日常
殉愛
時田 暁
調子が悪い。
そう胸の中で一人呟く。
仕事に追われてなかなか気遣ってやれない体が、何か悲鳴を上げているような感じだった。
大きく息を吐くと、たばこを手にする。
出来上がった絵を眺めながら、くわえた先に火をつけた。
出来映えは、まぁ、納得がいくものの、この体の怠さは・・・・。
一筋煙を吐き出すと、張り付くような感じが喉に残る。
喉のイガイガするのは、どうもたばこの吸い過ぎから来るものだけではないようだった。
「マズイなぁ・・・・風邪か?」
そう一人語ちた。
思い当たる節は山ほどある。
締め切りに追われて当然のように削った睡眠時間。
時間が惜しくて食事も出前で済ませていた。
心なしか熱が出ているような気もする。
しかし、まずいなぁ・・・・。
一人顔をしかめながら、漂う煙をぼんやりと見ていた。
突然鳴った電話に手を伸ばす。
顎で挟んで相手をしながら、たばこを灰皿でもみ消していた。
「宮部さん?出来てる・・・・・・・・悪いけど取りに来て」
件の担当者に用件だけ言うと、受話器を置いた。
この調子の悪いときにわざわざ車を走らせて持っていくのも辛い。
あの担当者と対面するのもある意味頭痛の種だとは思っていても、今はこの怠さの方が勝っていた。
仕事が上がったことが引き金になったのか、張っていた緊張の糸も切れかかっている。
椅子の背を軋ませて大きく伸びをすると、ゆっくりと立ち上がった。
「薬でも飲んでおくか」
ぼんやりとしたまま担当を待つ。
何もする気が起きなくて、またたばこに火をつけた。
たなびく紫煙。
その先にふと浮かぶ姿。
気まぐれな男のことを思いだして、唇だけで笑っていた。
風邪を引いたなんて事を言ったらどうするだろう?
あのきれいな眉を潜めた後、治るまで部屋に来ることはないだろう・・・・。
少しだけ苦い思い。
いつまで経っても懐かない猫のような男。
その姿を思い浮かべていた。
長居したがる担当者をすげなく追い返して、仕事部屋を後にする。
こう言うときは仕事部屋と生活空間が隣り合っているのは有り難かった。
熱が上がってきたのかふらつく足下。
壁を頼りに隣へと移動した。
「俺も年だよな・・・・」
自嘲が勝手に口から零れていく。
あれくらいの睡眠不足。
あれくらいの仕事の量。
そうは思ってみても、体は正直に悲鳴を上げている。
もう若くないことをこんな時に思い知らされるのは、何故かやるせなかった。
ドアを開けて部屋にはいると、早々にベッドに転がり込むことにした。
軋みだした関節。
ぼんやりとし始めた頭。
汚れた仕事着を着替えるのさえ面倒だった。
薄れていく意識。
今はただその闇に身を任せた。
「江口?」
薄暗い部屋にぼんやりと浮かぶ人影が声をかけていた。
「江口?」
夢の中で聞く芳文の声は妙に心細く響く。
その影に向かって微笑むと、また深い眠りへと落ちていった。
喉の渇きに目が覚めた。
暗い部屋の中に閉め忘れたブラインドから夜の光が入り込んでいる。
そのほの暗い灯りの中で体を起こした。
スプリングの揺れが暗い山を動かす。
それに目を留めると、そこには芳文の姿があった。
フローリングに座り込んだまま、毛布の上で腕を枕に寝入っている。
その寝顔にしばらく見入っていた。
伏せた睫が落とす影。
筋の取った鼻梁。
あどけない唇。
そのどれもが、自分だけのものではない。
分かり切ったこと。
それが、今は切なかった。
いつまで待っていればいい?
どれだけ時間が経てばいい?
そう胸の中で尋ねてみたところで、答えは見つからない。
気弱になっているところに、この芳文の姿を目にしなければいけないのは、苦痛に近かった。
じんとしてきた目頭を指で押さえる。
決して、手に入れることの出来ない花。
そう分かっていながら溺れた。
知りながら、触れてしまった。
後悔とは違う苦い思い。
そんなものに、胸が締めつけられていく。
気づかれないように大きな溜息で、それに封印すると、芳文に声をかけた。
「芳文。風邪うつるぞ」
ぼんやりと開けた瞳が、焦点を合わせていく。
浮かんだ嬉しそうな笑顔。
その幻のような儚さに腕を伸ばしていた。
伸ばした先に触れた髪。
ゆっくり撫でると、芳文が小さく笑い声を零す。
「江口」
その安心しきった声に、何故か救われたような気がした。
「風邪うつるぞ」
掠れた声でもう一度同じ事を告げる。
「いいんだ、連休だし・・・・・・・・・それに、江口が病気になってると俺まで不安になる」
そう言うと、変な姿勢で寝入っていた芳文が背筋を伸ばして立ち上がった。
「何かいる物があるのか?」
いつものわがまま大王らしからぬ物言い。
それが奇妙に聞こえて笑い声が洩れた。
「何だよ、俺だって病人には優しいさ」
むくれながら言う芳文の姿が愛おしい。
これだけで今は満足だった。
決して手に入れることの出来ない男。
それが、人並みの感情を向けてきている。
それが、浮かび上がった焦燥感を消していった。
掠れた声で「水」というと、いつもの態度が嘘のように芳文が動いていく。
灯りもつけずにキッチンへと消えた。
ミネラルウォーターのボトルを手にした芳文が、心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫なのか?江口」
間近に見る芳文の顔にシャツの皺が移っていた。
それを指先でなぞる。
伝わってくる暖かさが、胸の奥を暖めていく。
喉を潤すと、長い息を吐いた。
どう足掻いても適わない。
手に入れることの出来ない男は、いつしかしっかりと自分の中で根付いていた。
いつか、それが種となって自分の元から離れて行くまで。
その時は、もうすぐそこに来ているのかもしれない・・・・。
それとも、まだ先のことなのかもしれない・・・・・。
「江口?」
触れたまま何も言わないのを訝る芳文に、唇だけで笑って応える。
ゆっくりと体をベッドの端へとずらして場所を作ると、そのシーツの上を軽く叩いた。
「風邪うつしてやる」
「そうしたら、江口に看病させてやる」
言いながら滑り込んできた体。
それをしっかりと抱きしめながら、瞳を閉じた。
いつかその時がくるまで、お前はここに居るんだよな?芳文?
伝わってくる体温。
命を刻む音。
その確かなものを手放したくなくて、深く腕の中に抱き込んだ。
コメント
あこがれの江口さまが、とうとう我が家に・・・・。
うきゃー! 切ない大人だよぉう!
時田様ぁ〜♪♪
ありがとうございます♪♪