この作品を埋もれさせるわけにはいかない、という他社での連載再開

                      ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」1巻を読む(2005.5.30)


第1巻だが、別雑誌に掲載された「金魚屋古書店出納帳」上下があるので、事実上の第3巻になる。

地下に果てしない量の在庫を持ったマンガ専門の古書店を舞台にした人情マンガである。
「もう、そろそろマンガを卒業しなきゃ」という大人が、
ふと昔好きだったマンガを読み返して感動を新たにするというのが、王道のパターンである。

毎回、実在するマンガが登場するのだが、
その作品のどこがすばらしいか、何に感動したかをしっかりと物語の中に紡ぎ込んでくれるところが嬉しい。

一度は「上・下刊」として発刊されたため、
こんなマンガがあったのかと狂喜しつつも、もう終わりなのかという落胆も伴っていた。
そんな作品だっただけに、マンガ好きの編集者にとっても、出版社を超えて連載させたいような作品であったのだろう。
今回の連載・単行本が出版されたのは、オリジナルの「出納帳上・下」とは別の出版社である。

「こんな素晴らしいマンガ作品を忘れ去られたまま埋もれさせてしまうわけにはいかない」
という思いが「金魚屋古書店」という作品に流れているとすれば、
この作品もまた忘れ去られたままに埋もれさせてしまうわけにはいかない作品の一つなのである。




   今ごろ気づいた「宮沢賢治漫画館」を持っていないという事実

                     ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」2巻を読む(2005.11.4)


1巻では動いていた物語の流れはピタリと止まり、「出納帳」当時の読みきり連作の流れへ。
1巻は、使えるキャラクターの数を増やすという 戦略だったのかもしれない。

今回、一番ショックだったのは、コンプリートしているつもりだった「宮沢賢治漫画館」を実は一冊も持っていなかったこと。
当時は、「ますむらひろしの宮沢賢治のほうがいい」という判断であえて買わなかったようだ。
むろん、今は絶版である。

不幸というのは、突拍子もなくやってくるものだと実感した。
大した問題ではないのだが、やはり不幸は不幸なのである。




   よく出来ている「ちょっといい話」を支えるキャラの再使用

                     ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」3巻を読む(2006.4.16)


相変わらず、よく出来ている。
読みきり連載となると、ネタを創ることもさることながら、キャラを創り続けることも苦しい。

ということで、かつて使われていたキャラの再使用も多い。
こういうやり方をすれば、無理に新キャラを使わなくて済む。
えっ、誰だっけと思って、読み返すことをさせられるなら、それはもう、作者の勝利なのだ。




   「テレキネシス」との同時発売で気づく「大きな物語」がない居心地のよさ

                      ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」4巻を読む(2006.12.14)


ということで、金魚屋古書店の方も読んだのだが、読みながら「大きな物語」という言葉を思い起こした。
むろん「金魚屋」には「ないもの」としてであり、 そして、「なくてよかった」ものとしてだ。

マンガと映画という違いはあるにせよ、 両者は同じ「ちょっといい話」を志向していたはずだ。
ところが、「テレビ局が舞台」という制約がある「テレキネシス」では、 登場人物はほぼマスコミ関係者に限られている。
そのためか、物語が「会社」という世界の中で濃密に展開してしまい、
クリエイターか企業人かというような「大きな物語」を志向してしまう。
もっとも、「大きな物語」といいつつ、一企業の中の物語でしかないのも、その「大きな物語」の底の浅さでもある。

そのような「テレキネシス」の弱点を強く意識させたのは、金魚屋古書店の「なんでもなさ」だ。
もともと誰でも入れるただの古書店だし、大人も子どもも男性も女性も誰でも物語に参加することができる。
そして、マンガをめぐる小さなエピソードは大切なものではあるものの、少なくとも人の一生を左右するようなものではない。

同じような「ちょっといい話」を扱いながら、「テレキネシス」が「大きな物語」を志向するのは、
やはり少年マンガ的なクセといわざるを得ないところだ。
逆に、「金魚屋古書店」は、少女マンガ的なものとして、
ある意味「大きな物語」から自由だったであり、ある意味「大きな物語」からは排除されていた。

むろん、「大きな物語」の効用を否定するものでない。
しかし、少なくとも「ちょっといい話」とは相性が悪かったようだ。
そのことを確認できた意味で、興味深い「同日発売」だったのだった。




   準レギュラーになって眼差しが描かれるようになった笹山さん

                     ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」5巻を読む(2007.6.10)


