「と、言うわけだ。昨日の事件で体育館は、今警察の方々が調査している。近づかず邪魔をしないように」
最後にパンパンと手を打ち合わせた担任の男は、これで話は終わりだと足早に立ち去った。生徒からの質問の声が挙がるが脚を止めずに逃げ去る。
今朝の一件は事件か、事故か。それさえもまだ分かっていなかったが、どちらにしても陰鬱なものにかわりないだろう。実際、印象が強烈過ぎて今も確認のためと連れて行かれたあの光景が脳裏から離れない。
昨日まで見慣れた風景が一変していた。
体育館の入り口、その扉がひしゃげ、原型を留めていない。ぽかんと視線をその上の2階部分へと向けると、まるで映画に出てくるような巨大なゴリラか何かに握りつぶされたような、そんな鉄骨とコンクリートが見えた。あの部分には確か窓があったはずだが、それが抉り取られていたのだ。
そんな破壊活動だけならただの驚きや好奇心だけで終わるはずだった。
だが担任の男の意識を掻き消したのは、上ではなく、下。初めは何か分からなかったが、風と共に鼻腔を突き刺す匂いがその存在を主張してくる。
地面に広がる真っ赤なペイントからのむせ返る様な鉄臭。それを覆う歪な楕円形が3つ、警察が置いたのであろう白いロープがある。
それを見て瞬時に納得したのだ。ああ、これは血なのだ、と。
犠牲者が流しだした多量の血、血、血。これだけの赤色の池を作る風景はどれだけ陰惨なモノだったのだろうか。
思わず横を向くと、同行者の警察官が鼻を摘んで苦笑していた。
「見慣れてないときついものですがねー。私達も仕事柄見ることありますけど、これ、中々上位ですよ。通報受けてカッ飛んできたときには、被害者もなんとか生きてる、って感じだったんで。そりゃもう滅多に見れないぐらいにグロかったんですよ、これがもう。ははは。
と、すいません。ちょっと連絡が入ったようで――」
滅入っている自分に、横の警官はさして気にした風もなく、腰の携帯無線で話を続けていた。
キン、キンと二度、頭蓋の奥で音が聞こえ、思わずよろける。
――あ、はいはい、ええ。は? 受持ちの変更? 引継ぎまでって、公の仕事に企業が、ですか?
はいはい、ええ……了解しました。が……癪、ですね、これだけの大事件なのに管轄にもならないとは――
警官がなにやら悔しそうに悪態をついている。正義の象徴として犯罪を取り締まる警察が無念だと呟いている。
だがそれは、事件を憎み、犯人を憎むのではなく、
ただ、自分達の手柄を横取りされる事への憎しみだった。
それに気づいた途端、世界が酷く醜いものだと思い知らされ、そしてもう一つ。先程までの自分の興味本位の心も酷く最低なものだと気づかされる。
口内に溢れる酸味。
匂いと空気、罪悪感に胃が耐え切れない。
ああ、この中途半端に溶けたものは今朝の御飯粒か。
この場にない日常を求めながら、教職の男は身体を九の字に曲げ、ソレを地面に向かって吐き出した。
*
学校に起こった猟奇事件のため、担任が立ち去った後の朝のHRは騒然としていた。どの生徒も担任から聞かされるまでも無く、登校時にあれだけ警察を目撃しているのだから話題に挙がらぬはずも無い。
自然、休憩時間を良い事に噂を始める生徒達。
が、5分もした頃だ。1間目開始10分前。
教室のドアが徐に開け放たれ、そこにある人物が立った事により生徒達はその会話の対象を変えていく。
ある男子生徒のグループもその人物を見て話題を切り替えた。
低い小さな声での内緒話。だがその会話には先程までの高揚感は無かった。逆に、声色はどこか後ろめたい。
「おい、姫さん来てるぜ……」
「……マジだ」
「こんなところに何のようだろうな……。美人は歓迎だがあれは勘弁して欲しいぜ」
話の端々に挙がる『姫』という呼称。
そう揶揄される有名な生徒がそこにいた。
この学校の創設資金をほぼ全額賄っている事は元より、この地元では知らぬものがいない人物。
佐乃倉家の令嬢、佐乃倉美樹だ。
彼女は耳元に掛かる艶やかな髪を軽く梳きながら、美しいその切れ長の目でクラスの中を見渡していた。ゆっくりと、だが確実に教室の端々へと視線を向ける。目が合った生徒が居心地悪そうに目を反らすが気にしない。
それは最後の列、窓際の机で止まった。
その場所へ皆が注目する中、美樹が歩いていく。
その姫の行動。
誰もが姫の目的を認識した。
が、誰もが疑問符を浮かべる。
それだけ接点が無かったからだ。
「貴方」
件の目的の人物は、いつものように誰からも注目されない人物。
いや、人物だった少年。
ただ窓際の席で、静かに外を見やっているこの少年に、美樹は用がある。
「冬馬夕弥!」
机に左手を置き、少年へと詰問する。が、夕弥と呼ばれた少年の意識は相変わらず窓の外へ。いや、外の景色さえも意識しているのかも疑わしい。
美樹はその様子に美しい眉を一つ潜めると彼の後頭部を見ながら命令を下す。
「……付き合いなさい。昨日の件で話があるのよ」
「……」
上から見下ろす美樹は反応の無い少年に向かって溜息を一つ。
「ダンマリ? ……いいのよ、それでも」
「……」
無言。
「ただ、そうなるとお家の方に迷惑が掛かるのではなくて? ミクモ、とかにね」
