Shinya's Room
闘病回想日記

がんばれば、必ず病気が治って元気になれると信じて、最期の最期まで闘い続けた
慎也の約一年に及ぶ闘病生活を振り返り、回想日記として綴りました。



「ここに書かれてある記録は、1人の患児のほんの一例です。
慎也は、残念ながらこういう結果になってしまいましたが、元気に退院された方もいらっしゃいます。
今、闘病真っ最中の方がこれをご覧になっても決して悲観なさらないでくださいね。」




白血病についての詳しい説明、治療法などについてはこちらへ



98年11月〜99年3月  99年4月〜5月  99年6月〜8月  99年9月〜10月

子どもの長期入院に伴う問題点


 99年6月〜99年8月 


6月4日

移植後始めて院内学級の教室に登校しました。
なんかなつかしいなぁ・・・。点滴台をガラガラと引っ張りながら、廊下をまっすぐ行って
突き当たると教室があります。慎也にとってここは、とても楽しい場所でした。
考えてみると、楽しいこともたくさんあったなぁ・・・。入院生活の中にそういう時間が
持てたということは、本当に良かったと思います。





6月8日

インターフェロンの注射が始まりました。インターフェロンは副作用として
熱が出るらしく、あらかじめ解熱剤の座薬を入れてから、注射をしました。
土、日を除いて毎日注射をします。でも、これも2週間と少し続いたのですが、
副作用の熱と白血球の減少等により、一時中断となりました。



7月2日

インターフェロンは、6月22日を最後にいったん中断されたのですが、
注射をした部分に水泡が出来て、潰れたと思ったらまた出来ての繰り返しでした。
菌が入らないように消毒をするのですが、潰れた後は余計に痛いらしく、
これもまた一苦労でした。あれはいったい何だったのでしょうね。
ウイルスの検査などもしましたが、特にこれといって何も見つかりませんでした。



7月6日

七夕祭りの日です。
午前中は院内学級の教室で、午後からはプレイルームで行われました。
院内学級の方は、最初に笹の葉に飾り付けをして、それから歌をうたったりビンゴゲーム等をしました。
プレイルームでは、研修医の先生方の演芸大会?やスーパーボールすくい等をしました。
とても楽しい一日でした。

  



7月8日

この頃から、インターフェロンの注射跡に出来ているような水泡が、
お腹の回りや太もものあたりにも見られるようになりました。
しかし、どうも原因がわからないので、15日に皮膚科で生検をしたところ、
とてもめずらしい特殊なGVHDではないかということでした。
でも、本当のところどうだったのかは、よくわかりません。
そして、この日から結果が出るまでのしばらくの間、
病室から外に出られなくなってしまいました。



7月22日

19日〜21日にかけて38℃〜39℃台の熱が出ました。
原因として、IVH感染が疑われるということで、IVHを抜去しました。
どちらにしても、退院する時には抜去しなければならないし、また、
退院するためには高カロリー輸液に頼らずに、口から食べていかないといけないので、
ちょうどその時期にきていたのかもしれません。
でも、IVHがなくなってしまうと、点滴や採血の度に
腕に針を刺さなければならないので、その点は不便でした。
(結局、再発してしまったので、またIVHを入れることになるのですが・・・。)



7月31日

主人が夏休みだったので、付き添いを交代していました。
でも私達は、毎日慎也の様子を電話で連絡し合っていたのです。
この日もいつもと同じように、電話で採血の結果を聞きました。
そしたら、白血球の値が7640だと言うのです。私は、え〜〜〜?と思いました。
なぜなら、いつも3000前後をうろうろしていたからです。
「おかしいなぁ・・・。なんで急に7000台なの??」
主人は、「急に立ち上がってきたんやろ」と、言います。
確かにもしそうだったとしたら、とてもうれしいことです。
でも、私の頭から「なんかおかしい・・・」という思いは消えませんでした。



8月1日

この日の白血球は、10000を少し越えていました。「やっぱりおかしい・・・」と思い、先生に
「今、立ち上がってきている白血球は、悪い細胞じゃないんですか?」と、恐々聞いてみました。
すると先生は「IVHからの感染が取れて、正常に立ち上がってきたんでしょう」と、
おっしゃいました。いくらそう言われても、私の中で「これはもう、絶対に変だ」という
不安な気持ちは、どんどん大きくなっていくばかりでした。



