![]() |
本街道・浜街道 |
|
第一部の山崎道の延長上と中国道の合流点と思しきところから西へ少し行くと本街道と浜街道との分岐点があり、それぞれが西に向かって続いております。そこには2基の道標が残っており、一つは第一部で紹介済みの道標で、もう一つ(写真右)はこのようにお地蔵様が刻まれています。この道は神戸の三宮を過ぎたあたりで再び合流しておりますが、神戸港が1868年に開港しましたのに伴い幕府が外国人との衝突を避けるために山の中を通る「徳川道」と呼ばれている「西国往還付替道」がつくられましたので神戸市東灘区から明石までもう一本の西国への道が出来たことになります。しかしこの道はほとんど使われずに終わっております。 |
![]() |
![]() |
まず本街道と浜街道を芦屋市・神戸市東部を通って神戸市中央区の三宮の合流点まで地域ごとにご案内することにいたします。 芦屋は西宮市と神戸市に挟まれ、南に大阪湾、北に六甲を控えた、風光明媚な場所で昔から東の鎌倉とならび称される文化的な町でした。残念ながらこの地も阪神淡路大震災で大きな被害を受けております。現在の人口は約8万4千名の小規模な閑静な住宅都市です。 道標の先西側に進みますと道は突き当たりますが、そのあたりに昔は札場があったとのことですが、今はその痕跡は残っておりません。 |
札場跡を右折して、春日集会所の前に出て、その道(本街道)を左折して西に向かって、すこし歩くと阿保親王塚の町石が右側に見られます。阿保親王は在原業平の父で町石には「平城天皇第四皇子 阿保親王廟 是ヨリ五丁」と刻まれております。 |
![]() |
![]() |
阿保親王塚の町石から右へ折れ少し進むと右の奥まったところに金津山古墳があります。ここには阿保親王が万一の飢餓に備えて財宝をこの地に埋めたという伝説があるそうです。ここは街道から少し離れていますので、再び街道へ戻ることにいたします。 |
| 親王塚の町石、西へ進んだところを右へ入ると旧街道らしき道がやや斜め北北西に向かって通っている、この道に沿って左へ進むと左の空き地に一石五輪塔がやや無造作に集められている。 | ![]() |
![]() |
さらに西へ向かうと左のやや奥まったところに徳本上人の立派な名号石が建てられています。 |
| ここからさらに西へ進むと宮川沿い右手に大きな地蔵堂が建っています。お堂の中にある地蔵菩薩の坐像の台には延享2年(1745)と刻まれています。 | ![]() |
![]() |
宮川に架かる西国橋を渡りさらに進んで行きますと国道2号線に出ます。 |
| このままさらに進みますと国道2号線に合流しますが、合流点よりやや東に紀元二千六百年の記念碑があります。 | ![]() |
![]() |
芦屋川で一旦本街道を離れて川に沿って北上しますと芦屋市図書館の北側に在原業平の歌碑があります。業平は芦屋の情景をよく詠っており芦屋市業平町あたりに住んでいたとのことです。 |
| 業平の歌碑から北の対岸を少し西に入ったところに公光廟があります。業平の時代より後の時代に公光という若者が住んでいて。「伊勢物語」が大層好きで、業平のことに強いあこがれをもっていました。夢の中で業平の魂と出会うという話の主人公が祭られています。 | ![]() |
![]() |
芦屋市の浜街道沿いには本街道との分岐点から西へ200mほど、43号線に入る手前右側に親王寺というお寺があります。この寺は当初は真言宗で宗満寺と言われていましたが、三好長慶の悪政に対する逃散から帰村した打出村民は1560年浄土宗に改宗し親王寺と改めたそうです (伊丹市立博物館発行 昔の道ガイドブック14より) |