そこで夕弥が反応した。
ゆっくりとこちらを向き、
「……僕に関わるな。……三雲にも、だ」
低く、小さな声が少年から発せられた。
眉下にまで伸びた鬱葱とした黒髪のせいで表情が見えなかったが、少女は待ちに待った夕弥との反応に笑みを浮かべる。
「私が貴方如きに従うと思って?」
美樹は机の手を腰に戻し、毅然と夕弥に立ち向かう。
他を圧倒する姫たる風格が、そこにはあった。
「……」
だが夕弥はなんの感慨もなくただ美樹を見上げるだけだった。
やはり感情が読み取れない。
「貴方、本当にあの時の貴方? ……見えないのだけど」
その様子を見返しながら、ふぅ、と溜息をつき、気だるげに髪を掻き揚げる美樹。
意外な事だが彼女は今この行動を起こす事に多大な力を使っていた。
なのに返ってくるのはただの無感情。
溜息もつきたくなる状況だった。
そんな少女を見ていた夕弥だが、もう興味がなくなったのか、また顔を背け、窓の外へと意識を向けようとする。
だがそれは、美樹にとっては我慢なら無い行動だ。
「ねぇっ、ちょっと! 聞いているの!?」
少女は言葉を強くしながら、夕弥に詰め寄る。
手が夕弥の肩に掛かり、ぐっと顔を近づけたとき、時間が止まった。
眉下にまで伸びた鬱葱とした黒髪の奥、眼鏡の奥からの眼光が美樹を射る。昨日と同じその眼光の鋭さに、この少年が間違いなくあの惨状を作った人物だと確信した。
瞬間、一気に顔に赤みが差し、心臓が高まり、腹部の下が疼く。
美樹の中の女が暴れる。
「……触るな」
その中でやっと発した夕弥の言葉だが、その時の美樹は呆然と夕弥を見返すだけ。
ただ、彼に惹かれていた。
どうしてこんなに綺麗なのだろうと。
瞳の奥、こんなにも綺麗なのに、そこに光は無く、深い深い漆黒が私を飲み込んでいる。覗き込むように見ている私でさえ、彼の瞳には映らない。鏡ではなく、吸い込まれる瞳。
だからこそ想うのだろうか。
この瞳が私だけを映してくれるならどんなに、と。
「……僕だと、ただ分かれば良いのか」
「……え、あ……。その、ご、ごめんなさ――」
根が折れたのは珍しく、夕弥の方であった。
夕弥が眼鏡に手を掛け、外そうとしたとき、美樹が目覚め、
「――ちょっ、ば、馬鹿っ、待ちなさいッ!」
目の前で起きている事態に脳がついて来ず、あたふたとするのみだった。
そんな美樹の気持ちなど関係ないとばかりに眼鏡が顔から外れかかる。
ダメだ、あの眼鏡を外させてはいけない。
特に今のような注目される場では――
「だめっ! 美雲にも迷惑が掛かるわよっ!?」
咄嗟に口から出た言葉で、ぴたりと夕弥の手が止まった。
鼓動が鳴り止まぬ中、胸に手をあて少女は告げる。
「それは、貴方も望まない事でしょう?」
「……そうだった。三雲との約束だった」
「そ、そうよ、分かれば良いの、分かれば」
周りを見渡すと、やはり他の生徒の注目の的だった。視線だけでそれを散らすと、腕を組み夕弥へと向き直る。
とはいえ、真っ当に視線を合わさない。見れば囚われてしまう。見たくないわけではない、が、今見るわけには行かない。
少女はちろちろっと少年の横顔を盗み見ながら、
「……行きましょう。ここではゆっくり話せないもの」
「駄目だ。今から授業が始まる」
「後から出席にしておくわ。ええ、どうせなら評価も5にしておくわよ」
彼の手を取り、立ち上がらせる。
どんよりと、その手に引かれるように立ち上がる夕弥。
少女と少年のペアは本当に似合わないものだった。
陽と陰。
相反するものが連れ添っている。
「……ああ、そこの貴方? そういう事だから先生に宜しくお願いするわ」
少女の心は何処か踊っているらしい。
ドアの入り口に居る男子生徒を捕まえて優雅に言伝を頼むその姿も、いつもにない優しげな仕草。
顔を赤くしながら頷く生徒を尻目に、二人は教室を出た。
「……眼鏡は、私が許可したときだけ外しなさい。いいわね」
「……」
「そういえば眼鏡、昨日のとは違うわね、少し違和感があったわよ? ……ああ、そうね、昨日壊れたっけ……いいわ、似合うもの贈ってあげる、楽しみにしていなさい。あんな下賎な安物とは違う最高のものを用意するから」
「……」
夕弥はただ彼女についていく。
そう、ただ、ついて歩いているだけだった。
少女は気づいていない。
少年が一度たりとも少女の言葉に頷いていない事に。
*
『外して』それが屋上での初めの言葉だった。
「……ぁ」
青空の下、現れた少年の素顔には、ただ心が奪われるだけ。
この顔。
そうだ、あの夕陽の下、最悪な日に巡り合った、自分を助けてくれた人間の、素顔。
ただ、美しい。
そしてこの、眼。
そうだこの瞳だ。
教室で取らせなくて良かったと心底思った。誰もが彼を気にしないのはその素顔を知らないからだ。女ならば、いや、人ならば見た瞬間、この虜になる。
私以外にこんなにも美しいものを見るだなんて許せない事だから。
だから。
そう、この『夕弥』を私が所有したい。
「……貴方。我が家に来なさい。佐乃倉として貴方は傍に居るのよ、そう、私の傍に」
抱きつきたいという想いを懸命に抑えながら言葉を吐き出す。
『トウマユウヤ』だと?
