雑草のようにしがみつきながら愛されて生きている少女たち

                               ――――池辺葵「雑草たちよ、大志を抱けを読む(2018.2.4)


いしかわじゅんが新聞書評で誉めていたので買った。
作者の池辺葵は、映画原作として「繕い裁つ人」を読んでいたが、他の作品にまで手を出すにはもうひと押しが足りなかった。
いしかわじゅんの記事が、そのひと押しをしてくれたことになる。

舞台は関西を思わせる共学の高校で、物語がそこに通う女子生徒たちの青春群像となれば、よくある設定だ。
5本の短編とエピローグによる一巻完結なので、大きな物語が展開するわけではない。
ところが、その展開がなかなか侮れない。

朝、起きるのが苦手なガンちゃんは、毎日、友人のひーちゃんに窓越しで起こされる。
いつもゲーム機をピコピコ言わせているピコは、高知言葉で真実を衝く一言を発する。
ノートに夢中でホラー小説を書き続けている久子は、毛深いのが悩みだ。
優等生の奥平は性格もよく申し分ないが、小太りでマラソンは苦手。

皆、それぞれが自分なりの悩みを抱えつつ、高校生という枠組みとルールの範囲内で、
互いに気遣いながら、それぞれの居場所を確保している。

そして、それぞれの登場人物たちの会話から、その背景にあるものが明らかにされると、
一人ひとりが、なぜそんな話し方をし、そんな行動をとるようになったのかが、くっきりと浮かび上がってくる。

なるほど、だから、みんな、こんなに胸を張って生きていられるんだ。
学校の中でも目立たない地味な存在だけれけども、
雑草のようにしがみつきながら、愛されて生きている少女たちの静かな青春。

この深さを描くのなら、池辺葵を集めてみようかなと思った。



   誇り高い貴族の娘たちを夢想できるほどに誇り高く生きた老婆

                                ――――池辺葵「どぶがわ」を読む(2018.8.5)


表紙に描かれているドレスを着た4人の若い娘たちの姿と「どぶがわ」というタイトルの落差にクラクラしかけたが、
本編を読みだして、さらにひっくり返ってしまうこととなった。

誇り高さと責任感をあわせ持った長女、しっかり者で冷静な次女、おとなしいが辛辣な三女、無邪気で活発な四女の一家は、
いつかどこかはわからないが、広いお屋敷で、フォアグラのソテーを食べるような、豊かな貴族のお嬢様として暮らしている。

会話の中に、「禁止法案以来、フォアグラが大安売り」というような、つい最近の話題が混じったりするので、
おやっと思っていたら、 なんと彼女らは、川沿いのベンチでうたた寝する老婆の夢なのだった。
しかも、その川は谷底にあって、臭くて汚くて、この川のほとりでよく眠れるなあというような「どぶがわ」なのである。
しかし、老婆は、「この川沿いに私の楽園がある」という。

幼い正義感を持った小学生は、市役所に「川もベンチもなくしてください」と投書する。
「どぶがわ」の存在が許せない小学生にとっては、川になじんでいる老婆の姿さえ排除の対象なのだろう。
その背景には、子どもの彼らにさえ「<谷の子は>ってアホいう大人」の存在がある。
臭いとか汚いとかということ以前に、
自分たちがいわれなき攻撃をされる原因である「どぶがわ」をなかったことにしてしまいたいのだ。

そんな「どぶがわ」沿いのアパートにも移り住む者たちがいる。
「同じ校区で私たちの住めるところ」を探した離婚したばかりの母子家庭だ。
それまで住んでいた丘の家は、中学に上がった例の小学生たちの新しい通学路にあって、
 彼らは見慣れない景色に、思わず「豪邸」と言ってしまうほどだ。
丘と谷は、それほどに近くて遠い。

以前からアパートに住んでいるレンズ磨きの職人は、帰宅後に、昔ながらのレコードでクラシックをかけるのが日課だ。
隣室の老婆はすでに就寝していて、壁を通して聞こえてくる「水上の音楽」に、
橋の上で貴族のお嬢様たちがダンスをしている姿を夢見る。

投書を続けていた元小学生だが、中学生になって投書からベンチの話がなくなり、
「川をきれいにしてください」という方向にが変わってきた。
というのも、幼なじみが実は成績が良くて、将来のこともしっかりと考えていたり、
本人の成績は芳しくないのだが、同級生たちが塾に行く話に寂しげだったり、
幼なじみが一緒に囲碁部に入ろうという理由が道具を買わなくていいことだったり、
はっきりとは描かないものの、彼の家の生活の苦しさが伺われる。

彼自身が自分の置かれている状況を客観的に見つめ、あるいは打ちのめされることで、
自分の置かれた状況を否定するだけでは何も変わらないことに思い至ったらしい。
いつしか彼は、あれほど嫌っていた川沿いのベンチまでやってきて、
相変わらず昼寝をしている老婆に寄り添うように座るようになっている。

実は、子どものころからこの川の側で暮らしてきたという老婆だが、
ギリギリの生活のなかでも、貴族の姉妹の生活を夢みることで安らぐことが出来たのは、
今も手元に置いている何冊かの世界名作童話と、
それらを買い与えてくれた両親と暮らしていた子ども時代の慈しみの記憶のおかげだ。
それは、どんなにつらい生活の中にあっても、美しく生きることは不可能ではないということでもある。

