東 日 本 大 震 災

~ 遠く離れた 阪神・淡路より Ⅶ ~

石巻市 女川町 南三陸町 気仙沼市  陸前高田市
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東日本大震災から5年
 東日本大震災から5年が過ぎ、翌月に発生した熊本地震でさえも報道が減少しつつあります。阪神・淡路の経験者だから復興の足取りが気になりますが、被災地以外の人達の記憶からあの震災が消えてしまっているように感じられます。
 そんなことから、4年前に訪ねたルートをもう一度この目で見ようと、三陸の沿岸を再び旅することにしました。
石巻市(2016年6月6日)
   
 仙台空港から最初に目指すのは石巻駅。「がんばろう!石巻」の表示はいまだに健在で、活気ある街並みから旅は始まりました。5年が過ぎ、「閉鎖されたのでは」と心配をしていた「立町復興ふれあい商店街」もあの時のままでした。ただ、仮設商店街は秋までで、各所での開店が予定されているそうです。無くなるのは淋しいけれど、各地で新しい営業が始まるのですから、こんな喜ばしいことはありません。復興は確実に進んでいるようです。

     
 駅前地区から日和山へ。震災当日は市街地が浸水し、島のようになっていたと聞くだけに、眺めは最高で、旧北上川沿いの市街地は被害状況がわからなくなっていましたが、海に面した門脇地区方面は工事事務所が造られているくらいでした。
 次は日和山を下りて「がんばろう石巻」へ。海岸近くは地盤の嵩上げ工事が行われていて、回り道をしなければならない状況でしたが、案内に従って走り、到着することができました。平日のため、ここにある「南浜つなぐ館」に入ることができませんでしたが、当時の状況は外からでも見る事ができました。近隣は工事が盛んに行われており、ボランティアで作業をした場所には近づくことができません。辛うじてシートに覆われた門脇小学校だけは見ることができました。屋上部分の文字はなんとか読めました。

     
  女川町を通り越して、再び石巻市に入ると大川小学校です。祭壇は4年前と変わらず、遺族の方々の手で守り続けられていることがわかりました。そして、慰霊碑ができていました。
 「津波は小さかったのに、大げさに児童を山へ避難させた。」そう言われることを恐れて避難が遅れたのでしょう。命を守ることができれば、くだらない非難は跳ね付けることができるはずです。ここに来れば必ず、多くの児童が亡くなった悲しみと、適切な避難誘導のできなかったことへの怒りが複雑に胸の中で交錯します。


 女川町(2016年6月6日)
 
 女川町に入り、国道のバイパスへ右折すると、「きぼうのかね商店街」があります。4年前と変わらず、親しみのある商店街です。スケジュールの余裕がある訳ではありませんが、地元の方と話始めると、ついつい長い時間になってしまいました。
 そして4年前にはなかった女川駅へ。道路を隔てて新しい店が出来ていましたが、真昼間だからでしょうか、少々寂しい感じがありました。
 工事が進められ、震災の爪痕など無くなったと思っていましたが、津波で転倒した建物が残っていました。モニュメントになるのでしょうか?



南三陸町 (2016年6月6日・7日)
 4年前は大川小学校から大橋を渡り、海岸沿いを南三陸町へ向かったのですが、工事中で橋が使えず、内陸部から南三陸町を目指します。今夜の宿は「南三陸ホテル観洋」です。以前はともかく南三陸に泊まりたい、ということだけで泊まりましたが、今回はボランティアの関係から女将にも会えるということで、楽しみの宿泊になりました。
 ホテルに着くと、荷物を置いて、すぐにホテルが残している元結婚式場の「高野会館」に特別に案内してもらいました。
     
 避難した人たちが分け合って命をつないだ飲み物の空き瓶が残っていました。栓抜きが流され大変だったそうです。   4階の屋上部分。水は来ましたが避難者が流されることはありませんでした。   4年前に志津川中学から写した高野会館と南三陸ホテル観洋。すでに周辺の建物はありませんでした。

     
 翌日はホテルの「語り部バス」に乗せてもらい、南三陸町の被災地を廻りました。風景を見ながら、震災・津波を経験した方の話は引き込まれるものがありました。
 辛うじて残っている鉄道の線路跡。そして、高く積み上げられた土砂に囲まれ、前まで行けなくなった南三陸防災庁舎。献花とお祈りは道路1本隔てた離れた場所からしかできなくなっていました。

気仙沼市 (2016年6月7日)
 気仙沼市にも「ホテル観洋」があり、気仙沼市もホテル担当者に案内していただきました。まずは気仙沼シャークミュージアムで津波の特設コーナーを、気仙沼市観光サービスセンターで当時のくわしい様子を話してもらい、気仙沼市魚市場では生まれ変わった設備を見せてもらいました。単独で復興の様子を見ながら車を走らせていたのでは、とてもこれほど詳しい様子を見ることはできなかったでしょう。
 各所に「東日本大震災・津波浸水ここまで」(頭上の青看板)の表示がありました。  復興が進んでいるように見える中心部を離れると、各所に被災建物が残っていました。  復興住宅の建築が進んでいます。被災者の生活が1日も早く落ち着くことを祈ります。



 陸前高田市(2016年6月7日)
 
 随分とお金がかかり、苦情もあったようですが、遠くから来たものにとっては陸前高田の象徴です。  地盤嵩上げ工事の期間を縮めるためのベルトコンベアー。土砂の運搬を終え、今は橋の部分のみ残されています。  道の駅としは使われていませんが、松原を背に営業していた時代が偲ばれます。
 ボランティアで来た時は遠くに見えたが近寄れず、二度目は修復目的で撤去されていて、今回初めて奇跡の一本松の傍に行くことができました。大松原を知る地元の人にとって一本では意味がないようですが、当時を知らない者にとって、これが唯一の松原の証しなのです。
 道の駅の前には「陸前高田復興まちづくり情報館」がありましたが、午後5時を過ぎていたため、中に入ることができませんでした。かつての道の駅ですが、駐車のてきる追悼施設もあり、慰霊の場所となっているのではないでしょうか。
 道の駅は営業していませんが、車は入ることができ、追悼施設も設けられています。  広田半島が津波で分断された話は聞きましたが、町中で様子が分からず、高台に上がってようやくわかりました。  陸前高田市の希望の灯りです。神戸から分灯された灯りはここで輝き続けています。

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