8月2日

白血球、20480。やはり、私の悪い予感は的中してしまいました。
どれだけ、取り越し苦労であってくれと思ったことか・・・。
「再発」です。もしかして?と思っていたとはいえ、この時のショックというものは、
何にも例え様がありません。発病した時に、地獄の底に叩きつけられて、
どうにかここまでがんばって這い上がってきたのに、
もっともっと深い奈落の底へ放り込まれたとでも言ったらいいのでしょうか・・・。
でも、私が落ち込んでいては、慎也はどうなるの?落ち込んでなんかいられない。
さぁ、これからのことを考えないと・・・。もう、頭の中はぐちゃぐちゃ状態でした。
でも、それを慎也に気付かれないように、いつもと何も変わらない態度でいないといけません。
苦しかったです。辛かったです。慎也の笑顔を見ていると、涙があふれてきます。
でも、ぐっとこらえて笑顔を見せます。主人と相談して、再発したということは、当分の間
私達の親、兄弟にも内緒にしておくことに決めました。もうすぐ退院してくると言って
喜んでいるみんなには、とても言えませんでした。

この日からインターフェロンを再開しました。(5日間のみ)



8月6日

3度目のIVHを入れる手術をしました。
緊急ということで、手術室が空いている時間に入れるということでした。
だいぶ待って、結局はお昼過ぎてからになりました。全身麻酔をすると、
喉がとても痛くなり声がガラガラになります。今回もそうでした。
でも、この日は病棟の花火大会だったので、先生の許可を頂き、
つい数時間前まで全身麻酔がかかっていた体で参加しました。
車椅子で病棟裏の駐車場の横まで行き、花火をさせてもらいました。
私の気持ちのどこかで、そうは考えたくないのですが、やはり
「もしかしたら、これが最後の花火になるかもしれない・・・。」という思いがあったので、
どうしても参加させてあげたかったのです。
結局、本当に外に出るということも含めて最後となってしまいました。
あの時のうれしそうな顔は忘れられません。
これ以外にも、病棟の窓からいろんな所の花火大会を見ました。
私は、その度に「これが最後になるかも・・・」という、
とても悲しくて辛い思いに襲われました。でも、すぐに
「いや、そんなことあるはずがない。慎也が死ぬなんてことあってたまるか!!」と、
弱気な心を打ち消すんです。花火の美しさとこの気持ち・・・。
あまりにも両極端で、とても複雑な時間でした。そんな私の横で慎也は、
自分に襲い掛かっている現実を何も知らないまま、楽しそうに花火を眺めているのでした。





8月7日

経口の抗がん剤治療が始まりました。3種類の抗がん剤を服用していたのですが、
これを始めてから、すごい下痢に苦しめられました。
他の薬も合わせると、12〜13種類も飲んでいたのですから無理もありません。
食欲もほとんど無く、「少しでも食べて」と言って、無理やり食べさせているような状態でした。
それでも、薬だけはしっかりと飲まなければならないので、
お腹の中は、ほとんど薬だけだったのではないでしょうか・・・。
あの時は、一体、何だったら食べてくれるだろう?と、そればかり考えていたような気がします。
ベビーボーロが主食になっていた時期もありました。
まだ再発する前に、ディールームで家族みんなでピザを食べたことがあるのですが、
その時に慎也が、「家族みんなで食べたらおいしいなぁ・・・」と言っていたので、
もう一度、みんなで食事ができるようにがんばらなくては・・・と、ずっと思っていました。
こんなに大変な思いをして、必死で薬を飲んでいるにもかかわらず
あまり効き目はありませんでした。
そして、少しずつ抗がん剤の量を増やして、白血病細胞を減らすことはできましたが、
やはりそれにも限界があるということで、結局は、再移植をすることになったのです。

8月中は、こういう状態が続きました。でも、下痢と食欲不振を除いては、
先生が「元気やな〜!?」と驚かれるほど、明るく元気に過ごしていました。
院内学級の夏休みの宿題も、しっかりと全部終わらせました。





8月31日

部屋が個室に変わりました。にぎやかだった総室を出て、さびしい個室に・・・。
でもこの時はまだ、個室に変わることの真意を、はっきりとは理解していませんでした。