに、女はワンピースとハイヒールで立つ。
「私の可愛い男は戦争で死んだのさ」
そして、この言葉をつぶやくのが「しんみりと具合がとてもよさそう」と考える。
その姿は、気高ささえ感じさせるほどに美しい。

あとがきによれば、昭和21年に発表されたこの作品はGHQによる「事前検閲でずたずたにされ」、
「安吾の作品のなかでは評価も低く、あまり知られていない」らしい。

それにしても、この作品に登場する女は、近藤ようこの初期作品の主人公によく似ている。
それだけ、近藤ようこは坂口安吾と近しい心を持っているのだろうし、
坂口安吾の作品を近藤ようこが漫画化しようというのもわかる。

あとがきには、「これは戦争によって生かされている男女の話だ。
しかし戦争が終わっても彼らは生きていく。人間はつまりどんな時代でも生きていくのだ。」 とある。

空襲や機銃掃射で理不尽に殺されていく人々や、
破壊されガレキ以外は何も残っていない街の姿は、どこか震災や津波の被害にも通ずる。
そうした点で、この作品は、坂口安吾を手掛かりとした近藤ようこなりの震災への鎮魂の物語でもあるのかもしれない。
すこし的外れな印象かもしれないが。



    現代の奇書を品位ある漫画に仕上げるという奇跡

                         ――――津原泰水原作、近藤ようこ「五色の 舟」を読む(2015.2.11)


このところ、小説の漫画化が続いている近藤ようこである。
原作の津原泰水「五色の舟」は、現代の奇書といってもよさそうな問題作である。

時代は、戦中の日本。 身体に障害を持つ主人公たちは船で暮らし、「見世物小屋」の一座を組んで生活している。
病で両足を失うまでは花形の女形だったという座頭は「特別な子」を見つけると仲間に加え、愛おしみつつ育てている。

ある日、人と牛の間に生まれた「くだん」がいるという噂を聞き、一座は買い求めて仲間に加えようと探しに出る。
しかし、一足早く軍のトラックが「くだん」らしきものを連れ去ろうとしていた。
「くだん」が「未来を言い当てる」というとされたからだろうか。

設定の重苦しさと展開の奇怪さが何とも居心地が悪く、
急転直下でハッピーエンドらしきものに至っても、なかなか心穏やかにならない。

あとがきによれば、原作者の津原泰水も「没書とされるのも覚悟しつつ」書いた作品であり、
「さすがに漫画化、しかも近藤ようこの筆でという打診には、唖然となった」という。
漫画は、わかりやすく視覚に訴えるメディアであり、
あからさまな身体障害の描写は慎重に取り扱わねばならないところがあるのも確かだ。

しかし、原作者の津原泰水が強調する「見世物一座の惨めさではなく、勇気凛凛たる特別な五人を描いているのだという矜持」や、
近藤ようこの「この物語の儚さと甘やかさを綺麗に演出したい」との思いもあって、
説話調の妙な明るさと津原泰水が指摘する品位のある作品に仕上がった。

それゆえにこその「文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞」なのだろう。
腰巻には、「津原泰水の傑作幻想譚を、近藤ようこが奇跡の漫画化。」とある。

「奇跡の」という形容がふさわしい作品は、そうはないだろう。



    おそるおそる自分の考察を提示した若き研究者のような真摯な漫画化

                         ――――折口信夫原作、近藤ようこ「死者の 書」上巻を読む(2015.9.19)


大仏建立前夜の奈良時代、夜中には似つかわしくない高貴な姫が伴も連れず、
何かに導かれるように、西の地・二上山に向けて一人歩いている。やがて、山のふもとの寺にたどり着くのだが・・・

そもそも、屋敷の奥深く暮らしているはずの姫が、家を出るだけで大事件だし、
女人の身で、結界をやぶって塔に入り込んでいることも大きな罪である。
さらに、そこへ非業の死を遂げたらしい男の声が聞こえてくる。

.どうやら、近藤ようこは、原作者の折口信夫のことを心の底から敬愛しているらしい。
「原作の文学性を再現できるわけもなく」「最終的に原作を読んでいただきたいのです」
と書かれた「あとがき」からも、その真摯な姿勢がうかがわれる。

そのせいか、漫画らしい再構成して自分の作品にしようという意図は背景に退き、
むしろ、日本民俗学の巨頭の一人である折口信夫による原作をできるだけ損なわないよう、
修復家のような丁寧さと慎重さで物語を練り上げている。

あとがきは、「私の解釈が間違っているというような指摘をされるのこそが本望です。」
という、なんとも殊勝な言葉では締めくくられている。
まるで、おそるおそる自分の考察を提示した若き研究者のようではないか。




    気がつくと、宗教的至福とともに美しく消え去っていった姫

                         ――――折口信夫原作、近藤ようこ「死者の書」下巻を読む(2016.6.4)


折口信夫の原作はおろか、当麻寺の曼荼羅と中将姫の伝説も知らずに読んだので、
家出をした姫が、蓮の茎から糸をつむいだり、織物を作ったりするのを見守っているうちに、
気がつくと、静かに物語が終わっていた。

