この際だから、「コピー、なぜ悪い」と言ってみる

                                            ――――― 「コピーの時代」展を見る(2004.6.20)

滋賀県立近代美術館の「コピーの時代」展を見ました。
サブタイトルは「デュシャンからウォーホル、モリムラへ」とあります。

森村泰昌をデュシャン、ウォーホルと並べる大胆さには驚かされますが、
コピーすることを通して自分の作品づくりをしているという意味では、
確かに「モリムラ」もデュシャンやウォホールの仲間に入れてもいいのかもしれません。

あるいは、デュシャン、ウォーホル、モリムラを初めとする数々の現代美術家の手法を「コピー」と言い切ってしまい、
そこから現代美術における「コピー」の意義を問いかけようとするこの展覧会の意図の方が、
「モリムラへ」というサブタイトル以上に大胆かもしれません。

まず、展覧会の冒頭を飾るのは、デュシャンの代表作である(男子用小便器にサインをしただけの)「泉」
(1)です。
(モナリザの複製画にヒゲを描きこんだ)「L.H.O.O.Q」
(2)を始め、
自転車の車輪や 瓶乾燥器をそのまま「作品」と言い切ってしまったレディメイドシリーズの数々が並びます。
大衆文化を題材にしたウォーホルの 「マリリン」 「キャンベルスープ」のシリーズに続くのは、
同じポップアートのリキテンシュタイン 「泣く女」です。

日本からは、もはや古典とも言える赤瀬川原平の「千円札」シリーズが登場し ます。
(3)
また、福田美蘭の「帽子を被った男性から見た草上の二人」など画中人物の目線で描きなおした名画のシリーズ、
名画から主要人物を消して描きなおした小川信治の「WITHOUT YOU」シリーズ
(4) など、古今の名画を題材にした作品もあります。

そして、モリムラはこれらのあらゆる場面にからんできます。
ウォーホルの「マリリン」や「エルヴィス」の横には、彼らになりきったモリムラがいます。
(それらは、マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリー本人ではなく、
 ウォーホルの作品の「マリリン」や「エルヴィス」になりきっています。)
赤瀬川の千円札の横に積み上げられた千円札の札束に描かれた顔は、もちろんモリムラです。
西洋名画からは、ロセッティの作品を題材に、そこに登場する女性たちがすべてモリムラ自身と置き換わっている作品があり、
指のようにも見える野島康三の「仏手 柑」の写真の横には、それをモリムラの手足の指で再現した作品があります。

他にも、岡本光博のコンビニエンス・ストアのロゴサインの背景だけを再現した作品(5)があったり、
小沢剛のインスタレーション 「醤油画資料館」では、日本美術史を「幻の醤油画」の歴史として読み替え、
実際に各時代の作品を醤油で描くことによって再現しています。(6)

また、福田美蘭は、(著作権について口うるさい)ディズニーキャラクターを
直接描いてはいないものの明らかにそれとわかる作品を描いてみたり、
黒田清輝の「湖畔」をカラーコピーした後、 その画面の外側を想像して描いている作品
美術館の所蔵品である(ために実際に着物として着ることができない)志村ふくみの着物を、
自画像の中で着込んでいる作品などがありました。

なるほど、これらの作品はオリジナルの現代美術の作品ではありますが、
確かに世間にあふれている器物や過去の名作というすでに存在する何ものかをコピーしたと言えなくもありません。
しかし、それでも妙に楽しいというか興味深いというか、とにかく作品として成立するだけの何かを感じさせてくれます。
「コピー」であるにもかかわらず、魅力的な作品が多数生まれているということでは、
確かに今は「コピーの時代」であるのでしょう。

そんな「コピー」という手法の持つ意味をより積極的に考えるため、
ちょうど当日に開催された森村泰昌の講演会助けを借りながら、見ていくことにしましょう。

さて、森村は、「今日はコピーをめぐる三つの話をします」といって話し始めました。
まず、平原綾香の「ジュピター」を場内に流し、続いてホルストの「ジュピター」を流します。
その間をつなぐものとしてホルストの「ジュピター」を使用したCMの存在を指摘しつつ、
その以前から「ジュピター」のメロディを日本人に耳なじむようにしていた存在として、北島三郎の「与作」を指摘します。