そして、ある日、特に理由が示されないまま屋敷を出ていく「貴族」の姉妹たちと、
片付けられガランとしたアパートの一室を描くことで、老婆の行く末が示唆される。
貴族の姉妹たちは、最後までけっして自分たちを不幸とは思っていなかった。
そんな誇り高さをもって生きることが、貴族として生まれた者の宿命であるかのように。

なんと見事なフィナーレだろう。 なんと見事な生き方だろう。
そして、実は相当に慎重な取り扱いが必要な社会問題を水面下に示唆しながら、
けっして予断と偏見を助長することなく、前向きで救いのあるメッセージを送り続けた、なんと見事な物語だろう。

最後に、髪の色や容姿の違いを気にする四姉妹に語ったメイドの言葉を紹介しておこう。
 「ちっちゃなことですわ 誰にでも平等に 太陽が昇り 沈んでいくことに比べれば」
なんと素敵な夢(を見る心をつちかっていたの)だろう。



 

       贅沢感さえ感じさせる、石版画のような抑えた色調

                               ――――池辺葵「かごめかごめ」を読む(2018.9.9)


「書籍扱い1200円+税」という値段にひるんだが、224ページフルカラーとなれば妥当な価格設定だ。

しかし、さらに驚かされたのはフルカラーであるにもかかわらず色調は抑え気味で、
例えば最初のページは、うっすらとした陰影で光の方向がわかるような灰色の画面に、
拭き掃除をする少女の髪の茶色と服の紺色だけが浮かび上がっているだけだ。
少女の頬にほんのり赤みがさしているようにも見えるが、それとてよく見ればわかる程度に留められている。

ヨーロッパの修道院が舞台であるから、それほど光の量があるわけではないのだが、
フルカラーという武器を最小限にしか使用しない潔さには、むしろ贅沢感さえある。

しかも、一つ一つのコマが手書きの装飾のある額縁のような枠で囲まれているうえ、
ページ全体に質の悪い紙のように屑が混じった描写もあり、淡く色もつけられている。
そのため、それぞれのページが一枚の石版画のように仕上がっている。
美しい。

「かごめかごめ」は、「籠の中の鳥」としての修道院暮らしを指すのだろう。
そこで暮らす、マザー、シスター、ジュニアたちの多くは、修道院の門前に捨てられていた赤子だった者たちだ。
彼女らは人生を神に捧げると心を定め、祈りを生活の中心に置きつつ、
ごく希な寄付金と農作物を売った現金収入以外は、ほぼ自給自足の生活をしている。
そして、女性ばかりの暮らしにあって、(信仰を惑わせる)男は悪魔だ。

という展開ならば、修道女が男に惑わされる「いついつでやる」展開が定番だが、
池辺葵は、この定番をジュニアの育ての親であるシスターによる、
生みの親に続く二度目の子捨てという視点でとらえなおす

 しかも、池辺葵独特のやさしさで、生みの親も育ての親も誰も否定しない。
まして、修道院も、修道院から出た元シスターの暮らしも否定しない。
何年もの時が過ぎて、ジュニアたちがシスターとなって、
新しいジュニアを受け容れるようになる、という流れを淡々と描くのみだ。

誰が彼女らを罰することができよう。
彼女らに祝福あれ。



 

       大人が子どもを守り抜く姿が丁寧に描かれる現代の母モノ

                                ――――池辺葵「ねぇ、ママ」を読む(2018.9.15)


「ねぇ、ママ」という表題、腰巻には「母をモチーフにした珠玉の短編集」とあって、「母モノ」かあ、というためらいがあった。
しかし、案ずることはなく、確かに「母モノ」ではあることは間違いないのだが、
池辺葵らしい現代的でたくましく優しさに満ちた「母モノ」だった。

最初に登場するのは、母子家庭の母親だ。描かれるのは、息子が明日からは会社の寮に入るという日である。
母は最後の夕食を奮発するが、当の息子は職場の付き合いで帰らない。
鯛の塩釜を自ら叩き割って、自分の子育てを回想する母。
そんな、親離れと子離れ。

次は、「かごめかごめ」にも登場した修道院で育てられているザザとヤニクの物語。
ヤニクは娼婦をしている「ママのお歌」を歌って他の子どもからたしなめられるが、
ザザは「今夜も私をたずねて」は主が来られるのを待っている讃美歌だ、と反論する。
二人が院を脱走したのも他意はなく、ヤニクがママに会いたかったら。
そんな、無邪気で小さな冒険心。

集まった大勢の女たちが向かった先は、老人ホームで暮らす車いすの老母のもとだ。
「お母さん」と呼ばれる老母は孤児院の元院長で、その日が誕生日だったらしい。
そして、その女たちの「長女」にあたる骨董屋の女主人は育児放棄された子どもを発見し、
彼女の「姉妹」の一人で、今は彼女らが育った院の職員になっている女性に引き継ぐ。
そんな、慈しみの円環。

他の2作も含め、いろんな母と子の形があって、いろんな思いがあって、
それらを丁寧に拾い上げる大人がいて、子どもたちのことをきちんと守り抜いている姿が丁寧に描かれている。
ザザとヤニクが登場する2作以外は現代日本が舞台であるのだが、
さりげなく描かれている背景などに関西を感じさせるところが、ごく私的には嬉しい。



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