北九州市

              大里

「大里(だいり)」の地名は、寿永2(1183)年、源氏に追われた平家がこの地に御所を定めたことから「内裏(だいり)」と名付けられ、享保年間に「大里」に改められたと云われ、今は門司市になっています。ここでは大里から小倉の常盤橋東詰までの道を紹介いたします。
今回のスタート地点に近い駅として選んだJR小森江駅です。駅からすぐの踏切を渡り199号線を小倉方面へ向かって歩くことにいたします。
199号線から大里宿へ入りますとすぐにに2代目小倉藩主細川忠利の浜御殿(お茶屋)があったとされる西生寺があります。この寺はキリシタン禁制の踏絵寺として判行寺となっていました。

西生寺の筋向かいには西光寺があります。

その先街道右には江戸期に凶作に苦しむ農民のために私財をなげうって新田開発に努めた庄屋石原宗祐の屋敷跡があります。
またその先には小倉藩の本陣跡があります。

その傍には八坂社の鳥居があり,そこを左に入って行きますと祇園社・住吉社・稲荷社の3つの神社があります。

3つの神社がある辺りが、大里宿場跡で祇園社を中央にして並んでいます。

左には住吉社があります。

また、右に稲荷社が祀られています。その境内には猿田彦、興玉神など多くの道祖神がま祀られています。
再び街道に戻りますと御番所跡があります。碑に彫られた文によりますと「本土との渡海口に当たりここの在番役人は舟の出入り、人馬の切手改め、荷抜けの取り締まりを行っていました。当時、御番所はこの碑のある海側にありました」とあります。
街道の左には仏願寺があり、境内には大きな銀杏の木があります。
旧街道にはこのような旧家が残っています。
参勤交代の大名に人足や馬を提供する人馬継所跡の碑が設けられています
大里宿は江戸への玄関口であり長崎街道の起点でした。藩政期街道要路には里程の目安としてここに一里塚標石を設けていました。(標石解説より)
この辺りは豊前大里宿跡とされ碑が立っています。大里宿は長崎街道に沿った直線五町五十二間(約646メートル)の町並みで、ここには本陣、脇本陣、番所、郡屋、人馬継所、旅籠屋が建ち並んでいました。また、この碑の西隣には長崎番所が設けられていました。(標石解説より)
1本のオオクロマツが残っていますが、周辺の開発が進み気になるところです。
街道は開発により完全に消え去っています。正面が大里宿です。
赤坂辺りになりますと昔の九州鉄道の山側に現在のJRの線路が新設され、昔の線路は廃線となっていますが、所々その跡が残っており、街道も分断され非常に判りにくくなったり、行き止まりになっています。
赤坂から長浜へ向かって進むと直線的に並んで植えられた松並木があります。昔は高浜あたりには海岸に沿って松並木があったそうです。
少し進みますとまた旧街道がハッキリと判るようになります。その道をを入ってゆきますと右手に閻魔堂があります。このお堂は、鹿児島本線の拡幅により昭和28年この地に移転したそうです。境内に「法華経一石一字塔」と刻まれた石碑があります。
街道左には長浜の庄屋であった岩松助左衛門生誕の家があります。助左衛門は、響灘の藍島沖、白洲付近での難波船が多ことを憂い、灯台建設尽力された人です。た。
その先右に貴布祢神社があります。この境内には境内には、延宝7年(1679年)に造られた石の鳥居が建っています。
街道をさらに進みますといよいよ小倉城の門司口門跡に至ります。ここの砂津川に架かっている門司口橋は昔と同じ位置にあるそうです、かってはこの道は、諸藩が参勤交代に通った所で、大里で船を降り赤坂、高浜、長浜を経てこの門に入ったのでしょう。
そこから現在の門司の町中を抜けて長崎街道の起点といわれている常盤橋の東詰に至ります。