Shinya's Room
闘病回想日記

がんばれば、必ず病気が治って元気になれると信じて、最期の最期まで闘い続けた
慎也の約一年に及ぶ闘病生活を振り返り、回想日記として綴りました。



「ここに書かれてある記録は、1人の患児のほんの一例です。
慎也は、残念ながらこういう結果になってしまいましたが、元気に退院された方もいらっしゃいます。
今、闘病真っ最中の方がこれをご覧になっても決して悲観なさらないでくださいね。」




白血病についての詳しい説明、治療法などについてはこちらへ



98年11月〜99年3月  99年4月〜5月  99年6月〜8月  99年9月〜10月

子どもの長期入院に伴う問題点


 99年4月〜99年5月 


4月1日

移植のためにクリーンルーム(移植部屋)に移りました。
しばらくの間、白血球がゼロまたは非常に少ない状態が続くので、
感染予防の徹底をしなければなりません。
荷物は最小限にして部屋に入れる前に全て消毒し、慎也も消毒風呂に入り
全身を消毒済みのガウンでくるんで部屋に入りました。
それでも、テレビやビデオ、ゲーム機等の持ち込みはOKでした。
これらのおかげで随分助かりました。

これから1ヶ月間、ベッド上のビニールカーテンで囲んだ部分だけでの
生活になります。私も慎也に触れるときは、手をきれいに消毒して
消毒済みのガウンと帽子を着け、マスクを二重にしなければなりません。
もちろん、先生や看護婦さんもです。はっきり言って本当に大変でした。
トイレもべッド上のビニールの囲いの中でしなければならないし、
便器や尿器も使用前後に消毒します。
部屋内での付き添いの食事は禁止されているので、慎也の状態を見ながら
大丈夫そうな時を見計らってディールームで素早く食べるのです。
それと、付き添いの私達が毎日部屋の掃除をします。
消毒液に浸けた雑巾でのベッド回り等の拭き掃除と、
消毒液が出てくる専用のモップでの床のそうじです。
もちろん、化学療法後の白血球減少時の時と同様に、トイレ後のお下の消毒や、
慎也が使う全ての食器やハブラシ等の消毒もします。
慎也にとっても、私にとっても、ストレスがたまり息が詰まるような生活が
始まりました。でも、本人が無菌室に入って、私達は部屋にも入れないと
いう状態に比べれば、ず〜っと側で付き添えたのでよかったと思っています。



4月2日

この日から5日まで大量化学療法を行いました。
点滴や飲み薬も増えて、とても辛い日々が始まりました。
点滴のチューブも多すぎて、いったいどれがどれなのかわからないような状態でした。
なんかぐちゃぐちゃにからまってしまうし、とにかくこれだけの薬が
体の中に入るんだと思うと、ゾッとしました。

お兄ちゃんの3回目の自己血採取をしました。
今回は、確か400ccを採って、一番最初に採っていた200ccを
戻したと思います。(新しい血液を残しておく為)
いよいよ、移植まで後1週間となりました。お兄ちゃんは、この時期私の実家へ
預けていたのですが、私の両親は、大事なドナーを預かっているため、
お兄ちゃんの健康管理にものすごく気を使い、まるで
腫れ物に触るみたいだったらしいです。ほんとに、ご苦労様でした。



4月8日

お兄ちゃんが入院して来ました。とにかく無事に入院してくれてホッとしました。
あとは、骨髄採取を待つばかりです。
そして、二人に一人ずつ付き添う為、主人もこの日から病院に泊まりこみました。

慎也も、白血球がほとんど無い状態であるにもかかわらず元気にしていました。



4月9日

お兄ちゃんは、朝一番に手術室に入りました。
お兄ちゃんには当日になるまで、全身麻酔をして手術室で骨髄採取をするということは
言っていませんでした。余計な不安を与えたくなかったからです。
朝になってからその話をして、あれよあれよという間に手術室に行くことになりました。

