「おそいひと」の主演として
ここで、映画の内容や筋書きに触れるのは、野暮なことです。それは観てのお楽しみです。
殺人犯を演じて
私は、殺人犯の役として演じています。映画での演技として、人を殺すということは、どうも違和感があり、ありえないことだから、演じながら、笑い出してしまったり、役者としては失格だと自分でも思ってしまうのです。
演技としての人殺しと実際の人殺しとは、違いますが、人殺しを演じたあとの、何とも言えない後味の悪さ。
殺人をやる人はどんな神経をしているのかということも思うし、戦争で国家の命令で殺人を強制させられる人たちの神経もどんなにつらいものだろうと思います。
幼いときの猫殺し
幼いとき、飼い猫を殺してしまったことがあります。
屋根裏部屋に住んでいて、その1階からその部屋に階段を一人で昇ろうとしていたら、その猫がじゃれ付いてきて、階段から落ちしまって、私の尻の下に入ってしまって、死んでしまったのです。
猫だから、身が軽いし、逃げられるはずなのに、よほど安心していたらしく、無防備だったと思います。
その猫が赤ちゃんのとき、母か誰かが拾ってきて、飼いはじめて、当時、「ちゃ子ちゃん」というテレビ番組が流行っていて、その猫に「ちゃこ」という名前をつけて、それまで一人で遊んでいた私の遊び相手になっていたのです。いつもじゃれあったり、ふざけあったりしていたので、階段から落ちたときも、その「ちゃこ」にとっては、そのじゃれあいの一つだと思っていたでしょう。
子ども心に、いや、子どもだからこそ、「命って、なんてはかなく、もろいものだなぁ」と思いました。
今でも思い出して、悲しくなってしまいます。
「死ぬ」って、何だろう。死んだあと,その命はどうなるのだろうと考え始めた最初のきっかけはその「ちゃこ」という猫の死を見てからだと思います。「生命の尊厳」ということを実感として感じました。
「ちゃこ」にはすごく気の毒な感じがしますが、私の人間としての感受性を育てていくためには、その「ちゃこ」は重要な存在だったのではと思います,
演じているとはいえ、人を殺すということは何か戸惑いや違和感を感じられます。
演技でなく、そのままでやれること
でも、殺人犯以外の私の役柄は、酒飲みで、女好きな男なのです。
それは地のままの住田雅清でいけます。酒好きもそのまま。女の子が好きなのもそのまま。本音を出したらいいのです。
夜ばいをするシーンもありますが、そんな機会がなかったから、していないだけで、もし機会があればしていたかもしれませんね。私は本当にエロ爺です。
女の人とは縁が薄い私なので、そんな夜ばいをする機会もなかったし,真剣に恋愛した経験もありません。片思いばかりなのです。そういう意味では、さびしく、悲しい人生だと思います。熱い恋愛がしてみたいと思う私なのです。
情熱を感じて
映画はすごく手間がかかるものですね。
わずか1分のシーンに数時間かけて撮っていく作業ですから、日数がアッという間に過ぎるのは当然だと思います。しかも役者さんやカメラマンなどのスタッフは他のアルパイトで生活費を稼ぎながら、映画に関しては何の報酬もなく、映画に熱中して取り組む姿。
その熱い思いを知っているから、少々の無理なことでも、「はい、わかりました」と言ってしまうのです。
この映画に私が出ることで、大変な迷惑をかけた人もいると思いますが、そういうことなので、お許しをお願いしたいのです。
出来上がった映画を楽しみにして下さい。
出来上がった映像を見て
テストの映像を見たときは、前半は私の生活のドキュメント風で、お笑いもあり、劇画を見ているような感じでした。
ところが、監督の柴田さんが編集しなおした公開する映画の映像を見終わったら、頭の中がクラクラするぐらい衝撃を受けました。
でも、何回もよく見ると、映画としては、見ごたえのある作品だなぁと言うことがわかりました。
以下は、上映会の挨拶として書いたものです。
上映会に御参集いただいて、ありがとうございます。
「おそいひと」という映画に主演として、出演させていただいたことは、役者としても名誉なことはありません。
何か、批判があれば、まずこの映画を見ていただきたい。役者は作品がすべてであります。役者に問われるのは、作品のなかの演技。それ以上
でもそれ以下でもありません。(普段は、障害者解放運動の活動家なのに、こんな偉そうなことを言っていいのかしら?)
