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西国往還付替道 |
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旧西国街道を歩き始めて5年、京の羅城門跡から、赤間の山陽道起点まで歩き、さらに大里から大宰府まで、旧街道を歩きましたが、地元の西国往還付替道だけは、その存在は知りながら、六甲山中のしかも杣谷川沿いの険しい道を歩かなくてはならないと云うことと、体調が芳しくない時期もあった上に、さらには阪神淡路大震災後開発が進み、神戸市が昭和53年3月に発行した「徳川道」の資料に記載されている地図からも大分変化してしまっており、先送りになっていましたが、体調も大分良くなりましたので、古希になった今年はこの道を歩いてみることにしました。 |
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神戸市東部の1ページの最後に記載してある、徳川道起点から、本街道は左へ進み石屋川を西国橋を渡って進みますが、徳川道は石屋川沿いに右へ六甲に向かって緩やかな坂を進んでゆきます。 |
石屋川沿いに北へ進みますと右に御影公会堂があります。この建築物は1933年に白鶴の創業者嘉納治兵衛氏の寄付によって、清水栄二氏の設計により建てられた物で、戦災にも耐え、阪神大震災の時にもこの建物はびくともせずに避難所として使われたいきさつがあります。野坂昭如氏原作の映画「火垂るの墓」でもこの建物だけが焼け跡の中でぽつんと残っている姿が、地元民にとっては印象的でした。 ここの地下食堂のオムライスは有名です。ぜひ一度召し上がっては如何ですか? |
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石屋川は天井川で、六甲山系から採れる花崗岩を昔は御影石と呼んでいて、その石材を加工する石屋さんが、多くあったので石屋川と呼ばれているそうです。 |
| 明治7年、大阪から神戸間でJRが開通したときに、石屋川のは、線路が天井川になっている場所に当たり、川底が他の地区よりもはるかに高いために、坂を造って橋で越えるということができずに、川の下にトンネルを掘り、川の底を通過することになりました。 この石屋川隧道(ずいどう)は日本初の鉄道トンネルです。しかし現在はJRが高架線になった為に石屋川トンネルは埋められてしまっていますが、その跡には「旧石屋川隧道跡」という石柱が立っています。 | ![]() |
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石屋川隧道のすぐ隣には網敷天満神社があります。 |
| 綱敷天神を過ぎ更に北へ上りますと平野橋に差しかかります。ここを左へ折れて進むことになりますが、西南角に徳川道ハイキングコースの小さな標識が経っています。この辺りが昔の徳井村と平野村の境に当たります。 | ![]() |
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その先、鷹匠中学校の手前少し入った右手、鷹匠中学校の石垣の中に地蔵祠があります。 |
| 街道に戻り、寿公園の少し先、左に北向地蔵が多くの地蔵と共に祀られています。 | ![]() |
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この辺りは昔は綺麗な水が流れていたそうですが、今は埋められてしまったりしていますが、ここ高羽川にも土橋が架かっていたようですが、今はこの様なコンクリートの橋に代わっています。 |
| 高羽郵便局を過ぎるとすぐに八幡町になり、ここが昔の八幡村東境になります。 | 、![]() |
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その先で広い道を横切りますが、二またに分かれており、徳川道は細い方の道になります。 |
| 広い方の道、左には旧六甲山小学校跡の碑が立っています。 | ![]() |
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その向かい側、派出所の横には大きな自然石の道標があり、そこには「右住吉、西宮 左有馬、三田道」と刻まれ、横には「すぐ まや山」とあります。 |
| 引き続き細い道(徳川道)を進みますと、小さな地蔵祠があります。 | ![]() |
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この道は狭く、昔の面影を残しています。このまま進みますと六甲八幡神社の鳥居の前に出ます。 |
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この八幡神社は由緒のある神社ですが、創紀については諸説あるようですが、平清盛が福原遷都の際に男山八幡宮を勧請して、成瀬の地名を八幡と改めたという説などがあります。この大鳥居は震災の被害を受け、新しく建て直されていますが、右に見える石柱は昔のもので、左の画像がその拡大したものです。 |
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八幡神社を過ぎますとこの辺りは開発が進み、昔の道はなくなっています。この辺りが篠原村東境と思われますが、良く判りません。 |
| 道はJ阪急電鉄の線路に遮られていますが、この辺りを斜めに横切っていたと推測されます。 | ![]() |
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道は篠原会館の辺りを西北に進みますが、この辺りも昔の道は全く判らなくなっております。 |
やがて、道は護国神社に至ります。 恥ずかしながら、ここでデジカメの電池がなくなってしまいました。続きは後日にしていただきます。 |
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