もし、骨髄液の採取量が多くなって、前もって採っていた自己血を戻すだけで
足りない場合は、輸血をすることになるかもしれないと聞かされていたのですが、
予定通りの採取量で、慎也への移植に必要な造血幹細胞が採れたので
しなくて済みました。できることなら輸血はしたくなかったので、
本当に良かったです。それと、全身麻酔をすることにも不安はありました。
全く問題が起こらないという保証はありませんでしたから・・・。
そして、実際に問題が起こってしまったのでした。

骨髄液の採取は、ボールペンの芯ほどの太さの穿刺針を腰の骨に突き刺し、
注射器を取り付けて吸引するのです。
穿刺針の先端の角度を変えながら、規定量が採取できるまで、
数十ヶ所から百ヶ所程度は突き刺すことになります。
そのため、骨は穴だらけになってしまいます。皮膚の方は2〜6ヶ所の穴ですが・・・。
お兄ちゃんもほんとによくがんばってくれました。

こうして採取した貴重な骨髄液を、慎也に移植したのです。
移植自体は、いつもの輸血をするようなものなのでスムーズに終わりました。
お兄ちゃんから慎也への「命のバトンリレー」です。
後に、慎也の血液型は、A型からお兄ちゃんの型であるB型に変わりました。
慎也の人生の中でも最高のプレゼントをもらったのだと思いました。
あとは、お兄ちゃんの造血細胞が、一日も早く慎也の体の中に
生着してくれるのを待つだけでした。

お兄ちゃんに全身麻酔による問題が起こったと書きましたが、
呼吸器の挿管によって喉が傷つけられたのと、麻酔薬の副作用で
喘息が出てしまったのです。元々喘息持ちというわけでもないのですが、
そういうことになってしまいました。その為、一晩中苦しむことになったのです。
とんでもないおまけがついてしまいました。
この日は、私がお兄ちゃんに付き添っていたのですが、夜中に慎也の状態を見に行くと
よく眠っていたので、(慎也には主人が付き添っていました)
こちらの方は、とりあえず一安心でした。

3月26日に移植前処置が始まって、やっとday0(移植日)が終わったのでした。



4月11日

お兄ちゃんが退院しました。まだ、体調は元に戻っていませんでしたが、
一応予定通りに退院することになりました。でもこの日は、
家に帰ってからも相当しんどかったみたいです。



4月20日

移植後10日が経過しました。
相変わらず白血球は、ほとんど0に等しい状態が続いています。
移植した造血細胞が生着して、白血球が立ち上がってくるまでにだいたい3週間程度
かかるので、まだ当然、ベッド上のビニールカーテンの中での生活です。
12〜13日にかけて、38℃台の熱が出ましたがその後治まってくれました。
GVHD(移植した骨髄中に含まれる骨髄提供者由来のTリンパ球が、移植された側の
体を適とみなして攻撃する)は、ほとんど全くといっていいほど出ていません。
GVHDは、出過ぎると命に関わるし大変なことになりますが、程々のものが出てくれると、
まだ体内に残っている悪い細胞も攻撃してやっつけてくれるので、その方が良いのです。
慎也は再発し易いタイプだったので、その程々のGVHDが出て欲しかったのです。
でも、お兄ちゃんと慎也の白血球の型(HLA)は、遺伝子レベルまでぴったり合っていたらしく、
結局GVHDは出ないままでした。もちろんその分、慎也の体へのダメージも
少ないし、白血球も立ち上がりやすいのですが・・・。
仲が良すぎて、けんかをしてくれなかったようです。

慎也と私は、毎日飲み薬と格闘していました。
口の中の粘膜障害と吐き気は、ほんとに辛そうでした。
いくら吐いても、胃の中に30分以上収まるまでは飲み続けなければなりません。
まるで地獄のようでした。そんな苦しい思いをしながらも、
吐きながら「ごめん、ごめん」と、謝るのです。
きっと、吐いてしまうと、私にまた手間をかけることになると思っていたのでしょう。
謝らなければいけないのは、私の方です。
ほんとに、ごめんね・・・。