いつのまにか周辺キャラが増殖して、独り歩きを始めている。
漫画好きの女子学生3人組、巨漢メガネの笹山さん、生意気な小学生みのる君。
金魚屋古書店が漫画好きを吸い寄せてしまうのだろう。

中でも、笹山さんの出世は早い。
2枚目の「背取り屋」にコンプレックスを持った「キモ系」だったはずが、
いつのまにか漫画愛を熱く語る頼れる大人になっているのだ。
初登場時には厚いレンズに隠されてほとんど見えなかった眼が、
この巻では、優しく可愛い眼差しが描かれるようになっている。

彼らが恋愛したり、結婚したり、子どもを持ったり、
そんな長篇化さえあるんじゃないかと期待してしまう安定感である。




   マンガを読みこんでいるだけで人を幸せにできるという希望

                      ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」6巻を読む(2008.1.9)


古いマンガをめぐる「ちょっといい話」を続けるのは、なかなか大変だ。
読みきり連載だと、キャラクターを使い捨てにしなければならないのが辛い。
そういう事情もあってか、レギュラー・準レギュラーの活躍がめざましい。死んだと思った人さえ行き返っている。

そんな悪口を言いながらも、この本を大切に読んでいるゆえんは、「本が好き」(前・後編)にあるのだろう。
この物語に登場する金魚屋の関係者やセドリ連には及ばないとしても、
この本を手に取る人たちは、それなりにマンガが好きだから読んでいるのだ。
そして、そんな者にとって、立派なマンガ読みが正当に評価される場面を見ると、やはり心地よいものがある。

マンガを好きで、マンガを読み込んでいるだけで、人を幸せにすることができる。
もし、そんな事が本当にあるのなら、ずいぶん素敵なことだ。
だから、「好き」であることの才能を見事に開花させた「差し」のアーチストがたとえ一瞬であれ輝きをみせてくれることは、
「好き」であることでしかマンガに関われない読者にとっても、希望の光でもあるのだ。
そう言い切るのは、少しやけっぱちかもしれないが。




   生活感のある風景が見えることで金魚屋古書店の実在感も深まる

                     ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」7巻を読む(2008.8.19)


いろんな人が通り過ぎることで始まった「金魚屋古書店」だが、
徐々にレギュラーメンバーが活躍するようになっていき、この巻では、地理的にも固まりつつあるようだ。

単に、東京近郊のどこかというくらいのイメージであったが、
「かもめ書房」が近くにあって、「浜ケ崎美術学園」も近くにある。
本好きの学生や教官にとっては、かもめ書房に寄って、金魚屋古書店に寄るのが日課。

そういう生活感のようなものが、見えてくるようになってきた。
ひょっとすると、浅く読んでいる私が、ようやく気づいただけなのかもしれないが。




   役者達の総出演で見せたマンガ愛にあふれる近未来SF、という飛び道具

                       ―----芳崎せいむ「金魚屋古書店」8巻を読む(2009.2.19)


少しばかり、金魚屋の外の世界を描いていたせいか、ここへ来て、王道に戻った感じ。

冒頭に置かれていたのは強烈な飛び道具だったが、
もう一度、このマンガに登場している「役者」確認することができた。
その分、金魚屋という存在に物語が回帰してきたようであり、
セドリの力や、ダンジョンの奥の深さというものが改めて実感させられた。

そして、巻末は、なんと次刊へまたぎますか。
そんなことしなくても買うんだけどなあ。




   思わぬところで登場した、つげ義春「李さん一家」へのリスペクト

                      ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」9巻を読む(2010.10.13)


読み切り連載はつらい。キャラを作り続けるだけでもつらい。
ということで、この巻ではレギュラーの岡留やあゆの過去に物語が変奏する。
そろそろ、小さな物語の積み重ねから大きな物語に向かう時期なのかもしれない。

それはそれとして、
 あの奇妙な幽霊があれからどうなっかというと……
 ……と書くともうお分かりの方もいるかと思いますが、
には苦笑させられた。いやー好きです、芳崎さん。

おかげで、金魚屋の二階を初めて見たような気がする。




   レギュラーメンバー大集合の一巻一話で、人間関係を再認識

                      ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」10巻を読む(2010.5.29)


読み切り連作だったこのシリーズも、この巻はついに1巻1話である。

年に一度の金魚屋古書店の目録作成を主たる流れに置きつつ、
気負い過ぎて万引きまでした女性エリート会社員や、
文筆家を目指す眼鏡の笹山氏(もちろん、目も描かれている)や、
貸本屋「ねこまた堂」の改装話、「マ」のつくものが嫌いな鏑木社長の秘密など、いろんなサブストーリー満載で楽しめる。