汚らわしい。
彼には『サノクラユウヤ』が相応しい。
ええ、そうだとも。
断じて『ミクモ』などに渡してなるものか。
陶酔し、昂揚した顔で美樹は夕弥へと手を伸ばす。
心臓が痛いほど高鳴る。
が、その手が夕弥の頬に触れる事は出来なかった。
彼は何も言わず、ただきびすを返して立ち去っていく。
「待ちなさいっ!」
室内へのドアを開けながら、夕弥は呟く。
「僕は……今で良い」
「貴方に選択権はないのよ」
「冬馬夕弥が、今の僕だ」
その言葉に少女のスイッチが入った。
どうしてこうも上手くいかないのだろう。
全てが上のはずなのだ。そう『全て』が。
だのに、こうも上手くいかない。
「そんなにも佐乃倉になるのがいやなの? 貴方にとっても良い事なのに。全てが手に入るのよ? 私のものになるという事はそういうことなのにっ!」
言葉は提案、意味は略奪。
この少年が欲しいと、傍に居て欲しいと。ただただ、心が叫んでいる。
今までとは違うその悲痛な声に気づいたのか、夕弥の脚が止まる。
「……君は、僕が欲しいのか」
「ええ、欲しい。だから、貴方を私のものにするわ」
だって、こんなに相手を欲したのは初めてなのだから。
だからこそ止めたくない、止まらないのだ。
だが。
夕弥にはとってそれは、その感情は。
生まれ堕ちてから、いつも浴び続けてきた呪詛。
「君も、一緒か。……やはり三雲は珍しいのか」
その言葉を聞いた時、始め、美樹は何の事か分からなかった。
一緒。何かと一緒。
そして歯が食いしばられる。
そう、自分と何かは一緒だと彼は告げ、そして三雲が特別だと彼の言葉が示している。
私はその他一般。
特別視されるべき存在の私。いや、現に特別な存在だと自他共に認められているはずだ。
で、あるのに。
目の前の少年はさも当たり前のように、自分を他と区別しない。
それは美樹の価値観、生きてきた人生そのモノを否定する言葉だった。
「……私を貶める気?」
「……意味が、分からない。……君はそう思うのか」
夕弥の言葉は淡々としていた。感情を表す事の少ない彼にとっては最大限とも思えるこのコミュニケーションも、冷静さを欠いた美樹には、ただ冷淡な者として映る。
無言のまま肩を震わす美樹を見て、言葉が返ってこないだろうことを感じた夕弥はそのまま屋上から立ち去っていく。
残ったのは美樹ただ一人。
俯いた顔は髪で隠されていた。
「私を助けたくせに……どうして傍に居ないのよ……」」
うずくまった自分に思いだされるのは。
在りし日の情景。
『佐乃倉の無為な生き方にはもう付き合えん。私は、私になる』
胸が、痛い。
「貴方も姉様も、私を愚弄するのね……」
ココロが、痛い。
*
一つのTVがある。
その中のニュースでは簡素な文字が流れていた。
『**高等学校の体育館が老朽化により窓が落下。その場に居た生徒が3名が下敷きになり、重体2名、重傷1名の――』
その後、このニュースは取り上げられる事も無く、日常の中に溶け込んでいく。
*
美樹との一件の後、夕弥は何事も無かったかのように教室に戻り、授業を受けた。興味を持って聞いてきた同級生達も、いつもの物静かな転校生の様子に興味を削がれてしまい、静かな授業風景だけが残った。違いがあるとすれば、夕弥の出欠は彼が居る居ないに関わらず出席扱いになっていた事だけだろう。
その後、変わった事といえば、校門を出るときに夕弥が一度屋上を振り返った事ぐらいだ。
もちろんその視線の先も、ただ誰も居ない夕陽に彩られた紅い屋上があるのみだった。
帰り道、夕弥の動きに変化はない。
寄り道をする事も、友達と語らう事も彼にはない。
ただ、帰る家が決まっている事。
帰りたい、と思える場所。
それは夕弥にとっての数少ない明確な想いだった。
意味があるとすれば、それは――
「……冬馬夕弥。……冬馬、三雲……三雲、か」
彼女の存在。
美樹に問いただされた時、自然に浮かんだ想い。
「僕は、僕で居たいのか……」
目の前には家となった小さな病院。
自分を飼うといった女の待つ『冬馬動物病院』という場所。
今では少年の唯一つの場所、だ。
*
その病院に戻った夕弥が目にしたものは、慌しいものだった。
「大丈夫、だよね」
「ああ……先生がなんとかしてくれるはずだよ」
心配そうに院内の椅子で祈っている少女と青年。
その横を通り、いつものようにドアを開ける。医院の奥に居住スペースがあるため、ここを抜けないと部屋には辿り着けないためだ。
「くそう。痙攣が止まらん……!」
開かれたドアの奥から聞こえてくるのは三雲の焦った声だった。
ここは病院だ。今日に限らず色々な事があるのは知っていた。先程のような声も三雲と暮らすようになって幾度か聞いている。いつもの夕弥ならば意に介さず部屋へと戻るのだが、この日は違った。
美樹との出来事が三雲という存在を大きくする。
「……三雲?」
「っ……あ、ああ、夕弥か。すまんが今は手が離せん」
透明なビニールに覆われた、滅菌された手術スペースの中、こちらに背を向けた白衣の女性、三雲が答える。いつもの黒髪は纏められて白い頭巾の中。口にはマスクをし、手にはビニールの手袋をしていた。
手術台の上には一匹の犬。茶色い毛並みの雑種犬だ。
腹を上にして寝かされているが、その腹からは赤色の棒が生えている。
その犬の口へはパイプのようなものが差し込まれ、シューシューと音が漏れていた。
「暴れるな。頼む……っ」
三雲の懇願の声に思わず近づく夕弥。
近づく事で状況が一段と分かる。
赤色と思ったのはその犬自身の血で。鉄の棒が血によって染まっていたのだ。
見た目にも悲惨な鉄の生えた犬。
その犬から鉄棒を抜き取る手術。
三雲は患者を押さえつけるように両手で拘束具をしっかりと、だが傷つけないよう押さえつけていた。
「くそ……まだ、回らないのか」
彼女の視線は犬の口元に注がれている。この犬が運ばれてきて即座に簡易処置したが、開腹となればこのままではいけない。どうしても麻酔が回るのを待たねばならなかった。
だが。
「頼むから……大人しくしてくれ。私などに触られるのも嫌なのだろうが……今だけは」
台上の犬は時折大きく暴れだす。三雲の手から逃れようと、かぎりある命の火をそのために使っているのだ。
暴れるたびに傷口から血が溢れ出す。
されど止めようとはしない。
この犬の怪我は人の悪意によるものだ。どうみても自然に刺さる場所ではないし、得物もただ傷つけるためのもの。
この犬にとって人間はただ敵でしかないのだろう。
野良である事でさえ人から傷つけられる事があるだろうに、この仕打ちは決定的だ。
だが、それでも、この傷を治すには自然治癒では不可能であり、だからこそ人の手で処置しなければならない。
麻酔ガスによる神経麻酔が浸透するまでの時間。その時間がこの犬の命を脅かしている。
少し……あと少しの時間、それが、難しいか……っ!