4月23日

この日から10日間程、38℃〜40℃の熱が続きました。
その間、左の背中からわき腹にかけての痛み(結局、急性膵炎だった)や、
出血性膀胱炎、真菌感染の疑い、体内の水分貯留、鼻の両方からの出血などがあり、
とてもしんどい日が続きました。でも、この時期の後半から、
待ちに待った白血球が立ち上がり始めてくれました。



5月1日

白血球が500になりました。これで一安心です。
私がこれまで生きてきた中で、こんなにうれしいことはありませんでした。
しんちゃん、ほんとにほんとによくがんばったね。でも、このときはまだ
出血性膀胱炎のため、とても痛く辛い思いをしていたのですが・・・。
なんか考えてみると、この1年間で、一番うれしい事と一番悲しい事を両方
経験したのですね。このうれしさは、他のうれしさとは比べ物になりませんでした。



 5月2日

お兄ちゃんの造血幹細胞が慎也の骨髄の中に生着して、
血液を造りはじめてくれました。この日の白血球数は、800でした。
と、いうことで感染症対策の一番厳しいA体制からC体制に変わりました。
これで、やっとビニールカーテンが外れました。
私達のガウンや帽子、二重のマスクなどもいらなくなりました。
(一重のマスクは、常に必需品でしたが)
ほんとにやれやれでした。



5月6日

プレイルームで、病棟の「子供の日の催し物」がありました。
まさか、慎也は参加できると思ってなかったのですが、主治医の先生が
「しんちゃんが参加したかったら、行ってもいいよ」と、おっしゃってくださいました。
「え〜!! 行ってもいいんですか〜???」という感じで、ほんとにびっくりしました。
それで本人に聞いてみたら、「行きたい」って言うので、ストレッチャーに乗って
点滴台を引っ張りながら、移植後始めて室外へ出ました。
プレイルームの中には入れなかったのですが、廊下の窓からみんなに
「出て来れたよ〜」と、手を振りました。みんなとても喜んでくれました。
私も、とても感激しました。



5月10日

病室での院内学級の授業を再開しました。
この日の白血球は、5,890です。
3月26日に移植前処置が始まって、やっとここまで来ました。
ここまで来るまでに、慎也は大変苦しい過程を乗り越えました。
慎也の辛さを思えば比べ物にならないとは思いますが、私達もはっきり言って
とてもしんどかったです。精神的にも肉体的にも・・・。
ドナーになってくれたお兄ちゃんをはじめ、家族みんなが、ほんとによくやったと
思います。主人も、会社に通いながらもよく協力してくれました。
私一人では、とてももたなかったと思います。
これからは点滴の薬の数も、一つ減り、二つ減りと、どんどん良い方向へ
向かっていきました。この時は、このままずっと順調に経過し、
3ヶ月後ぐらいには退院出来るものだと信じていました。



5月24日

めでたく4人部屋へ移りました。
移植後4人部屋に戻れたということは、「退院」の日が近づいて来たと
いうことなのです。先生や看護婦さんからも、「退院」という言葉が
聞けるようになりました。でも、慎也の場合は、GVHDが
ほとんど全くと言っていいほど出なかったので、今度は再発防止のために、
GVHDを出すように免疫療法をしなければなりませんでした。実際やり始めたのは
6月に入ってからですが、インターフェロンの注射をすることになったのです。
またこれが、とても痛い注射でした。病気を治すためとはいえ、
ほんとに次から次へと辛い思いをさせてしまったのです・・・。





5月25日

病棟内移動自由となり、入院以来始めて1階にある売店に行きました。
そして、これが影響したのかどうかはわかりませんが、早速40℃の熱が出てしまいました。
せっかく4人部屋に移り、売店にも行けるようになったというのに、とてもショックでした。
この熱は、それから3日間程続きました。