ものすごく失礼な話なのだが、
ここへきてようやく、レギュラーメンバーの個体識別がしっかりできたというか、
<そう言えば、この人たちはこういう人間関係だったよね、確かに。> というようなあたりを再認識したのである。

今まで、ほとんど根拠なく、芳崎せいむの作品をアメ・コミ的と思っていたが、
実は「アメ・コミ」というより「洋画」に近い印象を持っていたのかもしれない。
というのも、私が洋画をほとんど見ない本当の理由は、
洋画の場合、終了間際まで登場人物の区別がほとんどできないからなのである。

もっとも、それゆえに芳崎作品と洋画に近縁性があるなどというのは、
「言いがかり」としか言いようがないほどに、身勝手な結論なのであるが。




   阪神・淡路大震災の被災地に立つ鉄人28号を見たくなった

                         ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」11巻を読む(2011.1.15)


10巻では1冊丸ごと7回連載だったが、この巻では原点回帰の読み切りが7本。
現在の話、過去の話、さらには妖精の世界までと話は広がる。

いろんな話がある分。コメントはかえって難しい。
まあ、なんせ、「まんが好き」を越えた「まんがばか」の話が、 もう11巻も続いているのだ。

ああ、そう言えば、神戸の鉄人28号は、けっこう評判のようだ。
トメとあゆのように「旅行」しなくても、新長田はすぐだ。
暖かくなったら見に行くとするか。




   子どもを登場させることで、改めて意識させられる時の流れと人の成長

                      ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」12巻を読む(2011.7.13)


冒頭に

  このお店の名前は 「金魚屋古書店」
 入口にある金魚のステンドグラスが目印です。

などとあるものだから、掲載誌でも変わったかと心配したが、
特にそういうこともなく、今年の前半に書かれた7編が集められている。

しかし、少し違うところがあるのは、 この巻では少女・真由(と「ムダ美」こと村尾)をめぐる物語を中心に描かれている。
時間が前後しながら、真由はたまごっちに夢中の小学生から、
お菓子のパッケージをデザインする人になってみたい中学生に成長する。

「出納帖」時代から数えれば、もう10年近い連載になる。
読み切りの連作なので、必ずしも作品の中で時間が流れて行くわけではない。
ものすごい漫画好きの若者や大人や老人たちの「ちょっといい話」というだけなら、
そこに時間が流れている(はずである)ことをあまり意識する必要はない。

しかし、確実に成長を続ける子どもを登場させ、小学生の姿と中学生の姿を描いたとなれば、
さすがに時間の流れというものを意識せざるを得ない。

人って、漫画を読みながら成長していくんだよね。
そんなことを懐かしみながら漫画を読むことができるのだ。
この巻は、そんな、今までになかった楽しみ方ができるようになっている。




   間違った愛情さえ呼ぶ内田善実「草迷宮・草空間」の怪しいまでの美しさ

                      ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」13巻を読む(2012.4.1)


いろいろと変奏した時期もあったが、再び短編連作に戻った。
やはり、本来の姿は読んでいて落ち着く。

そして何より、この巻で注目すべき、あるいは問題作は、内田善美「草迷宮・草空間」コレクターの話だ。
セドリの岡留は、「草迷宮・草空間」の初版・美品の注文を受ける。
すでに何冊も送っており、そのたびに必ず代金が振り込まれるものの、
 いつも「もっときれいな状態を望む」という、さらなる注文がやってくる。

代金は必ず振り込まれるので、悪い客ではない。
しかし、なぜそれほどまでに初版・美品にこだわるのか、
なぜそれなりの「初版・美品」を手に入れても、さらなる注文を出し続けるのか、
謎は解けないまま、むしろ、不安さえ呼び起こす。

「送る」ことで「痛む」ことを恐れるという理由で、 岡留は恋人の小篠とともに、客に本を届けることにする。
客の指令は、「鍵を送るので、本だけ置いて帰ってくれ」というもの。
そして、客の指示する部屋に入ると、そこには・・・

なんと、部屋の壁全体が作りつけの本棚になっていて、 何百冊という「草迷宮・草空間」で埋め尽くされていたのである。

なんという強烈な、そして偏った、いや、むしろ間違った、本に対する愛情なのか。
そして、そんな、魅入られてしまうかのように秘蔵したい、出来うるものなら、世にある全ての本を自らの手に収めたい、
という欲望の矛先として、内田善美の「草迷宮・草空間」は、実にふさわしい。

間違った愛情を注ぎたくなるほどに、「草迷宮・草空間」は妖しく美しい。
そんなテーマの26ページ。

気持ちは分かる。
いや、わかってはいけないのかもしれないが。




   後のレギュラーメンバーが次々と登場する金魚屋古書店の近過去

                      ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」14巻を読む(2014.3.9)


