人生の確かな手ざわりを感じさせてくれる映画

                                  ――― 映画「舟を編む」を見る(2013.5.19)


2012年に本屋大賞を獲得した話題作の映画化である。
「舟」になぞらえられた「辞書の編集」をテーマにしている。

編集部では常にラジオを聴き続けることはもとより、ファスト・フード店では女子高生の会話にまで聞き耳を立てる「用例採集」。
先行する辞書から抜きだしはもとより、用例採集などで補った大量のカードからなされる「見出し語の選定」、それも24万語。
そして、けっして意味を変えてはならないが、辞書なりの独自色がなければ意味がない語釈の「原稿執筆」。
編集方針の決定から辞書の発刊まで、15年もの歳月を必要とするというのもうなづける。
 
と書いたものの、これでは映画のレビューというよりも、原作の小説か、あるいは単に辞書編集に対するコメントになってしまう。
ただ、この映画は、変に技巧をこらすことなく(専門的な部分でどこまで正確なのかはわからないが)、
とりあえず辞書編集をまっすぐに描いていく。

こだわりが強く、いささかコミュニケーションに難はあるものの、言葉に対する鋭敏な感覚を持つ辞書編集者・馬締に、松田龍平。
松田は、粘り強く辞書編集に取り組む主人公を、静かだが使命感を内に秘めた存在として演ずる。
要領の良く立ち回るチャラい先輩編集者・西岡に、オダギリジョー(短髪時には気がつかなかった)。
オダジョーは原作の仕掛けを十分に活かして、最後の最後で、なかなかに格好良いオトコに仕上げてきた。
編集主幹をつとめる老国語学者・松本には、加藤剛。
「今を生きる辞書」という大胆な編集方針とはうらはらに、その仕事ぶりは、あくまでも実直だ。
主人公の下宿先に現れた大家の孫娘・香具矢に、宮崎あおい。
香具矢は、辞書編集の場面に負けないくらい、馬締との深く静かな愛をはぐくむ。

本当のところ、15年もかけて辞書が出来上がりました。ただ、それだけの映画だ。
しかし、演ずる側の役者に力があり、役者が演じている空間がしっかりと作り込まれているので、
ひたすら辞書の編集作業を続けるというだけの地味な映画であるにもかかわらず、一つ一つの場面に力があり、
見ていて飽きることがない。 そして、ついには辞書が完成に至ったとなると、なぜかしら我が事のように嬉しくなってしまっている。

ところで、「今を生きる辞書」に東日本大震災が登場しないと、かえって不自然という配慮もあったのだろう。
原作では、はっきりとさせていなかった時代設定が、映画では(2011年以前の)1995年から2010年と明確にされている。
しかしながら、結果的に、編集の始まった1995年というは、実は阪神・淡路大震災の年であり(オウム事件なんてのもあった)、
その当事者であった私にとっては、映画の冒頭に登場した「1995年」という文字に、
反射的に「震災の年」という特別な想いを抱いたことも否定できない。
(もちろん、1985年よりもはるかに多くの人が、「2011年 東京」に敏感に反応したであろうし、それを避けたかった事情もわかる。)

映画では、辞書の完成後も(十数年後に発刊されるであろう) 改訂版のために、編集作業を始める馬締が描かれた。
「大渡海」が出版された翌年に発生した東日本大震災においても、たくさんの新しい言葉が産まれ、広がっていった。
そんな世の動きを感じながら、今日も馬締は「今を生きる辞書」の改訂版のために、静かにこつこつと用例採集につとめているのだろう。
ふと、そんな空想をしてしまいたくなるような、確かな「手ざわり」というものを感じさせてくれる映画だった。


     豊かな語彙で正しい日本語を当たり前に話すという苦労

                             ――― 三浦しをん「舟を編む」を読む(2013.7.4)


