小学三年生の芦田愛菜が小学三年生を演じるという幸運

                        ――― 映画「円卓〜こっこひと夏のイマジン」を見る(2014.7.31)


天才女優・芦田愛菜の映画初主演作である。

ドラマ「明日、ママがいない」では、養護施設で暮らす子どもたちのリーダーとして、
大人が見過ごす子どもたちの心情を汲み上げつつ受け止めるという、大人以上に大人であることが求められる難しい役をこなしていたが、
この「円卓」での芦田愛菜は、全くの子どもだ。

大阪近郊の公団住宅に暮らす小学三年生のこっこは、好奇心旺盛で、傍若無人で、元気で、正直で、ワガママで、まっすぐだ。
気になる言葉は、とにかくジャポニカの自由帳に書き留め、「普通」でないことにあこがれている。

「ものもらい」(関西人なら「メバチコ」やろと思うが、まあいい。)になった級友が眼帯をしているのをカッコイイと思って、
翌日、同じように眼帯をして、「えんきんかん」がなくなることを実感してみたり、
紛糾する学級会に、委員長の朴くんが「パニック」になって「ふせいみゃく」で倒れると、同じようにパニックで倒れてみたりする。

朴くんが「ざいにちかんこくじん」であることを告げると、「三世なんて王様みたいでカッコイイ」と素直に口にするし、
ゴッくんの両親が「ボートピープル」だったことや、幼馴染のぽっさんの吃音に対しても、
その「平凡さ」からの距離に心の底からあこがれている。

という演技を、本当に小学三年生の芦田愛菜がものの見事にやってのけるのである。

台本は何百回も読んで身体にしみこませ、監督の注文にも即座に対応し、
両親を演ずる八嶋智人や羽野晶紀のアドリブの掛け合いにも割り込んできたのだという。
役者として計算しつつ、主人公・こっこになりきる。
それを当たり前のようにできる女優・芦田愛菜がそこにいる。

関西の小学三年生・こっこのひと夏の心の成長を描いた映画を、
関西出身の芦田愛菜が小学三年生だった2013年の夏に撮影できたという幸運。
彼女に断られていたら、映画は作らないつもりだったという行定監督の言葉もうなづける。

で、映画そのものなのだが、ドラマ「明日、ママがいない」でもそうだったように、
芦田愛菜が演じることで主人公にリアリティや存在感が出すぎてしまい、少し緩めに設定された物語世界の方を許さず、
普通のフィクションであれば許される程度の現実からの逸脱が、
決定的な欠点であるかのように増幅されてしまうように感じたのだった。

ものすごく歌の上手い人が歌う童謡が、どこか居心地の悪さを感じさせてしまうように。



   騒がしいまでに過剰な情報に彩られた小学三年生こっこの夏

                                 ――― 西加奈子「円卓」を読む(2014.8.26)

例によって、映画を見たから読んだ原作である。

この10年ほど、柴崎友香や津村記久子といった
1970年代生まれの女性小説家が「咲くやこの花賞」や「織田作之助賞」を受賞し、
関西女子系小説家と呼ぶべき一群の新しい才能として登場している。
この西加奈子も、そうした一人である。

彼女らは、文学少女を気取るほどには浮世離れをしておらず、
普段は大阪のオッサンにもまれつつ、油断すると大阪のオバチャンになりかねないところを、
なんとかナナメヨコから世間を見つめることで自意識を維持しているような印象がある。

と、ここまで書いて、それって、主人公の小学三年生・こっこのことやん、とも思う。
「関西女子系小説家っぽい・こっこのひと夏」を西加奈子は、どう描いたのだろうか。

読み始めると、とにかく騒がしい。
場面に対して大量の付箋をつけるがごとくに、その場にいる人物の過剰な情報が提供される。

主人公の小学三年生・こっこの食卓の場面に登場した祖母・紙子について、
「八人きょうだいの長女、早くに亡くなった母の代わり、弟の鼻水涎鼻糞、妹の糞尿虱、 なんでも取ってやった。
もちろん素手である。皆を成人させ、やっと三十歳で嫁いだ時には、世話をする人間が夫ひとりなのに感動した。」と続く。

クラスの中の女子に早熟な者がいて、担任のジビキの気を惹こうとするという描写に続いて、
「ジビキには実際、学生時代からの恋人がいる。彼女はジビキの三つ上。三十四歳である。
厄年を異様に怖がる女で、前厄、本厄、後厄の三年間は、ご神木のように静かに暮らしていた。
何故かその間、ずっと黒い服を着用、会社の同僚に<誰かを弔っている><すわ未亡人>と思われていたのであるが、
厄が晴れたら一転、鼻息荒く、火の鳥のような服を着用するようになった。」と注釈がつく。

それらが、家族だんらんの夕食の場面や、図工の教室の場面で突然挿入されるので、
その人物を深く描写するのに端的でわかりやすいとは思いつつも、今、そういう情報を求めていたっけ、というためらいも残る。

特に、映画から小説に戻ったので、
この描写をこの場面で映画に再現させるのは、さすがに無理だよな、 と思いつつ読み進めてしまった。

とはいえ、映画で伝えきれなかった部分が残っていた「こっこ」の心の成長と、
それを導き出していた「ぽっさん」との言葉(と心)の交流がしっかりと書き込まれていた。
映画ではもどかしかった部分が、少しすっきりしたような感覚だ。

なるほど、こういう物語だったのか。
いろんな意味で納得した。




     Wikipedia 「円卓(小説)」ページ  
     シネマトゥデイサイト内 「<円卓>芦田愛菜&行定勲監督単独インタビュー」ページ                    

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