この子の体温から体力の低下を感じる。まずい。
もう時間が、無い。
思わず台座の横のメスに視線が泳ぐが、
「すぐに執刀……いや、今メスを入れると確実に動く」
冷静な思考がその後の行動を押し留める。
下腹部から斜めに抉り込まれた害悪は、それでもまだ内臓系を突き壊してはいない。だがそれも紙一重だ。なにかの拍子に鉄棒が食い破り、その状態で一度でも発作があれば、結果は目に見えている。
三雲は唇を噛む。
今動かなければ死ぬ。が、今動かせば死ぬ。なんというジレンマ。
この感覚は知っている。
知っているからこそ否定したい。
だが、
これは助けられない。
私の力では届かない、場所……か?
認めそうになる自分に悔しくて、息が詰まり――
――ガサッと音が鳴る。
何事、と視線をずらすと学生服のままの少年がビニールを掻き分け入ってきていた。
「馬鹿、手術中に殺菌もせずに入ってくるなど――」
「……動かなければ、いいのか」
少年が呟き、こちらを、否、犬へと向き合う。
瞬間だ。
三雲の手の中、抵抗が無くなる。
「あ……」
吐息と共に手の先、犬の拘束具には緊張が無いのに、犬自体が身動きを止めた。
活動が止まる。
生命の終息。
死。
そんな、と沈む声が口から漏れ、だが途中で止まる。
なぜなら体温が落ちていないだ。手から伝わる感触は、まさしく必死で生きているものの抵抗の印であり、あの絶望感からまだ離れている。
冷えた頭で見れば、違いが明確に見えてくる。患者の手足に本当に微かな痙攣があり、心臓の鼓動も分かる。ただ身動きだけが出来ない状況。
これは、死ではない。
ましてや麻酔でもない。
何かがこの子の身体の自由を、ただ包み込むように『奪って』いる。
その事実に辿り着いたとき、驚きに視線が再度上がり、その場に存在する光景が彼女の背を押した。
目の前に立つ少年は、ただ無言。視線は小さな生命から一秒たりとも逸らさない。彼の瞳にはいつにない力が込められていた。
ただ相手を想う風景が、そこにあった。
それを目にした三雲は、もう何も言わない。聞かない。
手の中にはすでにメスがあり、時間が無いとばかりに犬の腹部を切り裂いていた。
得がたい時間が得られたのだから。
ならば、後は全て、出来うる事をするだけ。
ただ、それだけだ。
*
およそ病院には似つかわしくない、クラシックな椅子に深く腰掛けた女、三雲はぐっと身体を反らし右手の甲で顔を覆っていた。
その口元から聞こえてくるのは、ふぅ、という大きな吐息。白衣はすでに脱ぎ捨てられ、格好もラフな白のTシャツにジーンズという服装に戻っている。
大仕事を終えた彼女の休息の時間だ。
「三雲」
「……今まで何度も味わった苦労だがね」
夕弥からの声に気だるげに顔を上げる三雲。ん、と軽く頭を振ると、座りなおす。
三雲がみつめる先、ここへ重患を運んでくれた少女と青年のペアが患者の頭を撫でてくれていた。
自然、口元には小さな笑みが浮かぶ。
「今回は、あの笑顔を見れないと思った。限界はどこにでもあるものだからな」
「……そう」
夕弥に顔を向け、
「……お前が助けてくれたのだろう?」
夕弥の視線も二人と一匹に注がれていて。
「三雲が、泣くと思った」
「……良い女は簡単には泣かんさ」
その言葉に驚いたのは他ならぬ夕弥自身。
泣く。
三雲が泣く。
……嫌だった。
心が動いたのだ。
夕弥は自分の手のひらを見て、ついで幸せと呼ばれるだろう風景に視線を戻し、また手のひらを見る。
自分の心の内に起きた衝動。
自分が引き起こした結果が、あの風景ならば。
「……僕が、望んだのか」
この胸の奥に残る、小さな灯火が『嬉しい』という感情なのか。
少年は気づいていないだろう。
自分の口元が小さく緩んで居る事に。
その夕弥の様子に、三雲は目を細める。
自分が拾ったときの、あのズタボロな状況を知ればこそ。
あの表情がどれだけ尊いものか分かる。
良い方向へ、向かっているようだ。
そう思える幸せに、その想いに少し自分の胸が詰まった。
駄目だ、涙脆くなるのは良い女の条件から外れる。
目を瞑り、心地よい疲労に身を任せる。
夕弥は数分固まっていたが、顔を上げるといつもの憂鬱げな表情。そのまま自分が助けた者たちに背を向け自室へと歩き出した。
「夕弥」
その夕弥の背に女からの一つの言葉。
「……ありがとう」
その言葉に、夕弥の肩が一つ震え、ドアに手を掛けたまま止まる。
「餌代、払ってないから」
ぽつりとこぼした少年の言葉に、三雲の顔が、今度こそ笑みに染まった。
*
薄闇。
窓からの月明かりのみの、純粋な夜の色だ。
どういうわけか、眠れなかった。纏めた黒髪が少し汗で濡れ、気に障る。
軽く寝返りを打とうと思ったが、今の状況で動けるはずもない。
「まったく……この犬め……」
なぜなら無遠慮にも己の胸に顔を埋め、あまつさえ背に両手を廻してまで、しっかりと抱きしめている存在が居るからだ。