映画を見た後で、原作を読んでいる。最近、このパターンが多い。

それにしても、「辞書編集」をテーマとする小説を書くという ことは、
作者の三浦しをんに対して思いのほか大きな負荷をかけることになってしまったようだ。
それは、原作において、映画以上に丁寧な編集作業が描写されたという理由からではない。

第一章では、「辞書に捧げられてきたと言っても過言ではない」人生を送ったベテラン辞書編集者・荒木の視点で描かれている。
第二章は、荒木の後継者であり、人とかかわるよりも言葉と関わる方が得意な全編の主人公・馬締の視点で描かれる。
第三章がお調子者の先輩・西岡の、第四章がファッション誌出身の若い女性社員・岸辺の視点になるが、
第五章では、再び馬締の視点に戻る。

ただでさえ、「日本語を正しく説明すること」にこだわる辞書編集部が舞台である。
しかも、そんな作業を好んで行う「豊かな語彙で正しい日本語を当たり前に話す人々」どうしが会話を交わし、
あるいは、そんな正しく豊かな日本語の使い手が「正しく豊かな日本語で感じたままのこと」が独白として表現されていくのである。

あまり使わなくなった難しい表現を意図的に使用しているような場面だけではない。
それ以外の、ごく当たり前の地の文でも、それが馬締の視点であるなら、
十二分に日本語としての正確さと語彙の豊かさに気を配らねばならず、安易な形容詞やうかつな流行語を用いることで、
いかにも語彙の少なさを感じさせるような表現は、辞書編集と同じくらいの丁寧さで取り除かれねばならなかったからである。

とはいうものの、ひょっとすると三浦しをんは、当初、清水義範さながらのパスティーシュをねらっていたようにも思える。
そもそも、主人公の名前は「馬締」と書いて「まじめ」だ。編集される辞書の名は「大渡海」と書いて「だいとかい」だ。
まじめな馬締でなくても、「だいとかい」と聞けば、「あ〜あぁー!はってっし〜な〜い〜」の歌がまっ先に頭に浮かんでこようというものだ。

ところが、「大言海」や「広辞苑」や「大辞林」や「大辞泉」といった先行する辞書よくに似た「大渡海」という言葉を創作(もしくは発見)し、
そこに、「言葉という宝をたたえた大海原をゆく舟」という意味まで与えてしまったならば、これは、もう正面から描き切るしかない。
実は、冗談で始めたのかもしれないものが、三浦しをんの小説家としての力量や、言葉に対する鋭い感性や真摯な姿勢によって、
逆に冗談ではすまされないようなところに、三浦しをん自身を追い詰めていったようでさえある。
掲載誌が「CLASSY」という女性向けファッション誌であったことも、そんな邪推をしてしまいたくなる。

物語の最後は、言葉や、言葉の連なりである物語や、物語が集められた本を好むものなら、
皆が納得できるような、あるいは少し嬉しくなるような王道の結末を迎えた。

小説には映画では省かれていた大切な言葉が少なからずあったし、逆に映画だけの印象的な場面も多くあった。
映画は画面の隅々にまで気を遣いながら、一目だけでも訴えかけるように描こうとするが、
小説では言葉を重ねながら、読者の想像力を喚起させるように丁寧な描き方をする。
違いがあると言ってもそれだけのことで、場面そのものの違いは、さして気にならなかった。

要は、小説にしても、映画にしても、 十数年に及ぶ「大渡海」編集のほんの一部を抜き出したにすぎない。
小説にはなかった映画の場面は、きっと小説が描かなかった別の日の出来事だったのだろう。
そんな風にまで思わせてしまうほどに、映画の出来はよかった。
しかし、それは、そもそも馬締を始めとする「大渡海」編集部を、生きた人としてゆるぎなく描き切った小説の力でもあるのだ。



     映画「舟を編む」公式サイト         
     光文社「舟を編む」特設サイト
     本屋大賞公式サイト内「これまでの本屋大賞」ページ             

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