上巻が、いくぶんかの古代社会独特の「おどろおどろしさ」を含みにして、物語を展開していたらなおさらだ。

 姫が のどかに しかし 音もなく 庵堂を 立ち去った刹那  気づく者は ひとりもいなかった
 姫の描いた絵様が そのまま 曼荼羅のすがたをそなえていたとしても
 姫はその中に 唯一人の色身の幻を 描いたすぎなかった
 しかし 残された刀自・若人たちの うちまもる画面には みるみる数千地涌の菩薩の姿が浮き出てきた
 それは 幾人の人々が同時に見た白日夢のたぐいかも知れぬ

本当に静かな結びだ。
説話を知っていれば、これがいずれは曼荼羅になるというようなワクワク感もあったのだろうが、
何にも知らない私には、読者を置いてきぼりにしたまま、姫だけが宗教的至福を得て消え去っていったように感じた。
むしろ、この世界観に心震えない私の心がけの方が悪いのかもしれないが。



 

       破綻しかねないような奇妙な話を漫画として成立させる近藤ようこの芸

                          ――――田中貢太郎・原作、近藤ようこ「蟇の血」を読む(2018.10.3)


「ガマの血」と読む。
原作は、大正から昭和にかけて活躍したとされる田中貢太郎である。「である」と書いたものの、まったく知らない。
近藤ようこ「あとがき」には、「小村雪岱や河野通勢の展覧会で、彼らが装丁した貢太郎の本を見たことがあった。」とある。
怪談の蒐集をしながら、中央公論に情話物、怪談物を発表していた人らしい。

本作については、「昭和のエログロナンセンスを先取りするような、
奇妙で可笑しく、しかもわけのわからない恐ろしい話だ」としている。

高等文官試験を受ける前の気晴らしに、海の見える町に静養に来た学生が、
旅先で偶然出会った少女を、自殺未遂者ではないかと下宿にまで連れ帰ったものの、
今度は夜道で偶然出会った女に呼び止められ、なぜかその女の家に入ってしまい、
帰りたい気持ちはあるものの、からめとられるように帰ることができず… というような話。
確かに、近藤ようこが評するとおり、奇妙でわけがわからない。

このところ、近藤ようこは近代文学を漫画化することが増えている。
近藤ようこがわざわざ紹介しようというのだから、原作となる作品は曲者ぞろいだし、この作品も十分にクセモノだ。

おそらく原作が目の前にあっても、手に取ることはないだろう。
それを購入してまで読んだというのは、近藤ようこの語り部力を信用してのことだ。
うかつにマンガ化したら破綻しかねないような「奇妙でわけのわからない」物語を、
マンガとして楽しめたのも、近藤ようこの芸のなせる技と言っていいだろう。

猫との生活を描き続けている大島弓子のように、
近代文学のマンガ化を続ける近藤ようこもアリなんだろうなあ、としみじみ思った。



 

       漫画化するにあたり格闘した経過さえ味わってほしい、という達成感

                          ――――夏目漱石・原作、近藤ようこ「夢十夜」を読む(2018.10.6)


原作は、夏目漱石である。
「ホトトギス」に「吾輩は猫である」「坊っちゃん」などを掲載した後、
職業作家として朝日新聞社に入社し「虞美人草」を掲載した翌年の作品で、
1908年7月25日から8月5日というから本当に10日間に新聞連載された作品である。

そして、近藤ようこのマンガ作品だが、初出が岩波書店のウェブサイト、底本が岩波文庫ということで、
岩波書店からの堂々の出版、ハードカバー1300円である。
むしろ、返品できないとされる岩波の書籍を置いていた巨大書店に感謝すべきか。

このところ近代文学づいている近藤ようこであるが、
「夢十夜」については、初めて読んだのは「大学時代、口承文芸の授業でのこと」で、
「<六部殺し><こんな晩>系の怪談(民俗学では世間話というジャンルになる)と、「夢十夜」第三夜との関連について学んだ」
と、あとがきにある。

民俗学における「世間話」は、口承文芸のうち体験談や事実談として語られるもので、
「六部殺し」は、六部(巡礼僧)を殺し金品を奪い、それを元手に財を成したが、
生まれてきた子どもが六部の生まれ代わりで、かつての犯行を断罪するというもの。
「おまえに殺されたのも、<こんな晩>だったな」という最後の子の言葉から、「こんな晩」とも呼ばれているらしい。なるほど。

そんな近藤ようこの思い入れたっぷりの作品だけに、
あるいは、漱石が軽く書いたようでいて、実は挑戦的でもある幻想的な作風だけに、
漫画に再構成するという作業に、相当な苦労とともに喜びがあったようで、
近藤ようこは「まず原作を読んでほしい。それから私の漫画と比べて、 うまくできているかどうかを判断してほしい」とまで書く。
そこには、上出来の仕上がりであるという自負心というよりも、不出来であったかもしれない部分も含めて、
漫画化するにあたり、近藤ようこが漱石作品と格闘した経過を味わってほしい、という切実な思いであるようだ。

原作は読んでいないが、きっと成功しているのだろう。
というのも、「退屈することもなく、一夜を描き終わると頭が空っぽになって気持ちよかった」と、
近藤ようこ自身が書いているほど、心地よく心を尽くした作品であるのだから。



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