といっても、世間によくあるパクリ論議ではなく、
誰もが心地よいと感じるメロディには共通するものがあるということ、
さらにホルストの組曲自体がもともとヨーロッパの民謡を題材にしているらしいことを引用しながら、
「民謡―クラシック―演歌―Jポッブ」とつながる人の耳に心地よいメロディが時代や場所を変えながら何度も再生され、
その度に感動を新たにすることが出来たのだ、と力説します。

この「感動を新たにする」というところがポイントで、
同じ(ような)作品に見えても処理方法が変われば新しい感動があり、
新しい作品として人々に受け容れられるのだということを主張します。

次は、自分の制作秘話です。
たとえば、今回の展覧会にも出品されているモンローになりきった写真の撮影時のエピソードとして、
正面から写した(本来の)「モンローなりきり写真」の撮影が終わった後で、
ふと斜め前に置いてある鏡に映ったモンローに扮した自分の姿が美しいと思い、つい斜めから見た写真も撮ってしまいます。
それは、とある「モンローの写真」のコピーとしては不完全ですが、
それなりに「モンローのコピー」から出発したそれなりの美しさを保っています。

ところが、森村はついでに面白がって「斜め上から見下ろした写真」を撮ってみたり、
とうとう「かつらをはずし衣装を脱いだ自分の姿」が鏡に映るのを見て、これも美しいじゃないかと写真に納めてしまいます。
それらの写真は、もはやモンローメイクをしている点を除けば、
「モンローのコピー」から出発していることをまったく感じさせないのですが、
確かにそれなりの美しさをもった作品に仕上がっています。

また、宝塚歌劇をテーマにした展覧会用の作品として、
「なりきりオスカル」と「なりきりアントワネット」の写真を撮影し、
さらにタカラヅカらしく「大きな羽根を背負ったフィナーレの姿」の写真を作品として制作しました。

そして、ふと大きなフィナーレ用の羽根飾りに色とりどりのライティングの光があたる姿が美しいと思い、
その羽根飾りだけの写真を撮ってしまいます。
中空に浮かぶ 「ライティングされた羽根飾り」だけを見ても、「ベルばら」から出発したとはなかなか思えないだろうが、
どこかタカラヅカを感じさせる一枚になった、と森村は主張します。

オリジナルとして発表されている作品の中には、似たような過程を経た上で
いわゆる「ライティングされた羽飾り」の部分だけを作品として発表している例は少なくないと森村はいいます。
つまり、森村の発表する「コピー」には、すでにオリジナルな美しさを内包しているのだということを指摘するのでした。

続いて第3話は「そっくりショーは、なぜ笑えるか」という話になります。
題材は、 南伸坊の顔マネ写真集です。(7) もともと個性的な顔立ちであるはずの南伸坊が、
カツラをつけたり、衣装や表情、しぐさを似せていくことで、何となく「その人らしく」見え始め、
作品によっては会場から笑い声があがるほどの見事な出来ばえになっています。

そして、この顔マネがなぜ笑えてしまうのかということについて、
マネをされている人に対して私たちは「すでに」どこか違和感を感じていて、
マネをする人はそれが何なのかを明らかにして見せて、さらに強調しているのではないかと言います。

つまり、モノマネというコピー作品は、
オリジナルの持っている「見え方」「見られ方」というものをいっしょにコピーしているのであり、
オリジナルに対して誰もが感じている何かをわかりやすく再現しているから、そっくりショーは笑えるというわけです。

と、ここまで来て、「コピー」は「感動を新たにしている」のだという最初の議論に戻ります。
こうした「感動を新たにする」ための美の再生産の過程を「コピー」と呼ぶのであれば、
それは、けっして特別なものではなく、創作活動の中で当たり前に見られる作業なのではないか、
というのが森村泰昌の主張でした。