並みの男がこんな真似をしようものなら、人生最後まで心底後悔させてやろうと思うのだが……、この目の前の少年にはそんな気も起きない。
「……遠慮というものを知らんからな」
苦笑がつい漏れてしまう。
だが、この行為を責める事が出来ないのも、これが心象を表しているのだろうと、思うからだ。
初めて寝所に迎え入れてから、この行為を彼は止めない。
表面上、この少年はとても無感動に見える。
彼は何も感じないのではない。
大きく表す事をしないのだ。
内面には感情があるのだろう、だからこそ無意識の行動が衝動として出る。ただ夕弥自体、その変化に着いていっているのかどうか分からないのだが。
成長すべき時に成長できなかったものの結果、だ。
三雲は自身の体験からそれを推測できた。
「年少期、未熟なのだろうな、君は。……年少期か」
目を瞑り脳裏に浮かぶ光景。
「……歪な生活だった」
思い出されるのは頂点と呼ばれるもの。
煌びやかで、重厚で、華麗でいて、汚らわしいものだった。
思い出すだけで、目の奥が少し痛かった。
「私には……親からの愛情はなかったか。そのおかげだろうな。私はこんなに、歪だ」
今でこそマシになったとはいえ、昔は酷かったものだ。他人とどう接すれば良いか、何も分からない、そして、それゆえ、何もしない子だった。
だから今の、少しは自分を許せる自分になるまでには相応の努力と時間が必要だった。
「……君は、どうだったのだろうな。自分の基盤を形作る親の愛というもの」
胸の中の夕弥の髪を撫でながら、思い出すのは出会いの時の事。
あの雨の中、夕弥と初めてあった時。
捨て犬に思えたのは本心だ。
自動販売機の横で雨に打たれて、ぐったりしている様。灰色で、悲しげな風景。
駆け寄ったのは動物医としての自分と、やっと培う事の出来た、人としての自分。
だが。
見上げてきたその目は人間で。
人は治せないと思ったから、無関係でいようと思ったのに。
どんよりと崩れた、壊れた瞳だったから。
何より、
誰より、
知っている、
瞳だったから。
「私は拾ったのだろうな」
その後だ。
夕弥が稀有な美貌を持っていることを知ったのは。連れて帰って彼が風呂場でしゃがみこんでいる時だった。自分にとって美醜など些細な事だが、彼にとってはどれだけの試練を与えた事か。
腕や脚にある何かに縛られていた痣。
だのに栄養失調の傾向もない。そしてなにより、顔に傷がほどんど無かった。いや、あるにはあったか。唇が切れていた、か。
一つ一つ思い浮かべ、そして消えていく空想。それは一つの方向性を持っていた。
「もしかすれば、彼は愛情を受けすぎたのかもしれない、か……」
愛情を受けすぎたゆえの歪み。
自分と正反対の位置、それが全く同じ歪みを作り出したとしてもおかしくない。ベクトルは逆でも到達点が円ならば最終的に辿り着く場所は一緒になるのだから。
そして。
「……血、か。あれは夕弥のものではなかった」
彼のボロボロな衣服についていた多量の、赤い鉄錆のような――血。あれは彼の血ではないことは風呂場で確認している。状況から鑑みて幾つか推測してみたが、どれもこれも嫌なものばかりだ。
それだけでも暗い影が脳裏によぎるのに、
「どういうわけか、この子には妙な力が付いて回る、か」
壊されたモノは目覚まし時計だけではない。この少年の心が不安定になると決まって何かが壊れていく。それは一緒に生活して分かった事だった。
怖いとは思った。だが、だからといって彼を見捨てる事も出来るはずも無かった。あれもまた彼の一部なのだとしたら、それごと受け止めるという事が彼を受け入れるという事だろうから。
なにより、今日の出来事。
あの犬を助けてくれたのは、他の誰でもないこの夕弥であることは間違いない。
「……優しい子なんだ。だからこそ、一人で立つ事を知ればこの子は生きていける――」
自然、難しい表情になっていたときだ。夕弥の顔が少し動き、自分の乳房をTシャツの上から甘噛みした。
驚きの余り思わず「おい」と呟くが、だが少年の静かな寝顔を目にしては、それを止めろと言えるはずもない。
「……天性の女たらしか? 子犬はそうだが……お前は柄でもなかろうに」
ぐっすりと眠る少年に向かって、ぶつぶつと愚痴を言うのもこれで何夜目だろう。だがこの愚痴を楽しんでいるのもまた否定できない。愚痴を言う相手がいるのだ。こんなに楽しい事もまた、無いではないか。
出会って初めての晩。
あの時、自分を抱きしめながらも震えていたものだが、今では静かに寝入っている。
その事実が嬉しい。
ああ、そうだ。
私でさえもこんな気持ちにさせてくれるのだ。なれば、ただ、彼が巣立つように後ろから押してやれば良い。
それだけの事だ。その後は彼の人生。彼が彼自身の力で切り開いていくだろう。
三雲は夕弥の髪を一つ撫で、呟きを終えた。
*
さて、私も寝よう、そう思ったときだ。
「……ん?」
一瞬月明かりが翳った。
雲?
