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福岡市東区 |
| 平山を過ぎいよいよ福岡市内に入ります。福岡市はご存知のごとく福岡黒田藩の城下町で栄えた町で、人口139万人(17年4月)の大都市です。福岡市には7つの区がありますが、太宰府へ向かうには博多区で北へ上りますので、2つの区、東区・博多区、を通ることになります。 |
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下原から504号線から離れて、ほぼ並行して東側を通っている道を進み、九州産業大附属高校を過ぎたところでJRを越えます。越えたところで左へ折れて、少し行ったところRJR香椎マンションの向かいの細い道を右に入りますと右の小高いところに冑塚(かぶとづか)があります。 冑塚は神宮皇后が西制の際にここで冑を着けられたと云われ、あるいは帰朝の際に此処に冑を埋められたと云われるところで、一つは享保の頃にこの場所から掘り出され、もう一つはそれが持ち去られたのを惜しんで作ったものだそうです。古いものもこの場に返され今は二つ並んでいます。 |
| また、道沿い冑塚の下には猿田彦大神が祀られています。 | ![]() |
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冑塚を過ぎ道なりに進みますと街道は左へ折れ、駅前からの通りを横切り進みます。、 |
JRに接近して線路が左に見える辺り、右に濱男神社があります。 |
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浜男神社を過ぎますと道の西南の角に■■大社香椎宮近道の道標があります。■■は官弊と書いてあったのでしょうが、別に消さなくても良いのにと思うのは私だけでしょうか? |
| その先JRの線路で道はなくなっていますが、その先広い参道があり、西側にに頓宮があります。 | ![]() |
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頓宮は静かな森の中にあり赤いお社が印象的です。 |
| 一旦街道をはずれて、香椎宮にお参りするために参道を南に進むことにいたします。参道の少し進んだ右には香椎薬師堂があります。 | ![]() |
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さらに進みますと左に香椎宮があります。丁度アヤメが咲いていました。 |
| 境内の石段を上がったところにには立派な楼門があります。 | ![]() |
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楼門をくぐり中に入りますと左に朱塗りの本殿がありますが、残念ながら丁度半分が工事中でした。 |
| 神宮皇后が「とこしえに本朝を沈めるべし」と祈りを込めて、西暦200年に杉の小枝を植えられ、この小枝が成長して綾杉となったとのことです。 |
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香椎宮の奥には古宮(ふるみや)が有ります。 |
| 古宮の横を通り抜け、新しい住宅を抜けて行きますと不老水があります。 | ![]() |
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早速、不老水を授かることにしました。運悪くペットボトルが小さく300mlだけしか頂けませんでした。この位にしておくとぼける前にお迎えが来るでしょう。 |
| 再び頓宮前のJRの踏切に戻り、先へ進みます。 | ![]() |
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街道を進んでゆきますとしばらく家並みに囲まれた道を進むことになり、一寸くたびれた頃に道の右にわくろ石を見ることが出来ます。水不足に悩んでいた松崎の農民たちは、カエルに似たこの石を雨乞いの神として、五穀豊穣を祈ったといわれ、雨と蛙は良く合う組み合わせである。 |
| その先、火の見下の交差点を渡り、街道を進みますと左に三面地蔵があります。 | ![]() |
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その道をさらに進みますと多々良川になり、多々良川河畔公園に出ます。そこに多々良大橋が架かっています。 |
| 多々良大橋を渡り、さらに街道を進みますとY字路にひっそりと自然石に「右いの大神」と彫った道標があります。 | ![]() |
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その先、松島3、原田と町中を進むことになり、新橋を渡り、JRを過ぎますと左に勝楽寺があります。道は突き当たりになり左へ曲がります。 |
| その先には玉取恵比須神社があります。 | ![]() |
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玉取稲荷を過ぎますといよいよ筥崎宮(はこざきぐう)です。 |
| 楼門の正面に高々と揚げられてある「敵国降伏」の額の御宸翰は、神佛の加護によって敵国が降伏するようにとの願文であり。元の襲来に対する願いです。 | ![]() |
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境内には筥松が祀られています。 |
筥崎宮前の海岸の真砂を「お潮井」といってこの砂で身を清め、家の入り口にお くと、禍(わざわい)の入ってくるのを防ぎ福を招くと云われています。わたしも1つ授かってきました。− 篭に入ったのが授かった砂ですが、大きさは小さなもので、この画像は合成したものです。 |
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また境内には蒙古襲来の時、蒙古軍船が使用 していた碇石(いかりいし)と元寇防塁があります。 |
| その他に境内には日本にとらえられていた唐人の祖慶官人が箱崎殿に仕え、日本人妻と暮らし二人の子をなしていたが、唐に残した子供二人が迎えに来たので、箱崎殿はこれを哀れんで唐へ帰したが、その時に父が死んでいたら建てようと唐から持ってきた供養塔と云われる唐船塔がたっています。 | ![]() |
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筥崎宮の向いの民家の隅には「従是東表粕屋郡」の道標が立っています。 |
| その先しばらく行きますと、一寸右に入ったところに横岳山崇福寺があります。この寺は太宰府に創建されましたが、島津・大友の戦により焼失し、慶長5年(1600)に黒田藩初代藩主長政公により、この地に再建された寺で、この崇福寺山門は福岡城本丸表御門だったもので、件の有形文化財に指定されています。 | ![]() |
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山門を入ると左には地蔵堂があります。 |
| 境内の中ほどには多くの石仏に囲まれた千手観音が祀られて大勢の方がお参りされていました。 | ![]() |
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また名島城から移築されたと云われる、市内に残る唐門の中では最古と云われる県指定有形文化財の「崇福寺唐門」があります。 |
| その先街道を西へ進みますと妙徳禅寺が有ります。 | ![]() |
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そのまましばらく進み、国道3号線の手前右に石堂地蔵尊跡の碑があります。 |
| 地蔵尊碑のすぐ左には地蔵堂が建てられています。 | ![]() |
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国道3号線をくると御笠川沿いに継母に無実の罪を着せられて死んだ娘を供養する、濡れ衣の語源になったという濡衣塚があります。 |
| この石碑は板碑と呼ばれ中世の石像物で、梵字が3つ刻まれており、上が大日如来(バン)、右下が宝幢(ほうとう)如来(アー)、左下が天鼓雷音如来(アク)と書かれているそうです。私には読めませんから解説板の説明によるものです。康永3年(1344)の銘が刻まれています。もとは聖福寺の西門近くにあったとのことです。御笠川を石堂橋で渡ると博多区に入ります。 | ![]() |