買い忘れていて、15巻から先に読んだ。
金魚屋古書店の主要メンバーの出会いを描いた近過去編は、14巻から始まっていたらしい。

冒頭、斯波さんが金魚屋古書店の店頭で倒れている。菜月さんは、まだ高校生のようだ。
斯波さんは、その漫画バカぶりが認定され、金魚屋古書店に居座ることが認められる。

次の話では、村尾が店頭で倒れている。彼は良いお客になりそうだ。
その次の話では、すでに金魚屋で寝泊まりしているあゆが登場する。
そこに登場するのは、まだ小学生だが、口が達者なキンコだ。

本当に倒れてしまった店長に代わって、菜月さんは店長代理を務めることに決めた。
こんな風にして、金魚屋古書店のレギュラーメンバーたちは出会ったのだ。
いや、大事な人が一人抜けている。

というわけで、15巻へと続く。なるほど。




   斯波と岡留という漫画バカ二人による熱い書店論

                      ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」15巻を読む(2014.1.19)


金魚屋古書店の店員の斯波さんとセドリの岡留さんの、
マンガをめぐる因縁というか、熱い「友情」を描いた近過去の物語。
1巻分まるごとの中編というわけではないが、いくつかのエピソードが連なりながら、
二人の漫画バカならでは独特の感性による書店論のようなものが展開される。

本屋がはやらない理由は「この店には<答え>しかないんだと思う。」という斯波さん。
そして、しばらくして、その店の雰囲気が変わったという岡留さんは、
「主体の情報量が増えた。それなのにきっちり整理されている。」という。

はて、なんのことやら。
でも、その本屋は来客数は変わらないが、買ってくれる人の割合が増えたそうだ。

後半に登場する古いイギリス漫画好きの高校生は、のちのキンコさんだろうか。
とはいえ、1948年から発表されたイギリスの1コママンガ「St.Trinian's」とは、
まったくとんでもないところから、題材本をもってくるものだ。

そんな連載も15年で15巻、100話を越えた。巻末には好きなエピソード・好きんな登場人物の集計結果もある。
こういう企画をみると、もう一度最初から読み直して、
なかなか頭に入りきらない登場人物の関係を、もう一度叩きこみたいという気になる。

そんな元気は、さすがにないけれど。


   年代・年齢が固定されることで浮かび上がる、登場人物のピン止め問題

                        ------芳崎せいむ「金魚屋古書店」16巻を読む(2016.1.9)


実は、1年以上前に出ていた本。
そもそもリサーチ力が落ちてきているし、 棚で見かけても、読んだ本なのか読んでない本なのかがわからないとか、
そもそも、読み切り連載なので続きが読めなくてもあせりがないとか、複合要因でこういうことになる。残念。

さて、この巻には、オッサンの登場率が高い。
20年以上前のバブル期に漫画編集者だったが、今はうらぶれた酒浸りの男、
客に言われるままに、マンガの品揃えの良いラーメン屋に案内する53歳のタクシー運転手、
そして、そのラーメン屋で1980年代のマンガを並べて懐かしんでいる52歳の客、
30年目を迎えるコミティアに、発足当初からコピー誌で参加し続ける男。

考えてみれば、「出納帳」時代を含めると、この作品は今世紀初めから連載が続いており、単行本も18冊出ている。
芳崎せいむも、オッサンたちに共感する年代になっていても不思議ではない。

そして、そんなオッサンたちに金魚屋やそこに出入りするセドリ衆がからむのだが、
途中で、物語内の時間のひずみに気付いてしまい、クラクラしそうになった。

というのも、「金魚や古書店の世界」は、基本的に時間がとまっている。
それゆえ、若い人たちが昔の作品を紹介してもらうというだけなら、「いつかどこかの物語」で済ませることができる。
しかし、「2014年の53歳と52歳が、25歳ごろの1980年代の作品を懐かしむ」となると、
とたんに物語の中の時間が動き出し、
そこに登場した金魚屋の店員・シバさんも、「2014年の若者」としてピン止めされてしまう。

この作品を長く、読み続けてきた者としては、10数年前から若者だった金魚屋の面々を知っているだけに、
今さら、シバさんのことを2014年の若者にしてしまうのは、どうにも居心地が悪い。

ひょっとすると、金魚屋の菜月さんやシバさん、セドリの岡留やあゆたちが、
時のとまったバンパネラのような人たちなのではないのか、
と、さらに過剰な妄想をしそうになった。



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