2000.08.12up
きっかけ
上郷 伊織
♪ ♪ ♪
あの人は来てくれるだろうか?
──── 坂の下の公園で待っています。
何とか話し掛けたくて、でも、出来なくて・・・・・。レジに立つあの人に思い切って渡してしまったメモ。
彼女はどう思っただろう・・・・・・・。
悪友に半ば無理矢理連れて行かれた喫茶店。
そこは某女子大学のお嬢様方が集うという事で有名なところだった。
友人の目的は単なるナンパ。
俺は女の子を釣るための餌。
喫茶店を出る時、新米らしいバイトの娘が慣れないレジスターに悪戦苦闘していた。手助けに来たのが、その時、隣のレジにいた彼女だ。
にっこり笑ってレジを打つ彼女の笑顔に、一瞬、俺の時間は止まった。
自分の身体に流れているものが熱いと実感したのも、この時だった。
それから随分と長いこと、俺はその時の気持ちが何なのかも解らず、時折思い出す彼女の横顔を、不可解なものだと思っていた。
その話を友人達にすると、思い切りひやかされ、「それは恋だ」と言われたが、横顔しか、はっきりと思い出せない彼女に恋するなんて、あり得ない事だと思っていた。
俺自身、恋なんてするつもりもなかった。
だけど、彼女の事を思い出す度、会いたくて、会いたくて、どうしようもない衝動に駆られる。
まだ、一度も話した事もない人に、なぜ、こんなに会いたいんだろう?
何度か店の前を通り過ぎる振りをして、彼女の顔を見に行った。
テキパキ働く姿や、お客さんへの変わらない笑顔が俺を幸せな気分にさせる。
今日も、やはり店の前を通り過ぎるだけのつもりで、駅前からその喫茶店へ続く坂を駆け登った。別に急ぐわけでもないのに、彼女の笑顔が見られると思うだけで、駆け出したくなるのだ。
彼女が近くにいると思うだけで、早く会いたいと思ってしまう。
阿呆だと思う奴は思えばいい。
喫茶店の入り口で、ガラスのドア越しに中を覗いたその瞬間、彼女と目が合ってしまった。
俺を迎えた満面の笑顔に惹き付けられるように、俺は店の中に入った。営業用の「にっこり」だということは判っている。判っていても、入らずにはいられなかった。
そう、彼女の笑顔は少なくともその瞬間だけは、俺一人のモノなのだから。
彼女が俺に微笑んだ。
ただ、それだけで、天にも昇る心地になっていた。
健康的な少し日に焼けた肌に、つり上がり気味の意志の強そうな大きな瞳、凛々しい眉、ともすれば少年と間違ってしまいそうなショートカットの髪。
その子が俺はたまらなく好きなのだ。
容姿だけを見れば、気の強い娘だと勘違いする人も多いだろう。
だが、俺は知っている。
彼女が優しい人だって事を。
あんなに素敵に笑う人が優しくないわけがない。
俺はそう、信じている。
時折、俺と目が合うと彼女は遠慮がちに微笑んだ。
微笑まれる度に、もっと彼女と一緒にいたい。
そう思った。
話し掛けてみようか、と思いつきはしたものの、何をきっかけに話せば良いのかわからなかった。
彼女は仕事中で、俺は客。
話し掛けるなんて迷惑この上ない。
でも、俺は思い切って店を出る時に彼女にメモを渡した。
彼女の笑顔を独占出来る男になりたかった。
そこまでの関係でなくとも、せめて自然に彼女と話が出来る、彼女の隣を歩ける位置に辿り着きたかった。
だが、殆ど知りもしない男にメモなど渡されて、彼女はどんな風に思っただろうか?
もしかして、ゴミと一緒に捨ててしまったかもしれない。 いや、優しい彼女は、そんな酷い事はしない。
きっと持っていてくれる筈だ。
こうして俺が待っているのだから・・・・・。
実は俺はあの店の閉店時間を知らない。
彼女の退出時間も。
店の人に聞けばよかったのだが、その時は思い付かなかった。
彼女を待っているうちに、燦々と照りつけていた太陽は、すっかり姿を隠していた。
ブランコや滑り台で遊んでいた子供も、もういない。
彼女はもう来ないかもしれない。
彼女にとって、俺はただの客でしかない。
でも、今日は最後まで、せめて終電の時間までは、彼女を待っていたい気分だった。
大学に入ってからというもの、俺をこんなにも高揚させる出来事は久しぶりで、勝手に彼女の事を思ってあれこれ想像しては、一生懸命バカみたいに悩んでいる。
そんな自が、俺は結構気に入っていた。理屈で何でも割り切って、人を上から見下す俺よりずっといいって事を彼女が教えてくれた。
だから、今日は、そんな馬鹿な俺に付き合ってやりたい。
もし、彼女が来なくても、彼女を想った自分の事を俺は自分で誉めてやりたい。
そんな事を考えていると、グゥーと腹の虫がなった。
「もう、八時か・・・・・」
思えば、昼に学食でパンを食ったきり、腹に貯まる物なんて何も口にしていない。どんな時でも、欲望のままに機能する自分の身体を恨めしく思いながら、俺は駅前のコンビニで肉まん五つと缶入りのお茶を二本急いで買って、また、公園に戻った。
余分に買った食料は、ホンの少しの期待がこもっていた。
本当は、彼女が来る筈がないと分かっている。
落胆する心とは裏腹に、歩きながら口にした肉まんが心の中まで浸み入るような気がする。
これを全部食い終わったら、帰ろう。
そんな気持ちになっていた。
公園の門をくぐって、もう一口肉まんを囓った。
と、その時、先程まで座っていたベンチを見遣ると、そこに一つの人影があった。
彼女だ。
