中島みゆきの作品世界を萩尾流に展開した短編集

                     ------萩尾望都「あぶな坂HOTEL}を読む(2008.4.6)


中島みゆきのデビューアルバム「私の声が聞こえますか」の1曲目が「あぶな坂」である。
そして、その冒頭のフレーズが 「あぶな坂を越えたところにあたしは住んでいる」だ。
同じフレーズを冒頭に置いた萩尾の「あぶな坂HOTEL」は、明らかに中島作品を意識している。

中島みゆきの詞では、坂の手前には橋があり、男はもともと傷ついていることの言い訳に坂を転げ落ち、
「あたし」は喪服を着て、花束を抱えて男を迎える。
男は「あたし」のやさしさのせいで帰りたいのに帰れないというが、 実際には、誰も男のことを呼ぶものはいない。
という抽象的で絶望的な状況を歌っている。

この詞のイメージを萩尾なりに具体的な形にしたのが、
「この世とあの世のあわいに建つホテル  お帰りになるもゆかれるもお客様のお心しだい」
という「あぶな坂HOTEL」なのである。

中島みゆきの歌と萩尾の漫画ではずいぶん印象は異なるが、
そう思ってみていると、つり橋を越えたり、ケガをして登場したり、それが実は「遠いふるさと」の傷であったり、
オーナーの由良が黒い服を着ていたり、豪華な食事が用意されていたりするあたりを見ていると、
一作目は中島みゆきの「あぶな坂」のイメージを丁寧になぞっている。
黒い長髪が印象的な由良さんは、中島みゆきのイメージなのだろう。

人の死を取り扱うだけに、けっして気楽な話ではないが、
ホテルの性格上、いろいろな人が登場しては去っていくために、吉本新喜劇的なドタバタ感も楽しめる。
(しっとりした、二作目「女の一生」を除いて。)

ちなみに、「あぶな坂を越えたところに」のフレーズが登場するのは最初の二作で、あとの二作には登場しない。
三作目で中島みゆきから自立したということか。
と、書きかけて初出を見ると、第二作は「3人のホスト」で、 実は「女の一生」が三作目。うっかり、だまされるところだった。

しかし、中島みゆきの言葉の持つ力を考えると、この順番の方が読みやすいことも確かだ。
それはそれとして、「あぶな坂HOTEL・1」じゃないということは、 これで完結なんだろうか。ちょっと残念な気もするのだが。



   向き合い方が難しい、リアル飼い猫を主人公とする連作

                      ------萩尾望都「レオくん」を読む(2009.6.15)


怪作である。

主人公のレオくんは猫だ。人間に飼われている。
そして、どうやら人と会話を交わすことが可能であるらしい。

だから、小学校へ行ったり、お見合いをしたり、漫画家のアシスタントもする。
ところが、行動パターンは猫のままなので、何をやらせても上手くいかないし、周囲の皆さんの温かい心で大事至らずに済んでいる。
毎回唐突すぎる展開に戸惑いつつも、ベテランの芸できちんと読ませてはくれる。

とはいうものの、どうもしっくりこないのは、この作品をどう位置付ければいいのかが、よくわからないからだ。
冒険する猫ということで「綿の国星」なのか。猫のいる生活ということで「グーグーだって猫である」なのか。
困った猫のドタバタファンタジーということで「アタゴオル物語」なのか。
いや、猫に見えるだけで実は子供だったという「イグアナの娘」なのか。

リアル「レオくん」は、萩尾さんの飼い猫のようなので、
案外、「レオくんが人の言葉を話したら、どんなに素敵だろうか」
「人の言葉を話すようになったレオくんは、きっといろんな場所へ出かけるだろう。」
「そして、レオくんのことだから、きっと行く先々で事件が持ち上がるに違いない。」
「でも、そんなレオくんが、本当に可愛くって」などと、
あの独特な早口の萩尾語で萩尾先生が妄想しただけの産物かもしれない。

それにはしては、なんとなく悪意がこもっている作品が多いような気もするのだけれど。



   老境を描くようになった萩尾望都と、それを読み続ける萩尾ファンの人生

                      ------萩尾望都「スフィンクス」を読む(2009.12.31)


「ここにはないどこか」シリーズと題された短編の2冊目である。

冒頭におかれた「オイディプス」「スフィンクス」には、メッセージ3・4とある。
改めて、1巻の「メッセージ」と題された連作を読み返す。なるほど、このシリーズなのか。
確かに、「彼」がいる。そこが、萩尾さんが改めてギリシャ神話を描いた所以なのか。
彼がどんなメッセージを送っても、人はその人なりの選択を続ける。まるで、そんなメッセージが存在しなかったかのように。

「海の音」を読んで思い出したのは、大島弓子「ヨハネが好き」のやすべえのことだ。
男の子の名前も夜羽根だし。なぜ、今こういう懸命な女の子のことを描いたのか。

そして、「海の青」にも「青いドア」にも登場した小説家・生方が活躍するのが、前後篇の「世界の終りにたった1人で」。
「グレン・スミスの日記」を思い出させる。
20代に作った「グレンスミス」では、いかにも頭で作ったような物語だったが、
日本の現代を題材にした「世界の終りにたった1人で」では、萩尾自身の時間と重なる。
1915年生まれの大津ちづや、1925年生まれの千田巴は、萩尾望都の親の世代だ。