もうここまで言われてしまえば、これ以上何も付け加えることはありません。
これだけ自分の創作手法を論理的に語れるのは、さすがに、コピーの巨匠だけのことはあります。
コピーの名の下にモリムラを取り上げたというよりも、
モリムライズムを理解しやすくするために、この展覧会が開かれたような気さえします。

そして、この大胆な展覧会は、最後に心憎いような謎かけをしてくれました。
「Ideal Copy Art Museum」と題されたコーナーには、ブランクーシの「空間の鳥」を2点、
デュシャンの「トランクの中の箱」3点が並べられています。
これらは、どれもがオリジナルであり、どちらかがコピーというわけでもありません。

それまで様々なパターンの「コピー」による作品を見てきた後だけに、
どちらもオリジナルである作品が整然と並んでいるのを見ると、
おのずと「オリジナルであること」の意味に疑問を持たざるを得ません。
しかも、ブランクーシの作品がいずれも作者の死後に鋳造されたものだという事実も、
「オリジナルであること」の値打ちを台無しにしてくれます。

もちろん、きちんとした作品管理の下で再鋳造をされた作品は間違いなくオリジナルであり、
ふだんはそれぞれの美術館の彫刻室を立派に飾っているはずです。
ところが、「コピーの時代」という展覧会に不用意に(というか意図的に)2つのオリジナルが並んでしまうと、
どうにも怪しげに見えてしまうのでした。

「トランクの中の箱」の方も、「マルチプル」と名づけられ、もともと複数生産されていたものなのですが、
だからといって複数並べてありがたいというものでもありません。
そもそも、「トランクの中の箱」はデュシャンの主な作品の縮小コピーをトランクに詰めた作品です。
つまり、会場には、「デュシャン作品の縮小コピーを詰め込んだ」というオリジナルが複数生産されており、
その中の3つがわざわざ並んでいるということなのです。

しかも、この空間は単に美術館が作品を借りて展示したのではなく、
そのコーナー全体で「アイデア ルコピー」という関西美術家グループによるプロジェクト作品だったのです。
このオリジナルとコピーの錯綜した空間を、私たちはどうとらえればいいのでしょうか。

見立て、なりきり、再現、引用、再生産という様々な「コピー」の手法を目にすることで、
ついに「オリジナルであるということ」の持つ意味にさえ、疑いのまなざしが向けられるにまで至りました。
最初は面白半分で見ていた作品たちも、妙に堂々としたものに見えてきます。

ここはもう、大島渚にならって、こう言い切ってしまうしかないでしょう。
「コピー、なぜ悪い。」
なぜなら、今はコピーの時代なのだから。

 


 (1)  1917年、ニューヨークのアンデパンダン展に偽名で出品されたこの作品は、(参加費を支払えば誰でも出品できる)アンデパンダン展であるにもかかわら ず、
   「芸術か否か」の論争の末に行方不明になり出品されることはなかった。ちなみに、出品された作品は、1964年に「再制作」されたものである。 
 (2) 「L..H.O.O.Q.」は、「Elle a chaud au cul(彼女の尻は熱い)」という意味の猥褻なスラングなのだそうだ。
 (3) 「押収品」と題された自家製千円札シートによる梱包作品は、東京地検による押収時の荷札がついたままだったりする。
 (4) 例えば「WITHOUT YOU―牛乳を注ぐ女」では、フェルメール独特の暗い部屋の中で、口から牛乳が出ている陶製のポットがそれを持つ女の姿がないまま
  中空に浮かんでいるという不思議な空間が生まれている。
 (5) コンビニ各社の協力を得て、配色などの規格を一般店舗にあるものと全く同じにし、実際に看板を制作している会社に「発注」しているらしい。
 (6)  なかなか味わい深い(醤油で描かれた)水墨画もさることながら、白髪一雄のアトリエを忠実に再現した「資料写真」と足で描かれた(と思われる)醤油画は
  秀逸だった。さらに、今回の企画として、金山明が絵の具をたらし続けるラジコンカーを使って描いた「Work 1961」(制作風景ビデオあり。)の横に、
  それを忠実に同じ手法で、しかし醤油で再現された「醤油画(金山明)」も展示されていた。
 (7) 南伸坊「本人の人々」。私も
レビューを書いている。

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