俺は残りの肉まんを一口で放り込んで、慌てて彼女に向かって駆け出した。本来ならば、食い物などどうでもいい場面なのに、それでも俺は食い物を粗末にする事が出来ない。
彼女の目の前に立った時には、嬉しいのに喉が詰まって、でも、会っていきなりお茶を飲むわけにもいかない。
俺は苦しさに耐えながら、自分の胸を叩いていた。
「なにやってんの?」
噎せ返る俺の背を彼女がさすってくれている。
思った通り、彼女は優しい。
苦しむ俺に彼女はベンチに座るよう勧めてくれた。喉の詰まりに耐えきれず、俺はお茶を一息に飲んだ。
何とか人心地ついて、彼女を振り返ると、彼女は呆れ返って、俺を見ていた。
そして、彼女は俺の横に座った。
ちょっと手を伸ばせば、触れられる位の場所に・・・・・。
俺は何を言ったらいいのか、必死に考える。
最初の一言で格好良く決めたいのに、いざ、となると言葉が見つからない。
すっかりあがってしまっていた。
俺は俯いて、膝の上のコンビニの袋を見つめていた。
「・・・あの・・・・・、・・食いますか?・・・・・・」
躊躇いがちに彼女に肉まんを差し出す。
すると、彼女は困惑したように受け取り、手の中の肉まんをしばらく見つめていた。
間抜けな事はわかっている。
だけど、それしか思い付かなかったのだ。
こんな事になるなら、せめてサンドイッチにしておけば良かったと、俺だって思っている。
しかし、彼女は黙ってそれを一口囓った。
俺は金縛りにあったみたいに、彼女を見つめていた。
「・・・あんた・・・・・、変な奴だ・・・・」
女の子にしては、かなり低めの声が、そう言った。
彼女の言う通り変なシュチュエーションではある。
だが、そんなことを気にしている場合ではない。
「来てくれたんですね」
俺は感謝の気持ちを込めてそう言い、大口で肉まんを頬張る彼女にお茶を差し出した。
想像していたよりワイルドな人だったんだな、と感心しながら、俺が差し出した物を嫌がるわけでもなく食ってくれている彼女を微笑ましく思っていた。
じーん、とこみ上げる喜びを噛み締めていた。
俺の視線に気付いて、なぜだか彼女は俺を睨んだ。
「勘違いすんなよ。オレは女じゃない。それに、帰り道だからしょーがなく通っただけなんだからな・・・・・」
そして、彼女は一つため息を吐いた。
──── オレハ、オンナジャナイ
彼女・・・・・・・の・・言葉が何度も何度も俺の頭を駆け巡る。
その人を穴があく位、上から下までじっくりと眺めた。確かにシャツとジーンズに包まれたスレンダーな身体も、ほんの少し出ている喉仏も言われてみれば、少年に見える。
確かに少年のものかもしれない。
だけど、今日までの俺の気持ちは・・・・・、想いは・・・・・、・・・何処へ持っていけばいいんだ?
「やっぱり、女だと思ってたんだな・・・・・・」
彼は悔しそうに、唇を噛んだ。
頭を抱えている俺よりも彼の方が傷付いているような気がする。
こんな事がよくあるんだろうか?
だが、この可愛い顔では仕方あるまい。
「オレって、そんなに女っぽいのか?」
ショックを受けている俺にはお構いなしに彼は聞いた。
決して、男が好きなわけではないのだが・・・、不謹慎だが、泣きべそをかきそうな彼をやはり可愛いと思う。
「今、何歳だ?」
「・・・十六・・・・・」
この年頃で女と間違えられれば、そりゃあ傷付きもするだろう。
同じ男としては同情してしまう。
「もう何年かすれば、誰も間違えないさ」
間違えた張本人が言っても説得力はないが、慰めてやりたかった。
「・・・そう・・だよな・・・・・」
彼は気を取り直して、俺を見つめた。
俺は袋に残っていた肉まんをもう一つ取り出し、彼に渡す。
「あんた、いい奴だな」
彼は素直にそれを受け取って口に運んだ。
そうして、しばらくの間、俺達は黙って肉まんを食っていた。彼が威勢良く食べる姿を眺め、最後の一つも彼に与えた。彼はにっこり微笑んで、幸せそうにそれも食った。
「サンキュー。旨かったよ、肉まん」
ベンチから立ち上がり、明るく彼が言う。
「すまなかったな」
彼との別れを惜しみながらも、俺は今日の事を謝った。 せっかく彼と知り合う事が出来たが、もう、会うこともないだろう。
これ以上、彼を傷つけるつもりはない。
手を振って彼に別れを告げた。
歩き出す彼の背中を見送っていると、不意に彼は振り返った。
「ねえ、あんた、名前は?」
いきなり尋ねられて、俺は戸惑った。
「オレ、麻生広夢。あんたは?」
「橘・・・、橘秀一」
今更名乗ってどうするんだ、と思いながらも、焦れたような彼の問いに、咄嗟に応えていた。
「・・・橘・・・秀一・・・か・・・・・・・」
満面の笑みを浮かべる彼が眩しい。
別れが分かっているのに、俺は彼に見とれてしまう。
やっぱり、魅かれてしまう。
相手が少年でも、好きなものは好きなのだ。
「あのさ・・・、今度また店に来いよ。おごってやるからさ」
それだけ言うと、彼は走り出した。
麻生広夢。
お互いの名を知ったのは、まだ肌寒い春の夜だった。
おしまい
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コメント
やっぱり、昔の原稿。
短編中の短編なんだけど、麻生広夢くんが書きたかったの。
この後、どうしたのかしら?・・・・・・・・・。