2003.06.21up

誤 算

上郷  伊織

***

 不景気な世の中とは言え、人々の喧騒に賑わう週末の夜。
 就業時間を終えての疲れを伴った肉体は、ちっぽけな安らぎを求めていた。
 会社からの帰り道、煌びやかなネオン溢れる通りを避けるように、静かな狭い路地裏を選びながら、岩垣泰三(いわがき たいぞう)はしょぼくれた足音を鳴らしていた。
 通い慣れた赤提灯の暖簾を潜ると、醤油の香ばしい匂いが漂ってくる。そこには朗らかなオヤジさんの笑顔があった。
「今日は海老のいいのが入ってるよ、泰三ちゃん」
 焼き鳥屋の癖に、毎日、市場へ仕入れに出かけては、新鮮な食材を見ると放ってはおけない性格が邪魔をして、洋食屋のようなメニューが用意されている事もある。そんなアットホームさが気に入って、夕飯はココが多くなってしまった。
 三十をとうに過ぎても、独り身の泰三には有難い店とも言える。
 いつものカウンター席に腰を下ろそうとした時だった。
「おっ。来た来た」
 手洗いのドアから端正な顔を覗かせて、見慣れた青年が嬉しそうに頬を緩ませた。
「いっちゃんの言った通り、ぴったり7時だったよ」
 噂話でもしていたのか、オヤジさんも常連の高瀬一衛(たかせ いちえい)に微笑みかけた。
 内心で困惑しながら、泰三ははにかむ事しか出来ない。
 どうやら、この一衛という青年は泰三に好意を寄せているのか、最近、特に親し気に声をかけて来る。それ自体、悪い気はしない。むしろ、酒の好みや飲み方、綺麗な金の使い方を見ていて、しみじみいい青年だとは思う。
 ただの飲み友達ならば、なんら問題などないのだ。
「泰三さん、今日の海老は美味かったですよ。あの頭の塩焼きがパリパリッとして磯の香りと塩加減がね、ビールに合いますよ」
 満面の笑みを浮かべる一衛に複雑な思いを抱きつつ、薦められるままに海老を注文する。
「ねぎま、ずり、きも、今の海老と、生中を」
「あいよ」
 静かに飲める店だから、最初の内は通い詰めていた。それが、何時の間にか当たり前に通うようになって、そして、何時の間にか常連に一衛が加わって不思議な空間が生まれてしまった。
 泰三自身はこの鄙びた雰囲気にぴったりと溶け込むくたびれた親父で、顔立ちは並の上といったところか。奥二重の翳りのある瞳に余り出ていない頬骨、浅黒い肌が男を泥臭い雰囲気にしていた。指定席になったカウンターの一番奥も、最初の頃から、もう何年もいるのが当たり前のようだ、と店の主に揶揄われた事もある。
 それに対して、この青年は……一見しただけで、プレイボーイを数多輩出する一流私大学卒と予測出来る容姿なのだ。
 片や着古しのくたびれたスーツ。片やいつもパリッとしたブランド物と思しきスーツ。陳腐な例えとしては「掃き溜めに鶴」と言うほど不釣合いな人種に見える。相手にされている事自体おかしな状況に淡い期待を抱いてしまう泰三だった。

