創作の楽屋裏を垣間見る

                                    ―――萩尾望都「一瞬と 永遠と」を読む(2011.7.26)

 ここへ来て、萩尾望都の文章の本が立て続けに出版されている。どういう力学が働いた結果なのかは推し量りようもないが、 萩尾望都の文章をまとめて読む機会が得られるのは、実にありがたいことだ。

 全体は4章建てのエッセイ集だ。
 第1章は、いわゆる普通のエッセイが11本。旅行をテーマにしたものが多い。それも、対馬の神社、野幌の雪景色、竹富島の牛車という国内にしても、ケニ アのサバンナ、ガラパゴスのゾウガメという海外はなおさらに、なかなか普通の観光客が行きそうもないユニークな場所が多い。萩尾望都ともなれば、それだけ 世界中のいろんな場所に旅行しているのだろうし、多忙な日々を過ごす中で、こうしたネタ取材を兼ねたような旅行が数少ないストレス発散なのかもしれない。

 第2章は、書評と作家評が13本。ユリイカの数本は、作家特集に寄稿したものだろうか。書評は、文庫化されたときの「解説」にあたる文章が多い。
 まず驚かされたのは、萩尾望都が解説するそれぞれの本をじっくり読みこんで書いているということだ。けっして、おざなりな紹介にとどまるのではなく、も し気になった個所があると、登場人物が置かれた状況や心情を冷静に分析し、その結果、その人物がどのように対処していったかを念入りに説明してくれる。
 物語を作る側であるせいか、場面を抽出して解説する手際が実に鮮やかで、読んだことのない本でも、一度は手にしてみなければと思わせるところがある。 逆に、(私が読んで、非常にがっかりした)とある本については、本と無関係な身辺雑記を延々と続けて、本の内容に立ち入らない。(正直だ。)

 第3章は、マンガ評が10本。そのうち5本が手塚治虫である。このことは、十分に誇ってよい。
 ある年代以上の漫画家で、手塚治虫に影響されなかったものはいない。もし自分の中の「漫画の神様・手塚治虫」を語れと言われれば、いくらでも語る言葉を 持っているだろう。しかし、手塚治虫が「神様」であるからこそ、語ることを許される人間は言いてされてしまう。、つまり、神に近づくことができ、神に代 わって言葉を発するものとして、萩尾望都が認められたということなのだ。思わず解説に引き込まれてしまった「ルードウィヒ・B」が 未完であったことを思いだし、その喪失感さえも追体験してしまった。

 第4章は、映画評とバレエを中心にした舞台評が12本。そういえば、映画も、バレエも、萩尾望都に活力を与えてくれるものたちだった。なぜ、そうするの だろう。なぜ、そんな風に描くのだろう。それを考えることが萩尾望都の映画の見方だ。
 例えば、「戦鑑ポチョムキン」の乳母車が落ちて行くシーンをとりあげる。乳母車が何を象徴しているのか、なぜ、落ちて行く乳母車が見る者を張り詰めさせ るのか。そもそも、なぜ、「戦艦ポチョムキン」という映画は、乳母車のシーンを必要としたのか。
 そして、おそらく、日々の生活の中でそんなことを考え抜いた結果が、萩尾望都の新たな創作の源泉につながっているに違いない。そんな意味では、全編を通 して、萩尾望都が「何からできているのか」を十分に感じさせてくれる文章になっている。

 こういう楽屋裏があって、あの創作があるのだ。

 


      

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