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| 西代の大楠をあとにして再び西国街道を西へ進みますとすぐ須磨区にはいります。須磨区は山と海が最も接近している地域で、昔から交通の要所でもあり、百人一首で有名な須磨の関がおかれたり、歴史で名高い源平の合戦、一の谷の合戦、もこの地で行われ、これに関する史跡などが沢山残っております。 |
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須磨区に入り西へ進みますと妙法寺川という川ががあります。そこから川に沿って右折し少し上ると、妙法寺公園の隣に證誠神社があります。 |
| 證誠神社は「権現さん」とも呼ばれ、永延元年(987年)に紀州熊野の権現さんを勧請して妙法寺川沿岸の大手・東須磨・野田・駒ケ林の5ケ村の氏神として創祀されたといわれております。寿永元年(1182)須磨の地にご遷都され、徳川の代に須磨聖霊大権現と称せられ、明治元年に證誠神社と改められたとのことです。 |
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證誠神社本殿、この神社の祭日には必ず少し雨が降るために「しょぼしょぼ権現降る長田生田は降らぬことなし」といまはいいつたえられているそうです。 |
| 證誠神社を後にして再び西国街道に戻り西へ向かうと右に少し入ったところに浄徳寺があります。 |
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この寺は真言宗のお寺で1146年仁海上人の創建と伝えられ、ご本尊の薬師如来は須磨にわび住まいした在原行平が都に帰れるように祈ったとも伝えられているそうです。 |
| 階段を上ると左手に鐘楼があります。 | ![]() |
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境内には「影清く照り渡る須磨の浦 秋の月見る山寺の庭」と彫った大きな石があります。 |
| 次に西国街道を南側へ渡ると弓場八幡宮を見ることができます。 この神社の祭神は応神天皇で永延年間(987−989)の創建といわれますが、定かではありません。この神社はかって元境内に三十三間の射場を有し、陰暦2月1日に「御弓の当」なる儀式を行ったと伝えられ社名はこの古式に由来しているそうです。 |
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再び西国街道に戻り少し西へ進みますと道が狭くなりますが、その右角に厄除八幡社、右多井畑村迄三十三丁と彫られた背の高い道標があります。 |
| 今まで歩いてきた広い西国街道 | ![]() |
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ここから先の西の方は道幅が狭くなっています。 |
| 西国街道の松風村雨堂のバス停を右に折れ、山陽電鉄の踏切を渡るとすぐ右側に松風村雨堂があります。在原行平が「松風」「村雨」の二人の姉妹を愛したが、行平が都に戻った後に、二人が悲しんで結んだ庵の後といわれています
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衣掛けの松(画像左) ここに残された歌は百人一首にも
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| 西国街道に戻り西に少し行ったところの北側、山陽電鉄の線路に沿って旧家前田家の旧廷内に元宮長田神社があります。 | ![]() |
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山陽電鉄須磨寺駅の少し手前を右に入ると摂津名所図会にも描かれている頼政薬師と呼ばれている浄福寺があります。突き当たりが聖徳太子の作といわれる薬師仏が祀られている頼政薬師寺 |
| さらに進み山陽電鉄須磨寺駅の北側に平重衡とらわれのまつ跡があります。 北へ行くと真言宗須磨寺派の本山である須磨寺があります。 |
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| 須磨寺駅から西へ向かうとマリスト国際学校の向かいに現光寺があります。この寺は浄土真宗本願寺派のお寺で、古代の須磨の関跡だという説もあります。入り口左には大きな源氏寺と彫られた石があります。 | ![]() |
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お寺自体は現在再建工事中で2002年3月31日ころに竣工と看板には出ていました。 |
| マリスト国際学校うおはさんで西側に関守稲荷神社があります。 | ![]() |
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源兼昌の歌で有名な須磨の関守跡の碑ありますが、これは別の場所で掘り出されたもので川東左右関屋跡とかかれており、それから判断するとこの関守稲荷神社は関屋跡からはなれているらしい。 |
| 今はこの場所が史跡須磨関屋跡だということになっています。 | ![]() |
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関守稲荷神社から西国街道よりに琵琶の達人藤原師長(もろなが)の琵琶塚があります。 |
| 山陽電鉄を越えますと西国街道と合流する辺りに村上天皇を祀った村上帝社があります。 | ![]() |
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西国街道を西へ進みますと源平の合戦の際に平氏の陣があったといわれる史跡戦の碑があります。 |
| さらに西には一の谷の合戦で熊谷直実に討たれた平敦盛の供養塔といわれる敦盛塚があります。 |
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西へ進むと摂津と播磨の国境の川があります。 |
| 次は神戸の最西地区垂水区へと進みます。 |