と、疑問の念から視線だけで窓を確認する。
眠気が飛んだ。
軽くこめかみを揉むと、静かに夕弥の手を持ち、優しく自身を抱いている手を解く。
その手を静かに布団の中へ納めるとベッドから抜け出し、ドアの横へと身を置いた。
白いTシャツと白いショーツのみの身に夜の冷たい空気が染み込んで来る。
「……」
一つ呼吸を吸い、息を整えた後に聞こえてくる小さな雑踏の音。自身の鼓動を抑え、静かに目を瞑った。
唐突に全くの無音になる。
一。
二。
三。
「ッ!」
ドアを思い切り引き開けると一人の男が飛び込んできた。
間髪いれず鋭い蹴りをその男の股間へと入れる。
惚れ惚れするほどのスピードと、体重の乗った良い蹴りだ。
並みの男なら反応するまでも無く床に沈むはず――
「はしたないですな。お嬢様」
あっ、と思った次の瞬間、蹴り足は払われ、その勢いで反転した身体の左腕を捻られ、そのまま壁に押し付けられる。
聞き覚えのある声、だ。
「柿崎……か」
「お迎えにあがりました」
横目に確認するその姿は脳裏の記憶と寸分かわらぬ、黒スーツの男。以前と変わるとしたら下あごに髭を生やすようになったことぐらいか。目は柔和で優男の雰囲気を持つこの男だが、この黒スーツの下には無駄の無い鍛え上げられた体躯がある事を三雲は知っていた。
それは同時に、この状況を脱する事の難しさを意味する。
三雲から、ぎりっと歯を噛み締める音が聞こえた。
「押し売りは結構。間に合っている」
「いえいえ、ボランティアですよ」
隙を見て力を入れるのだが相手の男、柿崎には通じない。
抜かった。
油断していたとはいえ、まさかこんな実力行使に出てくるとは思いもしなかったのだから。
……いや、もとより考えなかったのではない。考えたくなかったのか。
「……良い匂いですよ、お嬢様。本当にお綺麗になられた」
背後の柿崎が顔を自分の髪へ埋めるのが分かった。ついでナメクジのような湿った生暖かいものが耳を這いずる感触が来る。
三雲の端正な顔が嫌悪一色に染まる。
「味も、良い」
「っ、反吐が出るな、柿崎……ッ」
押さえつけられたまま、ちゃぴ、と唾液の音が直接耳の奥へ送られてくる。背筋がぞくぞくする。同時に柿崎の右手は自分のふとももを擦り、内股へと這い上がってくる。
悔しいが女として生まれた身の、生理的衝動を無理矢理呼び起こされる。元より相手は柿崎だ。分が悪すぎた。
だが弱みは見せない。
表面に現さない。
それは自分にとって、雑作も無い事であるはずだ。
ただ苛烈に、嫌悪の視線を柿崎には送ってやる。
が、柿崎はその自分の態度に微塵も動揺しない。むしろこの反抗さえも楽しんでいる気がする。
……いや、この男は。
楽しんでいるに違いない。
分かっている事だ。
自分の身体が楽しいのであれば勝手に楽しめば良い。
その間に、自分は、隙を探すまでだ。
ならば。
「……ふむ。耐えている貴方もそそりますがね」
耳元で奴が何か呟いているが気に止めない。
まずは。
感情を抑制する。
感情を抑制する。
感情を抑制する。
感情を抑制す――
「あれからもう2年ですか。夢は叶いましたか?」
「ぁ……っ!?」
その言葉に気が緩んだ瞬間、乾いた内壁に中指を押し入れられ、準備もなにもない状態ゆえの苦痛の吐息が漏れた。
柿崎の顔が一瞬緩んだ事を目にした三雲は、即座に顔を背ける。
隙を探すため自身を放棄するといっても、見られたくない姿は、ある。今の自分の顔はその最たるもののはずだ。
必死にそれを押し隠しながら、顔を背けた場から横目にベッドが見えた。そして、その中で眠る少年も。
声は、出さない。
助けを叫べばなんとなるかもしれない、が、それは彼を危険に晒す行為と同一だ。
柿崎とは自分との因縁だ。夕弥は関係ない。
なにより、この姿を見せたくないし、聞かせたくない。
ならばやはり危険は自分で排除するしかない。
そう、意思を再度固めたときだった。
場が、動きだす。
それは部屋の中に新たに入ってきた3人の白衣の男達によってだった。
柿崎はその人物達を見て「遅い」と呟く。聞き取れたのは彼と密着していた三雲だけだ。
「柿崎様、お仕事なのですからお控えを」
柿崎は三雲の中から指を引き抜く。中を弄る動きとは別の動きに三雲が息を呑むを感じた。彼はくすりと笑う。
そのまま彼女の腕を取り、拘束しながら今度はベッドへ向き直った。
さて。
指先についたソレを軽く舐め取ると、突発イベントは終わり。ここからは仕事だ。
柿崎の意識が切り替わる。
「……対象は奥のベッドでお休みのようです。お迎えを」
その柿崎の言葉に白衣の3人は頷くと、ベッドのほうへと近づいていく。
そこで分かった。
この理不尽な暴挙の目的は自分ではなく、
「夕弥っ!!」
三雲の叫び声と共に男たちがベッドへと殺到する。
「……三雲?」
警鐘に反応し、ゆっくりと、布団から顔だけを覗かせた夕弥が目を細める。彼は三雲が傍に居ないことを手探りで認識すると、重たい目でぐるりと部屋を睥睨した。
白く輝く月とそれを縁取る窓。
迫り来る白衣の男。
プラスチックの目覚まし時計。
白衣の男の背後に白衣の男。
簡素なタンス。
白衣の男の真横に白衣の男。
棚に置かれた新しい眼鏡。
最後に。
三雲が男に組み伏せられている、光景。
「み、くも?」
目が、見開かれる。
そこで、タイムアウト。
男の手が夕弥のパジャマ、その襟首を掴んだ。
そのまま夕弥の首筋に何か、黒い金属が押し当てられた後、稲光が部屋に閃いた。バヂィッという鋭い音共にベッドの上で夕弥の身体が大きく跳ねる。
「なっ――」
その光景に三雲が息を呑んだその瞬間だった。
夕弥に覆いかぶさっていた男に、異変が起きたのは。
――彼女にナニヲ。
ふらりと、少年が男に向かって手を伸ばし、掴んだのだ。
弾け、仰け反った体勢から、覗く双眸は光を宿し、黒く黒く、どこか力なく。だがハッキリと男を見ていた。
――シテイル。
目を。覚ました。
「ガッ!?」
男が、呻きながら自分の腕を押さえた。よく見ると手から多量の血が吹き出している。数秒前までは無傷だったのに一瞬で指が四方に折れ曲がったのだ。白い骨が肉を食い破り無残な姿を晒し、夕弥の首筋からは黒い金属の塊がベッドにずるりと落ちた。
だが、男がひるんだのは一瞬。
傷ついた手を押さえながらも自身の身体で、ベッドの中の夕弥をそのまま馬乗りに固定する。
「やはりPK保持者、だっ! 構わずやれっ!」
その言葉に男の左右から二つの黒い色の塊が突き出された。
夕弥の身体にそれが押し当てられた瞬間、黒塊の先からはまたもバチバチと何かが焼けるような音が聞こえ、暗闇の中、閃光が弾ける。
スタンガン。
それもその音、光量からかなりの大出力。
本来なら敵をただ一時撃退するだけの力を放出するはずの機械だが、出力が上がれば人も一撃で失神する。
それが二本同時に突き刺さったのだから相手は問答無用で気絶、下手をすれば大きな傷害も残るはずだ。
それを見ていた三雲の、その脳裏で描かれた数秒後の夕弥の姿は、力なく倒れているはずだった。
もちろん、男たちもそう思っていただろう。
だが、その思惑は現実にならない。
常識を越える出来事が、ココでは起きている。
「何故、終わらない――?」
男達の視線の先では、スタンガンの光が夕弥の身体に突き刺さって――いなかった。
紫電は夕弥の身体に届いた瞬間、彼の皮膚をぐるりと滑り、散っていく。それはあたかも夕弥の体表に電気が走る回路がコーティングされているかのような、ありえない現象。
そんな男たちが呆然とした一瞬の時間、その時間をもって、次の段階へと移る。
すなわち、
「ぎぃっ、あああっ!?」
自分を害するものを、害する行動。
「う、腕、ヴで、がッ中から、ヴ腕いた痛いたいだいだいだいいいいっ!?