***

(ああ、また、いつかのパターンだ)
 一衛の案内で連れて来られた3件目の店のボックス席で泰三は深いため息を落とす。
 この店がいいと言った口は半分開かれたまま、いつもの熱のこもった眼差しは閉じられた瞼に隠されていた。こうして、改めて眺めると一衛の肌は白く透き通っていて。細い顎に繋がる程よい肉厚の唇も、半分開いた様が泰三を誘っているようにさえ思えてくる。
 最初に会った日、カウンターの一つ隣の席に腰を下ろした一衛を好みの男だと思った。 いつしか色々飲み歩くようになり、好きになっていた。
 一衛が誘っているなんて思う事自体、自分のご都合主義の思い込みであるとさえ思えて、泰三はガラスのローテーブルに置かれたタンブラーを見つめ、汗のように流れる雫を指で掬う。
 一衛と共にする時間は泰三にとって緊張を孕みつつも優しい。無意識の行動だとは思うのだが、酔いが深くなると、一衛は泰三にしなだれかかるように肌を密着させて、やたらと体に触れてくる。そこに劣情が含まれているのかどうかを彼の無邪気な表情は悟らせてはくれない。
 ふと、思い切って告白してしまおうか、と思う瞬間もある。
 ただ、もし一衛にソッチの趣味がなかったら…、と思うと、泰三の思考は停止した。
 今迄のように、酒場で偶然出くわして、話す事すらなくなってしまえば、もう、一衛との接点は全て絶たれてしまう。
 お互い、家を行き来するような仲でもない。
 それならば、曖昧なままの飲み友達として今のままの関係を続けていた方がいいのではないか? という葛藤が泰三にはあった。
 視線を横に流せば、子供のような顔で気持ち良さそうに眠りこける一衛の端正な顔。
 膝の上には一衛の手。その指は泰三自身に触れるか触れないかのギリギリの位置に置かれている。
(まずい)
 微妙な位置に伝わる人の熱に釣られるように、体の芯に火が点りそうで、泰三はモゾモゾと体をずらして行く。
 無意識であろう一衛の行動は、泰三の蚤のような心臓を無理やり揺さぶった。
 折角の上等なスーツの上着はボックス席のソファーの隅に追いやられ、無残な丸まってしまっている。ネクタイは緩められ、Yシャツもボタンを外して寛げられた喉元からも、艶かしい肌がいつもより露出している。
(このまま、喰ってしまいたい)
 欲望は果てなく膨らんだ。
「……い、一衛。一衛。眠るなら家に…」
 いや、そんな事が許される訳がない、と思い直し、ゴクリと唾を飲み込んで、一衛に声を掛けた時、一衛の瞼が開いた。
 先ほどまで眠っていた筈なのに、意識のはっきりした表情がそこにはある。
「いちえい……」
「まだ、分からないんだ……?」
 恨めしそうに睨む瞳が拗ねているようにさえ思えた。
「ココが何の為にある場所か、知ってるよね?」
 言われて初めて、泰三は思考を巡らせる。
 店に入った時、異様な雰囲気だとは思った。結構、こ洒落た作りの店なのに、照明は暗く、通り過ぎるカウンター席には男ばかりが5人。店員も、ボックス席に入っていった他の客も……。女が一人としていない。思い至った事実に泰三は愕然とした。
 もしかして、一衛もソッチの気があるのだろうか?
 いや、しかし、同類ならば大抵は見抜く自信があった筈……。
「自信無くしそう……」
「………え?」
 一衛の力ない呟きとともに、肩に一衛の頭の重みが加わる。
「俺、誘ってたんだけど………」
 珍しく、一衛が自分のヤサに泰三を誘ったのは、そういう意味だったのか。そう思うと泰三の頭は混乱していく。
(いや、また、都合よく考えようとしている。この思考を停止させなければ……)
 泰三は返す言葉を失っていた。
「………。もう……いいよ」
 言ったが早いか、一衛は上着をさっさと拾い上げ、席を立とうする。
「……何が、もういいんだ?」
 一衛は唇をキツク噛んだ。
「俺の勘違いなんだ、きっと。泰三さんが時々、妙に色っぽい目で見てるような気がして…。俺の事を好きなのかな、なんて思ったのは、勘違いだってわかったから」
 一衛の言葉に、泰三は衝撃を受けた。

(聞いてない。俺は聞いてない)
(今まで一言だって、そんな色気のある話なんかした事は無かったじゃないか)

 嬉しい一言の筈なのに、泰三の頭の中では、恨み言が走馬灯のように駆け巡っていた。 まるっきりの不意打ちに対処できる神経を泰三は持ち合わせていなかった。

「これ、自由に使えば」
 捨て台詞とともに、一衛は泰三に背を向ける。
手元に落ちてきた大きなキーホルダーに目を白黒させていると、一衛の姿はボックスの中から消えた。

「一体、なんなんだよ……」

 どう見ても、これはホテルのキーホルダー。

(何故、クラブにホテルのキーが……。それよりも、一衛を追いかけなければ)

 鞄も上着も放り出し、慌てて一衛の後を追ったが、表の通りに出ても姿は無かった。
 
 トボトボと店に戻り、勘定を済ませようとレジの店員に声を掛けると、すでに一衛が勘定を済ませていた。
「あ、お客様。二階のお部屋はお使いになりますか?」
 逆に問われ、困惑しながら店員の様子を伺うと、その視線は泰三が握り締めているキーに集中していた。
「……え? あ…」
 二階の部屋。

 つまりはココは発展場兼、ソッチ系のホテルという事で……。
 そこに一衛は泰三を誘った。

 二度とないチャンスだったのかもしれない。
 そんじょそこいらにいるわけもない、稀に見る気立ての良い美形の据え膳を食い損ねた男。岩垣泰三はヘナヘナとその場に座り込んだ。

                         

おしまい

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