さて、20年前に、私の家の近くにある西宮のえびす神社で、見世物小屋をやっていて、障害者差別・人権問題になってしまいました。
この神社は天皇家の先祖が障害児を産み、海に流し、たどり着いたのがこの神社のあたりで、その障害児を神に祭ったのが、この西宮えびす神社だということが、日本の神話にも出ています。その神社で障害者が見世物にされているということで、余計、大騒ぎになりました。
私もおそるそる、その小屋を見に行きました。おどろおどろしい看板、下劣で差別的な口上、だが、小屋のなかに入ってみたら、小人症の女の人が日常生活の何でもない動作や踊りをしていました。
私は「これが差別、差別と騒ぐことか?」と思いました。もし、あの看板や口上がなく、もっと日本の障害者の伝統文化として、位置付け、プロデュースすれば、評価も変わっていたはずです。
なのに、ただ差別だ、差別だと騒ぐ人たちを見ていると悲しくなりました。
そのことで、高名な先生方を招いて集会が開かれました。そして、たまらず壇上に駆け上がり、私は言い放ってししまいました、「あの見世物小屋でやっていることをアメリカのカーネギーホールでやったらどうですか」と。
集まった人たちはこの私の発言をどう思われたか、わかりませんが・・・・。
この映画についても、「障害者が殺人鬼として登場するから、障害者差別を助長する」と言われる方たちもおられるでしょう。では、日本の映画で今まで殺人を扱った作品はいくらあるか数えられたことはありますかとお聞きしたい。無数にあります。
この「おそいひと」はその一つに過ぎません。
しかも、カメラワークで、ものすごい芸術まで高められています。この映画は優れた文化作品だと誇りを持って言えます。
困難なことかも知れませんが、障害者が自分たちの文化を取り戻す作業が必要だと思います。そして、障害者も障害者の世界に閉じこもらず、もっと、いろいろな人たちと協力し合い、文化創造を力強くしていかねばならないと思っています。
最後に監督の柴田さんをはじめ関係者の方々に深く感謝申し上げます。
役者というより、解放運動の闘士みたいなことしか書けない私でした。あかんわなぁ。
ロッテルダム映画祭に参加して
2月27日より3月2日まで、オランダのロッテルダムで行なわれた映画祭に行ってきました。
27日の朝の7時半の関西空港行きの西宮北口駅発のジムジンバスに乗り一路、関空へ。
搭乗手続きをして、いざ飛行機へ。私がかなり不審人物と思われたのか、厳重なボディチェック。帰りのアムステルダム空港でも厳重なボディチェックを受けました。
飛行機に乗り込み、11時間半のフライト。一番きれいと思ったのは、雪を冠した日本アルプスの山々。まるでチョコレートケーキにお砂糖を降りかけた感じ。
ロシアの国土の広大さを実感しました、フライト時間のほとんどがロシア上空。
8時間の時差があるので、アムステムダム空港到着が午後3時。それからロッテルダムの映画祭のプレスセンターに行き、宿泊するパークホテルに着いたのは6時ごろになっていました。それから柴田監督が一足遅れて着いて、中華料理店に行き、夕食をとりました。やはり世界中、どこに行っても安心して食べられるのは、中華料理ということです。日本料理はまず過ぎて食べられないらしい。その日はそれで終わりました。
次の日は、取材の予定が3件あり、1つ目は私と柴田監督と2人で。2つ目は監督だけ。3つ目は主に私が答えるという形になりました。そして、ブレスセンター前で撮影された写真が、ディリ−・タイガーという映画祭の新聞のトップに載りました。
その夜の10時半に映画『おそいひと』の上映会があり、監督と一緒に舞台挨拶をやりました。上映された映画館はかなり大きなホールで西宮の市民会館の大ホールぐらいはある。そのホールがほとんど埋まっているという状態でした。こんなに夜遅くにこんなに人が集まるなんて日本では考えられないことです。
翌日は予定が何もなかったので、午後から私が会員である宗教団体のオランダの文化センターに散歩がてら行くことにしました。それが大冒険になりました。
ロッテロダム駅に行って切符を買おうとしても買うところもわからない、探し探し切符売り場を見つけて、切符を買ったのはいいが、その駅は大きな駅で15番線ぐらいあり、どのホームから乗ればいいのかわからない。優しそうなおばさんをつかまえて聞くと、教えてくれて、乗り込んだけど、しかし、この列車が急行なのか、各駅停車なのかもわからないまま、介護者の坪井さんが大きい声で話すなので、前に乗っていたおばさんが唇に手を当てて「シー!」、座席の横に書いているオランダ語で「車内ではお静かに」(らしい)というプレートを指差して座られました。この国は公共の場のマナーはちゃんとしないとならないことを感じました。
親切な女の人がいて、「行きすぎていますから各駅列車に乗り換えて戻って」と教えてくれました。
オランダの幹線の列車は出入り口に3段ぐらいの段差があり、車椅子での列車の旅行は不便です。街中にはトロリーバスが走っていて、高齢者や軽度の障害者には使いやすくなっているようです。足の不自由な人はよく見かけましたが車椅子に乗っている人は空港で一回だけ電動車椅子に乗った人を見かけただけでした。オランダの障害者の外出はどうなっているだろうという疑問が湧きました。
駅からタクシーでその会館に行き、ちょうど青年たちの集会があったあとで、その集集会に携わった役員のメンバーがおられて、そのメンバ−と交流ができました。