萩尾望都も、とうとう老境を描く年齢になったのか。
美しいままで死んでしまう「雪の子」を描いてから40年近い時間が過ぎ、
亡くなった人の思いを受けつぐ「アメリカン・パイ」からも30年以上が過ぎ、
一つの思いを自ら死後に託すという心境に、萩尾望都も到達したのだ。

そんなことを感じながら、私たちは年齢を重ねていくのだろう。
たぶん、そういう人生なのだ。


   萩尾望都によって主人公にひっぱりあげられた化け猫「ゲバラ」

                        ------萩尾望都「菱川さんと猫」を読む(2010.10.2)


今年で20回目を迎える「ゆきのまち幻想文学賞」というものがある。青森を拠点とする「ゆきのまち通信」が主催する文学賞である。
「ゆきのまち」はともかく、なぜ青森で「幻想文学賞」なのかよくわからないのだが、
それよりも謎なのは、初回からずっと、萩尾望都が審査員をしていることである。

などというのは大きなお世話だが、そんな文学賞から大きな成果が生まれた。
「第17回ゆきのまち幻想文学賞」佳作の「菱川さんと猫」を原作に、
審査員の萩尾望都が漫画化し、他の二作とともに単行本となったのである。

舞台は、青森を思わせる「穴森市」。 「白雪タイムス」に勤める白湯子が年始に出社すると、先輩の菱川さんの席にいたのは、「猫」だった。
そういえば、白湯子は、子どものころから「化け」が見える体質だったのだ。
カバーを見ると、 「田中アコさんの書くお話のゲバラ猫があまりに可愛いので、お願いして漫画にしてみました。」
という萩尾さんのコメントがある。

原作は大賞作ではなく、佳作である。それだけ、萩尾さんと波長のあったのだろう。
しかも、さらに「ゲバラシリーズ」として2作が描かれているのも
萩尾さんとの信頼関係の強さがうかがわれる。

猫・ゲバラは人間の世界を化けながら自由に動く。
ゲバラは狂言回しとして、人間の弱さゆえに生まれる切ない物語に立ち会う。
最初は「と猫」扱いだったゲバラは、萩尾さんに拾い上げられることで、
「ゲバラシリーズ」と命名されるほどに、大きく成長したわけだ。

単行本化に向けて新作が発表されたということは、 この3作でシリーズも一区切りということだろうが、
売れ行きによっては、大人の事情が働くかもしれない。

突然、投稿者から原作者に引っぱり上げられた田中アコさんにとって、そのことが幸福かどうかは分からないが、
一読者としては、もう少し「ゲバラシリーズ」を見てみたいとも思うのである。


   本物の母との相克を昇華させるかのような理想の母への追慕

                        ------萩尾望都「春の小川」を読む(2011.5.14)


「ここにはないどこか」シリーズの3冊目である。登場人物が共通するいくつかの短編が並ぶ。

「水玉」「シャンプー」「海と真珠」は、私が勝手に大島弓子の「ヨハネが好き」との共通性を感じている
謎の多い美青年・夜羽根とけなげな少女・舞との、もどかしい恋愛物語だ。
微妙に表情がゆがんで左の目元にホクロがあるという姿を見ていると、この夜羽根は、往年のアイドルスター沢田研二に見えてくる。
私生活が謎というのも、当時のアイドルに近いイメージだ。

「百合もバラも」は、小説家・生方正臣のシリーズ。
妻からの突然の告白は、なんと妊娠。すでに思春期の上の子たちは微妙。
それにしても、「オマジナイ」の効果のすごいこと。この年代だから描ける大人の物語であるなあ、と感じさせてくれる。

「花嫁」は、世界史的な場面に、黒衣の男が立ち会う「メッセージ」シリーズ。
フランス王女カトリーヌがイギリス王ヘンリー五世の求婚を受け入れる前夜、黒衣の男はカトリーヌの前に占い師として登場する。
彼はいくつかの未来を予言する。調べると、男の言葉に嘘はない。
歴史のある時、ある人物のある決断が、大きく時代を動かすことはあるのだろう。

そして、表題作の「春の小川」である。 名作「柳の木」を思い起こさせるが、時代も設定も微妙に違う。
生方正臣の弟・雄二が中学に上がっているから、1980年ごろの設定だ。
まだ萩尾望都の実母は健在のはずで、なぜ、ここへきて、 亡き母(の幽霊)を男の子が慕うという作品を連作しているのか不思議でもある。
もちろん、私生活を作品に反映させねばならない理由はないのだが、
萩尾望都の心の中の何が、「母親を追慕する少年」という姿になったのかが、 いささか気になるのだ。

萩尾望都といえば、「双子テーマ」で知られているのだが、
うまくいかなかった「本当の自分」の代わりに「もう一人の自分」が登場するように、
現実社会にいた「本物の母親」とは上手くいかなかったが、
実在しないが理想化された「もう一人の母親」を登場させることで、
萩尾望都が仮託する主人公の少年の姿で理想の母を追慕することができる、という図式が浮かんだが、
さすがに、少し不謹慎か。



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