純粋な行動だ。
「……これは凄い」
柿崎が漏らした声の先、片方のスタンガンがその主の腕ごと弾け飛ぶ。
窓から漏れる月明かりの中、パッと朱の華が部屋に咲いた。
血肉の欠片が備えかけの目覚まし時計にぶつかり、いびつな紅いオブジェを作る。
呆然と夕弥を押さえつけていた一人が右の一人を見上げ、横の一人も同行者を見る。
事実は、変わらない。男の腕がやはり破裂していた。
それも内部から破裂という在り得ない現象で。
白衣が赤い衣となって片腕になった男が、よろよろと背後に海老反りながら倒れこみ、意識を失う。
その奥、押さえつけられた夕弥にも血と肉が雨のように降り注いでいた。真上で破裂したせいで、肩から顔にかけて、一面真っ赤にペイントされたが、夕弥はさして気にした風もなく、ただ自分の身体に触れているストロボのように何度も光る物体を見つめている。一つはすでに無いが、まだ一つ、彼の左腹に突き刺さっているからだ。
「こ、こいつほんとに無調整か? まだかっ、おいっ!?」
「ダメだ、効いてない――っ! い、嫌だ、妙な感触が――ギッ!?」
二人目のスタンガンは四散しなかったが、握っている指ごと圧縮され、指の残骸と金属が合体した。
「ユギヒィッ!?」
あの日から、この部屋には静かな日々があった。
「アガ、アガ――ッ」
独りで居る事が、静かで、誰を許し誰に許されるわけではなく、ただ、何かのために生活する。
「あ、あ、あ、あ、頭がッ、や、やめろ、頭を中から押さないでグレぇッ!?」
そんな、日々の中、新しく増えたものは、不慣れながらも自分に寄り添い、変わろうと明日へと繋ぐ。
「し、しぬ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬシヌ死ぬ死ぬ死ぬシヌシヌウ……ッ!!」
自分達の部屋。間違いなく、自分達の部屋だったもの。
それなのに、目の前で繰り広げられているモノは狂気の風景。
なによりも恐ろしい事は、刑を執行している人物を見ることだった。
見たくない、知りたくない、分かりたくなかったが。
この状況では彼以外考えられなかった。
今までも、思い当たる節は、確かにある。
確かにあったが――
「夕弥……。お前、なのか?」
呆然とした三雲の呟き。
目の前で繰り広げられているモノは、今までの彼との生活を破壊するに足るモノ。足元がおぼつかなくなる。
「初撃で気絶させられなかったのが彼らの落ち度でしょうねぇ。ああでも、夕弥君が気絶しなかった、と見ればそちらを誉めるべきなのでしょうか。お嬢様はどちらだと思います?」
そんな三雲を支えているのは皮肉にも柿崎だった。惨たらしい血まみれの世界においても、彼の不遜さは一つも損なわれていない。むしろ、だからどうしたと、頼もしささえも感じてしまうほどに、しっかりと自分を保っている。
「ま、どちらにせよこのままでは話にもなりませんし――」
柿崎がみつめるその先、ベッド上で苦悶に悶える白衣の男達の背を見て呟く。その狭間から柿崎と夕弥の視線が一瞬絡み合った瞬間、柿崎が顔を一つずらしたその場をボールペンが横切り、真横のドアに突き刺さった。
「どうやら今度はこちらに来るようですから――」
「く、何をするつもりだ柿崎――っ」
そう言葉を続けながら、三雲の腕のロックはそのままに、ぐっと彼女を巻き込むように引き付ける。なんとか抜け出そうとする三雲を右腕の膂力だけで押さえつけると、そのまま夕弥に向けて彼女の身体を前面に押し出し、盾にした。彼女より己の身体が大きいため、自然カバーしきれない部分が出来るが、急所さえ避ければと割り切る。
「これ、私の分なのですが、追加してみましょう」
その体勢のままスーツの懐に手をやり、黒の塊を取り出すと白衣の男たちに向け、手の中のそれを放り投げた。
「苦痛で諦めるほど、皆さんも甘い職業だとは思ってませんでしょうしね」
壮絶な笑みが白衣の男たちに向けられている。
指が鉄と合体した男が、涙と鼻水を垂れ流しながらも、無事な左手でまずそのスタンガンを空中で受け取っていた。夕弥を押さえ込んでいた右手の指の骨が飛び出た男は、頭のなかを掻き回される苦痛を喚き散らしながらも、なんとか無事なほうの腕を駆使し、使っていなかった自らのスタンガンを取り出す。
二人は一瞬の躊躇もなく、スイッチをON。電光をうごめく布団の先、再度化け物へと突き刺す。
紫電が迸る。
だが透らない。やはり、電光は少年を迂回するのみだ。
男達の視線を受け止めるのは、今だ仰向けのまま、首だけを起こした夕弥の視線。
柿崎へとボールペンが不可視の力により投擲されたとき、自分へと向けられた死の気配が遠のいた。が、それはこの数秒の事だけらしい。再びこの視線が注がれた瞬間、今度こそ死を覚悟した。
が、それを遮ったのは、まるで緊張感のないあの男の声だ。
「とはいえ――」
自分への注意が逸れた事を認識した柿崎は、三雲を一気に押しのけると、自由になった右手を一つ軽く振る。三雲は突如自由になった身体に驚きながら、なんとか踏みとどまり、今はただ、夕弥へと向き直る。
その視線の先で、
「二の舞では意味がありませんからね」
いつのまにか夕弥の眼前には銀色の柄の無いナイフが二本。
「見ていて分かったのですが。夕弥君もPKを行使する際には、意識しなければならないようだ」