そのなかにはアフリカ出身の方、マレーシア出身の方がおられて、管理している人は大阪出身の方で、国際色豊かで面白かったです。
日本人の方がロッテルダムまで帰るので、一緒に行きましょうと言われる人が現れて、あの乗りにくい列車で帰らなくてすむと思うとありがたい事でした。
その夜の夕食はまた中華料理で日本から来られている監督とかプロデューサーとかお歴々が集まった会食。なんか私と坪井さんがいるのは場違いな感じがしました。でもおいしく料理は食べました。
次の日は午後3時から「おそいひと」の上映会があり、それまでに時間があったので、日本の若手監督が製作した「青い車」という映画を見ました。コミック(漫画)から映画化した作品なので何か不思議な感じがした作品でした。
そして「おそいひと」の上映の番、最初の挨拶と上映が終わった後の観客の質問に答える場面があり、中途半端なことしか答えられなくて反省しています。
夜は映画祭のコーディネーターの相原さんが気を使って、せっかくオランダに来たのだから、オランダらしいところで夕食をしましょうと言われて、「レストラン・ニューヨーク」で夕食をとりました。
ロッテルダムの港でここからニューヨークに行く船が出たという知る人は知る有名な場所のようでした。
そのときに私は眠くて半分寝ていたような感じ、余り話にのれませんでした。
滞在最後の日、相原さんは空港まで来てくださって、搭乗手続きや土産のアドバスなど最後まで大変にお世話になりました。
そして、飛行機に乗り、2月2日、無事に日本に帰ってきました。
私はのほほんとしていたけど、介護者の坪井さんがすごく気を使われたと思います。この場を借りてお世話になりましたとお礼を言います。
ヨーロッパに行くなど一生にないことが当然で、貴重な体験をしました。今回、ドサクサ紛れに強引に行けたという感じがします。
遊び雲の室谷さんをはじめ色々とお世話になった方々に心からお礼を申し上げます。
公式サイトよりの引用
introduction
あらすじ
住田雅清。重度身体障害者。介護者のサポートを受けて、一人暮らしをしている。
電動車椅子で移動し、ボイスマシーンで会話を交わす。ガシャポンを好み、オバハンの介護者と罵りあい、介護者タケとつるんで遊ぶ。タケのバンド仲間達の間でも、すっかりお馴染みの存在になっている。
それなりに平穏な日々を過ごす住田のもとに、大学の卒業論文の取材のために、介護を経験したいという敦子が現れる。
新入りの介護者が来くる。そんな経験は何度もしている筈の住田の中で、何故か、住田自身にも整理しきれない違和感が少しづつ肥大し、加速していく。
住田の相談を受け、住田を案じる年長の障害者福永。住田の日常は、表面上は何ら変わりなく続いていく。
ある日、住田は、ひとつの計画を決行する。住田の中で、どんな決意があったのか、何故、そんな行動に出たのか。それは誰にもわからない。
柴田剛 略歴
1975年、横浜に生まれる。
中学時代から、8mm映画を撮り始める。
大阪芸術大学映像学科に入学し、在学中に熊切和嘉監督作品『鬼畜大宴会』(97)、山下敦弘監督作品『腐る女』(97)の製作に協力。また、高岡茂監督作品『ベイビー・クリシュナ』(98)の助監督を務める。
モントリオールで開催された「ファンタジア2000」で上映された短編映画「ALL YOU CAN EAT」を経て、99年、16mmによる長編映画『NNー891102』を監督。同作品は2000年ロッテルダム映画祭でも上映された。
『おそいひと』(04)は長編第2作となる。
1999年春。
柴田は、『NN-891102』を映画祭等に出品、自主上映しながら、次回作を模索していた。柴田は当時、芸術集団“DMT”に加わっており、そのメンバーで、阪神障害者解放センターの職員だった仲悟志が、上司の住田雅清を柴田に紹介する。
障害者の自立支援、障害者解放という住田の活動について話をする中で、障害者とは一体どういう存在なのか、障害者が犯罪を犯した場合、どんな扱いを受けるのかという話題になる。
住田の身体性と暴力、身体障害者と暴力をテーマにした物語は、充分成立するのではないかという発想が生まれ、住田も映画出演に興味を示したため、住田を主人公に、身体障害者が犯罪を犯すという映画の計画が持ち上がる。
この計画は、若手芸術家へのパトロネージュを主旨とする、『もちの木基金』からの協賛を受け、程なく撮影の準備が始まる。もちの木基金の主宰、寺内氏が、神職だったこともあり、近代以前、歴史的な日本の障害者観に関して、多くのアドバイスを受ける。
住田の存在感に負けない配役を目指し、介護者タケに、バミューダ★バガボンドのボーカル、堀田直蔵。女子大生介護者、敦子に維新派のとりいまりが決まり、人が人を呼ぶ形で、大阪芸術大学出身者を中心にスタッフが集結。夏、撮影に突入。冬には、ほぼ全ての撮影は終了するものの、少数のスタッフによる追加撮影と、編集作業がはじまる。
2002年、ライブドキュメント「ALL CRUSTIES SPENDING LOUD ROCK 2002」を制作中に、MCRcompanyからSHIMA FILMを紹介された柴田が、SHIMA FILMEに『おそいひと』の計画についてプレゼン。以後、難航していた作業を、SHIMA FILMが支援することとなり、2004年、映画として完成する。
2004.11.20 update
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