白衣の男達の間を縫うように、それぞれが夕弥の右目と左目へと精密に投擲されていた。夕弥の目が更に見開かれる。
「まぁ処理速度の問題ですが。同時だと、どこまで行けますかね?」
柿崎の疑問に答えるように夕弥の眼前で二つのナイフが一瞬で弾け飛び、同時に男達への拘束が弱まり、致命的なものとして――
――夕弥の身体を電光が、滑り抜けていたのが、途端、全てが内側に、夕弥へと突き刺さった。
同時に夕弥の身体が一度、二度、三度、四度。
都合4回跳ねた。
それは絶えず最高威力で垂れ流されていた過剰な電気ショックによる痙攣。
一秒もない、夕弥の意識は果てに飛ばされた。
*
「片目は潰せると思いましたが……ふむ、惜しい」
気楽な柿崎の言葉とは対照的に、白衣の男達はそれを確認すると息を吐き、力を抜く。
死なずに済んだ。
誰とも言わないが、そんな安堵の空気が部屋を支配していた。
「……なぜ、お前がここに来た。報酬はもう払ったはずだがな」
その静寂の中、何も間に合わなかった、無力感に苛まれている三雲の、小さい声が部屋に響く。
それに応えたのは柿崎の声だ。
「……ああ。彼をね。ご所望なのですよ。とはいえ、こうなれば来ていただくのはもちろん貴方も、ですがね。お嬢様」
三雲は言いたい事がありすぎて、言葉に詰まっている。
そんな三雲の様子を感じ取った柿崎は、続けて話す。
彼にとってはただの雑談だった。
「普通だと始めの数秒で全て片がついていたはずなのですがね。ま、これぐらいでないと意味がありませんか」
「……夕弥は、ただの……子供だぞ」
だがそれに答える三雲には、全てが拷問だった。
昨日までは、いや、ほんの数分前までは当たり前のように言えたはずの言葉。
当たり前の言葉なのに、その意味が、身を切り刻む言葉。
今の三雲にとっては全気力を振り絞って、カラカラの喉から搾り出した、血を吐くような言葉。
そんな言葉も、彼は即座に否定する。
「目の前の現実から目を背けますか、その言葉は。第一、今だけではないのですよ。彼の活動は。思い当たりもないのですか?」
そこで初めて、三雲の顔が目に見えて歪んだ。
分かっている、知っている。
だが、だけれども。
今、助けるべきは、夕弥のはず、なのだ。
自分が間違っていようと、今は、ただそれを信じて何が悪いというのだ。
頭を一つかぶり、
ここだ。
ここだった。
今この一点を信じきれないならば、今までの事、全てが否定される。
ただ歯を食いしばり、柿崎の言葉に三雲は耐える。
「相変わらずですね」
柿崎は三雲の姿を見て思う。
昔から彼女はそうだった。自分は強いと、偽る事が上手かった。
自分をさらけ出してしまえば良いのにと。
柿崎はその時の彼女を、綺麗だ、と思うのだが。彼女はそれを良しとしない。
柿崎の微かな溜息に、三雲が顔を上げ、彼を正面から見返す。
先程の泣きそうな表情は、やはり綺麗だったのに。もう覆い隠してしまった。
その事実がますますツマラナイ。
「私だけならば、行こう。だが夕弥は」
「――納得しませんか。……ふむ、ではこうしましょうか」
だから少し皮肉を使ってみようと思った。
彼女にしてみれば、今まで全てが既に強烈な皮肉であるかもしれないが。
柿崎は楽しげに提案する。
「貴方が彼と同じものを受けてみて、耐え切れば私達はこのまま帰りましょう。何簡単な事でしょう? 彼が子供で、貴方が大人なら、これくらいは、ね」
――あまりにも過酷。いや、勝敗の分かりきったものを。
白衣の男がいつのまにか横に立っていた。手にはあの忌々しい黒い機械。それを柿崎が受け取る。
三雲は男達に囚われた夕弥を見て、状況を受け入れた。
受け入れるしかない。
その想いを告げようと口を開き、
「……やるならさっさとやればいい。だが――ん」
言い終わる前に唇を奪われた。
そして腹部に押し当てられる冷やりとした金属の塊。
抑えつけられ、強要される。
何も出来ない。
これではあの時と同じではないか。
その自分を変えるために私は――!
柿崎の唇がゆっくりと離れた瞬間、
「あっ……」
ただ一度、びくんと三雲の身体が一つ大きく震え、思考は断ち切られた。
*
男達に指示を出し、夕弥の運び出しを見取った後、力なくうなだれる女を抱き上げる。
人一人分の重さなど自分にとってはなんでもない。意識の無い人間を抱える重み、それさえも軽いものだ。
命の重みは仕事に劣る、それが彼、柿崎の信念だった。
しっかりとした足取りで部屋を出て、裏口から外へ。風の冷たさを肌に感じながら、表へ回る。
女を自分の車、その助手席に乗せ、最後に現場へと振り返る。
『冬馬動物病院』と飾り気の無い小さな看板が目に付いた。
『助けたい。何もしなかった自分が、何かをするために。やるつもりだよ、私は』
これが彼女の夢。
全てを投げ打って掴み取り、そして今、略奪された、夢。
手の中には女の温もりが残っていて、女性特有の柔らかさが思い浮かぶ。
『報酬は払ったはずだがな』
あれは苦し紛れの言葉だ。考えるまでも無い。
彼女も覚悟はしていたはずなのだから。
ただそれが少し早かっただけの事。自分は仕事を果たした。
「冬馬動物病院……。今日で閉業ですね」
柿崎の言葉はどこかつまらなそうで。
車が過ぎ去った後にはただ、彼女の夢の残骸だけが残った。
今日、彼女の夢は潰された。
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